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たいち君の場合(6)

お互い近くに住んでいるにも関わらず、僕たちのリエゾンはますます細くなっていった。彼が就職活動で苦しんでいる頃、ある日僕は、所用でいつもの駅に行った。上り電車のプラットホームで、たしか階段近くで電車を待っていた。そのとき僕は、ブラームスが作曲したヴァイオリン・ソナタの1番「雨の歌」を聴いていた。もともと僕でも知っていた曲だけれども、たいち君は、チェロとピアノ用に編曲された「雨の歌」があることを教えてくれた。僕はその時、そのチェロ版を聴いていた。

これは最晩年のブラームスが、思い出したかのように、急にチェロ向けに編曲したもので、密かな愛を向けていた人に献呈されたらしい——。たいち君はこんなことも教えてくれた。そんなことを言われたら、何だか僕は、元々のヴァイオリンとピアノの組み合わせよりも、このチェロ版が好きになった。

ふと何かを感じて振り向くと、スーツを着た彼が階段を登ってきた。やぁ、と声を掛けると、本当に久しぶりで驚いたのか、彼は「お久しぶり!」と明るく返してくれた。僕と同じ電車に乗るらしく、電車が来るまで色々なことを話した。就職活動がうまくいかず、第一志望の業界に入れそうにないこと、今のところ内々定をもらえたのは、全く不本意な小さな商社であることなど、彼は色々と漏らしていた。
注:これは前回の「たいち君の場合(5)」で書いた。

たいち君で自分を慰める日々が続き、さらに「彼の実体が不明である」がゆえのモヤモヤは増えていく一方なのに、そのときの私には、気になっている男性がいた。また節操がないことに(性欲・性的な交渉を想定しない)女性もいた。仲良くなりたい・お近づきになりたい女性がいたのだ。彼の就職活動に関する暗い話題を変えようと、僕は——今にして思えば「二重に」辛い心境にあった彼への気遣いを、私は完全に失していた——、その男性を女性に変換して「女心はよく分からないん」とか「ある時に言われた言葉の意味が、今でもわからない」といった程度の、あたかも軽い恋愛相談というか、くだらない話をした。少なくとも私は、くだらない話をしているつもりであった。

彼は、ため息交じりの諦めたような表情で、それでいて、目元に優しさを含ませて「女でもできたか」と言った。それも、若干の作り笑い、口元に悲しさや悔しさを含ませたような、ぎこちない作り笑いを添えて——。そのとき僕は、その作り笑いに、明らかな焦りが含まれていることを咄嗟に見抜いた。見抜いてしまった。僕は焦った。

やってしまった。僕はまた、やってしまった。

その場の気まずい雰囲気を変えるため、例のチェロ用に編曲された「雨の歌」の話をした。自分を落ち着かせるように、しみじみと話した。もちろん心の中で「ごめん、たいちよ。たいち、本当にごめん」と必死で謝りながら。「僕は原曲も好きだけれども、チェロ版の方がもっと心に響く。チェロの方が曲想に合っている気がする。例の再現部で転調する箇所は、原曲が戻ってくるような感動がある。それはまるで、ずっと想っている人に再び会えたような、懐かしさやしみじみとした感情と似ていて、心を抉られるように感じる。いつかこの曲をたいちに弾いてほしい。伴奏は僕がするよ」。

こんな風に(おそらく僕も焦った笑顔で)話しかけてみるも、彼は例の悲しさを含ませた作り笑いを添えてこう答えた。

いや、伴奏は母にしてもらう——。

たいち君のお母さんはピアノの先生だった。一度お会いしたことがある。僕がピアノをやっているということで、あるコンサートに誘ってくれた。「音楽に興味がない、うちの息子を教化してやってくれ」と。僕はたいち君と二回だけ仲良くコンサートに行ったことがある。最後に二人で行ったのは、ショパンのピアノ協奏曲第2番がメインのコンサートだった(「草の花」みたいですね)。僕がピアニストの手元が見たいということで、ホール左側の舞台に近い席に二人で座った。どっちが肘置きに肘を置くのか、みたいなドキドキがあって、結局ずっと肘をお互い密着させたまま、ショパンを聴いていた。舞台が近くてはしゃぐたいち君、そういえば、そのあと仲良く帰って、彼の部屋で作ってもらった夕食を食べた、書きながらこんなことを今思い出した。

さて電車が来た。扉が開き、僕は乗り込んだ。振り返ると彼は、そこに立ったままであった。僕が、あれ、と言おうとしたとき、それに重ねるようにして彼は「他の用事があるから、違う電車に乗る」と言い切った。僕は事態の急変がつかめず「そうか、それじゃ」と小声で、辛うじて答えた。

扉が閉まる。僕は軽く手を振った。彼は、例の作り笑いをしながら、振り返す。電車が動き始めた。すると彼は、すぐに踵を返し、電車とは反対方向に歩いていった。歩くのが明らかにいつもより早い。どんどん小さくなっていく彼の背中を見た瞬間、僕がつい先ほど,何かしらの大きなの過ちを犯してしまったことを悟った。いや、確信してしまった。僕はまた、やってしまった。やってしまった。

彼の顔を見たのはこれが最後であった。
僕の記憶によれば——。

(7)に続く。

Yundiは相変わらずかわいいなー。
たいち君はこの曲が好きでした。僕が彼の前で弾く機会は、結局ありませんでした。



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