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既婚ゲイと(も)家なき子

今日はオフ(妻は不在)で、天気もとても良かったので、知り合いのデザイナーさんと早めのランチをした後、そこのサンドウィッチを片手に、書店・古書店巡りをしたあと図書館に行ってきました。街中に出てみると、コロナは収束、街も人も、色々なお店も「もはや自粛ではない」といった雰囲気で、改めて驚きます。本当ならば「不要不急」の外出なので、控えるべきところだったのでしょうが、久しくお会いできていなかった(こっちの雰囲気がビシビシと出ている)デザイナーさんとのランチということで、街を歩く(好みのかわいい)高校生・大学生やサラリーマンたちに目移りをしつつ、つい外出をしてしまいました。早めのランチで人は少なく、ゆっくりとすることができました。

マスクと首にかける抗ウィルスカード(多分おまじない)、手ピカジェルも持参して外出し、移さない(もしかしたら僕は、抗体を持ちつつあるのかもしれない)・移されないを意識しながらも、屋外席でつい会話に華が咲いてしまいました。古書店では、気になっていた詩集とエッセーを買いました。はてこの詩集を、ゆとりを持って読める時間なんてあるのだろうか、なんて自虐気味になりながら(See also “既婚ゲイの眼光”)。

図書館はさすがに厳しくて、入退館時の手指の消毒はもちろん、検索システムの利用はxx分以内、図書館員との会話は最低限(=話すな)、司書との調査相談はyy分以内、滞在時間はzz分以内といった風で、徹底されていました。館外近くの公園にふらふらと散歩ついでに行ってみました。テーブルやベンチがあって、小さな子を連れたお母さんや、暇を持て余した(行くところがなくて取り敢えず来た、団塊あたりの)ご老人たち、外出ついでに休憩しているサラリーマン、色々な方々がいました。テーブルが一つ空いていたので、さっき買った古本を片手に「小田島雄志、面白いなー」なんて思いながら、おやつ代わりにサンドウィッチを頬張っていました。

「よろしいかー(関西弁)」と声をかけられました。同席を乞う一声でしょう。一瞥もせず「どうぞどうぞ」と言った後に、ページに落としていた視線を上げると、目の前に現れたのは、老いた「家なき子」でした。ヨレヨレ・ボロボロで汚れた服、日焼けした肌、手入れをしていない頭髪(杜甫の「渾欲不勝簪」的な!?)、無造作に生えているごま塩髭、何が入っているのか判らないの謎のバッグ——、どう好意的に見ても、明らかに「家なき子」だったのですが、雰囲気(≠着ているもの)からは、漠然とした品と知的なものを感じました。

サンドウィッチを頬張るとき、ページを捲るとき、ついチラチラと彼を観察してしまいました。お年は、どうだろうか、70代を超えている気がする。もしかしたら、もうすぐ八十の声を聞きそうなお年かも、とすら感じました。それにしても、この辺りに「このような方」がいることは、とても珍しいことです。びっくりしました。

そのご老人は、バックから大学ノートと参考書か何か(A5サイズな感じ)を出し、先が丸まった、そして軸のいたるところが凹んでいる鉛筆を手にして、少し大きく、お年寄りが書きがちな揺れた文字と、数式を書き始めました。ノートもテキストも至るところが手垢で汚れています。参考書はどうやら高校の数学(数II?)のようで、真剣な目付きで問題に取り組んです。私が妻を射抜くよりも鋭い目つきで。鉛筆が止まりました。

「お兄ちゃん、よろしいか。学生さんかー?(関西弁)」
まだまだ学生でもいけるのね♡(嬉)、なんてGでありがちな「若さへの執着・執念」が満たされ上機嫌になりつつも、一方で平日フラフラしている気まずさもあって「いや、その……」なんてモジモジしていると、「この問題が分からんけ。解答を読んでも、よー分からん。特にこの辺な。分かるかー(関西弁+α)」なんて仰る。覗いてみると、僕が高校生の時分の内容の、何とも古い参考書を使っていて、先にも書いたように、それは手垢でまみれていて、常に携帯していた(もしくは、何度も手に取り、開いていた)ことが伺われました。ノートも同様で、角はボロボロ、水に濡れたのか、全体が波打っています。そしてその上には、明らかに数式や文字を書きなれていないことが伺われる書体で、格闘の後が刻まれていました。

で、肝心の問題は複素平面と軌跡の総合問題で、心の中で「はいはい、アレね」なんて思いながら、一通り目の前で解いてみました(一橋の問題でした)。「ここは天下り的なんですが、f(x)=...と変形してしまった方が、解きやすいんです。解答のここは……」と言いながら、白いノートから照り返す光と懐かしさに意識を眩ませながら、お借りした鉛筆をサラサラと走らせました。そういえば、鉛筆を持ったのは、本当に久しぶりです。

「兄ちゃん、やるやん。数学お得意なんか?優秀な学生さんやなー。ときどき、若い学生さん捕まえて聞いてみるけど、わしの風体見て逃げよったり、解けんかったり、そんなんばっかりや。お兄ちゃんは、きちんとお勉強した学生さんやな。わしは小学校しか出てへん無学やけんね、教科書から離れると、よー分からんくなってな、せやから何回も最初から勉強し直して、取り組んでいるんよ。この問題から全然進まへんわ笑(関西弁+α)」。

色々とお話をしました。小学校を終えた後、すぐに丁稚奉公に出たこと。焼け野原から体一つで仕事を起こしたものの、賭け事の類は全く興味がないが、結婚をしたものの、お酒が好きで好きで、身を持ち崩した末に離婚、随分と前「家なき子」になり、今では日雇いの仕事で、その日を何とか暮らしていること。暇で手を持て余していたので、小学校の時に「算数」が好きだったこともあって、教科書・参考書をブック・◯フで100円で買って、やはり随分と前から、独学で中学数学→高校数学まで勉強を続けてきたこと。大学生の数学まで勉強したいと思っていること。仕事が終わって、日宿で適当にTVを観てダラダラするよりも、ビンに入った日本酒(名前忘れた)を飲みながら、参考書をペラペラとしていた方が楽しいこと。今日はこの図書館に行くから、久しぶりにお風呂に入って、綺麗にして来たこと。——色々なことを教えてくれました。

何だか、宮本常一の「忘れられた日本人」の登場人物、とくに土佐源氏を目の前にしているようでした。(切なく、引き込まれる、という点で。)

もしかしたら、このおじさんは途轍もない才能の持ち主で、とんでもない数学者になってしまうのではないか(京大の望月さん的な)なんて想像しながら、「ただ単に好きだから勉強している」という素朴な知への姿勢に、心を打たれました。小学校修了程度の算数から、一橋の問題を特に到るまでpureな気持ちで勉強を続けていた——。Pureな、とは僕の勝手な思い込みですが、何れにしても、これはとても凄いことです。どれだけの時間がかかったのだろう。膨大な積み重ねがあったのでしょう。この営みと対照的なのは、資格試験であると考えます。僕は資格試験が大嫌いで(つまらない、必要ない、癪に障る、pureじゃない)、会社の次の管理職への昇格に必要な資格の受験を悉く逃げまくっていて、精神的な同志を見つけたようで、何だか嬉しくなりました。

「おじさん、すごいですね。本当にすごい。ここまで勉強を続けて。この参考書に載っている問題は、大学に入学するための問題で、パズルを解くような感じで面白いですけれども、大学の数学はまた違った面白さ(らしい)ですよ」。つい僕は面白くなってしまって、「大学への数学」って雑誌があって、一冊1000円くらい。おじさんならば、一冊で相当楽しめますよー、面白いですよー。あと「新数学演習」って別冊がありましてね・・・なんて言いかけました。多分おじさんは学コンの常連になれる気がする笑。

おそらくおじさんは、コツコツとゆっくりと、楽しんでお勉強をしているんだろうな、と(勝手に妄想しながら)思いました。一橋の問題と格闘したところで、金は入らないし、その日のご飯も食べることには役立たないだろう。資さないだろう。僕が勝手に舞い上がっているだけかもしれませんが、改めてpureさ、漠然とした品・知的な雰囲気に圧倒され、もしかしたら、古の竹林の賢者や隠遁者はこんな感じであったのかも、とすら感じました。

Pureな態度で勉強したなんて、いつ頃だろう。最近は全然していないな。読書にしても、考えごとにしても、理解したという「成果」やその「スピード」を求めていて、表面的なもので終わっていて、味わっていない、というか単にストレスから逃げるためのシールドにしている気がしてならない。パラパラめくる本もeasyな自己啓発書が多くなってきたし、腰を据えて、一つのことに決めて、それも進み具合に一喜一憂することなく、何かに取り組むことができていない。

「わしは今日、帰る家が無いねん。いつもの宿まで今の小銭やとギリギリやな。せやから、泊まられへん(関西弁+α)」。いわゆる関西の貧民窟からここまでは、そこそこの距離があります。話が途切れました。サンドウィッチを食べ終えていたので、本の続きは家で読もうと思って「そろそろ失礼します」と切り出すと、「毎週ここに来ているからな、また教えてなー。ありがとー(関西弁)」とおっしゃった。次は「新数学演習」とか東大後期の問題なんか持ってきたらどうしよう……なんて思いながら「そうですね」と答えて、さようならをしました。

おじさんも家なき子。そして僕も(ある意味で)家なき子。
急いで必死で靴を履いているときに限って、玄関でインテリアの相談をし始めて、適当にあしらうと怒る。平気で人のプライベートに侵入してくる。食事中、ふと気になることがあってiPhoneを触ると、何をしているのか愚痴が始まる。電話をすると、誰とどんな話をしたのか詰問する。相談があるんだけど、言ってひたすら愚痴に付き合わされる(僕は何も言わず、機械的に相槌だけ打っているだけ。僕は仕事の話は一切家ではしないことにしている。会社を出たら、もうプライベート)。そして時間が無くなる。書き物の残骸も本も、レコードもCDも邪魔だから、処分しろ・売ってしまえとグチグチ始まる。挙げ句の果てには、過去にしがみつきだと宣う。——そして僕は、居場所を失いかける。

貴女には分かるまい。これらには、どれだけの思い出、想いや涙が「染み込んでいる」と思っているんだ。自分の分身のようなものだ。青春の墓標なのだ。君には分かるまい。物や思い出を大切にする。思い出を大切にするが故に、置いておくし、置いておかねばならない。本を読み、音楽を聴き、絵を鑑賞し、ふと自分自身の精神的な先輩・祖先と思えるような人を見つけることがある。師と仰ぎたいと思えるような人を見つけることがある。そして、その人を知りたくて、本やCDを集めて追い求める。そして惚れ抜く。お前には分かるまい。僕には「しがみつく・しがみつける過去」があることを。ググって終わって、はい分かった、はい終わり——、合理的で今風で、代替可能なものに囲まれて生きてきたような奴には。

今日はたまたま、家に帰っても(幸いなことに)一人の時間が持てたので、買った詩集を眺めていました。溜まっているBL漫画を消化しないと。あと「たいち君」の書き物を仕上げて、ひとつ彼との思い出にケリをつけないといけない。僕はそれをコソコソと隠れるように、やっている。

僕にも帰るべき家が欲しい。
メゾン・ド・ヒミコ
あたりが僕にはお似合いなのだろうか。久しぶりにバルバラの“Nantes”を聴いたら、そして歌詞を読みながら、すごーくすごーく切なくなってしまった。

まさと先輩、りょう君、そして、たいち君、いまでも僕は愛してゐのです。もう一度、あの日のままで僕の目の前に現れてください——。


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