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めちゃくちゃ久しぶりにバナナ食べた

結論から言っとくとあまりの美味しさに震えましたねー…。

そもそもバナナはかなり大好きで、バナナ単体はもちろんバナナを含有するお菓子や飲み物も大変素晴らしいと常々思っている。
唯一無二の香り、甘み、食べやすさ。小さい頃からあらゆるタイミングで慣れ親しんできているが、バナナという果物は本当に不思議なほど、いろんな意味で食べやすい。食べやすいはヌルいな、間違いなく美味しい。バナナが入っていて裏切られたと思ったことは一度もない。

加えて大人になってからすごいなと思うのは価格と供給と品質の安定性だ。いつもあり、いつも安く、いつも新鮮に黄色い。スーパーや八百屋さんにバナナがあることを認識したのははるか昔だが、バナナの安定性はその頃からずっと変わらない現象なのだ。遠い国からはるばる収穫され運ばれてくるのに、本当にすごいことだなとしみじみ思う。

そして、私はバナナから自覚しないうちに遠ざかっていた。味と供給の安定性ゆえに、いつでもいいや、になってしまっていたのだ。

気づいてもいなかったが、事実として果物のバナナを最後に食べたのがいつだか思い出せなかった。バナナは必ずおいしくて、バナナは必ず手に入る。たくさんの方々と長い歴史が作ってきたその素晴らしい事実が、いつでもいいや、の根拠になってしまっていたのだと久しぶりにバナナを食べて思い知った。

そもそもなぜ久しぶりにバナナを食べることになったかというと、スタバのバナナブリュレフラペチーノがあまりにも美味しかったからなのだ。「飲み物として美味しい」を遥かに超えて、構成する素材ひとつひとつの味わいがしっかり立っていながらうまいこと融合していると言っても過言ではない。合体ロボ的進化ではなく、ダンスグループ的迫力とでも言おうか。令和6年6月現在市販されている液体で一番美味しいのでは…?とさえ思ってしまった。

その集合体におけるバナナの風味、よく知っているはずのその味わいさえ再定義と思わされてしまうほどに麗しかった。スイートでフルーティ、こんなにも潤いと甘味と酸味をたたえた果物だったんだ、と。
その思い出を忘れられず、翌日の買い出し時にバナナを買った。前述したがいつぶりかわからない。バナナは変わらずつやりと黄色くて甘い香りを放っていた。皮を剥いて味わった、懐かしさすら覚えるほどの美味しさ。よく知っている。この香りも、この歯触りも、この味わいも。でも、やっぱり、美味しいのだ。

「いつでもいい」に至るには、あらゆる努力か途方もないほど稀な偶然の重なりが伴う。にもかかわらず、いつでもいいとなった瞬間価値が下がってしまいがちなのは何故だろうと、自分のあれこれを顧みて思う。限定的なもの、刹那的なものを逃したくない気持ちはよくわかる。けど「いつでもいい」もひとつの奇跡であり、実は永遠ではなかったりする。例えばバナナにのみ蔓延する奇病がバナナを全滅させてしまったり、もっと現実的なところで言うならある日私がなんらかの理由でバナナを受け付けなくなったり、といったことで2度と味わえないものになる可能性はゼロではないのだ。

必ず終わりが来るいのちを持って生まれてきたわたしに、それでも束の間存在している「いつでも」という仮初の永遠。その奇跡の味かもしれないな、とバナナを平らげたあと、思った。

バナナ、大好き。


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