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夢喰いガーデン

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村谷由香里の掌編小説を置いています。すべて独立した物語なのでお好きなものからお楽しみください。
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2017年4月の記事一覧

ポラリスの瞳

 彼が水槽を買ってきて、うちの押し入れの中に入れた。わたしが講義に行っている間に彼はいろいろ材料を集めてきたようだ。学校から帰って押し入れを覗くと水槽の中はぐちゃぐちゃしていた。

「これ、原始の地球と同じ状態なんだよ」

 彼は誇らしげに言う。凄いねえ、とわたしは流すように笑って、台所へ向かい冷蔵庫を開ける。豚肉の消費期限が昨日で切れていた。

「光あれー」

 彼は高らかにそう言うと水槽の蛍光

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夜縫虫

 わたしは彼に抱かれる時、いつも同じ想像をした。彼の唇を縫い付ける想像を。

 彼の声が嫌いだった。正確に言えば彼がわたしの名を呼ぶ彼の声が、虫唾が走るほどに嫌いだった。イントネーションも、アクセントも、声の高さも口の形も、何もかもが醜くて嫌だった。そんな声で呼ばれたら自分の全てが窒息するようで、わたしは笑顔で返事をしながら、頭の奥で嘔吐した。誰かに名前を呼ばれるのは好きだったのに、彼に呼ばれたと

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鮪と朝顔

 朝目が覚めると、わたしの隣に本マグロが横たわっていた。

 微かに開いたカーテンからは朝の新鮮な光の粒子が注ぎ込んで、本マグロの大きな身体をつややかに映している。濡れたカラスの羽のように、黒く七色の光を反射するその肌をぼんやりと眺めて、ああ、そうだった、とわたしは思い出す。わたしは本マグロの恋人とふたりで暮らしている。

 わたしがのそのそとベッドから起き上がると、本マグロも目を覚ましたようでゆ

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冷蔵庫の匂い

 姉はわたしを冷蔵庫に仕舞う。

 母が仕事で家を開けると、姉はわたしを暗い冷蔵庫に閉じ込めた。あの頃わたしは七歳で、姉は九歳だった。

 はじめに思い出すのは、冷蔵庫の前で手招きする幼い姉の意地悪な笑顔だった。わたしは姉に言われるがままに大きな冷蔵庫の中に入り、膝を抱えて丸くなる。わたしは無抵抗だ。姉は変わらず意地悪く笑って、ゆっくりと扉を閉めた。

 わたしは暗くて寒いその箱の中で、何をするこ

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動物園にて

「食っちまうのかい」

 ヤマアラシが問うと、バクは少し困ったように首を傾げてから、

「そうだね」

 と、短く答えた。ヤマアラシは、そうかい、と言って自分の顔が映った泉の水を少し飲んだ。

 空は青く、高く、どこまでも続いているようだった。途方もなく広い緑の草原は、端の方で空の青を溶かしこんでいる。その真ん中に春にれの木が立ち、木陰には小さな泉が湧いていた。

 ヤマアラシとバクは毎日この場所

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シーソー

 シーソーは傾いたまま、びくともしない。

 彼女は笑いながら足をぶらぶらとさせ、

「今朝ねえ、初めて歯を削ったのよ」

 と言った。虫歯だったの。物凄く大きな穴が開いててね、歯にセメントを入れられたの。彼女は饒舌に話す。わたしは地面に足をついたまま、

「じゃあ、あなたは今日少し、石に近付いたのね」

 と、応えた。

 シーソーはびくともしない。わたしはいつも下で、彼女はいつも上。

 身長

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彼岸花

そうじゃない。

 そうじゃないそうじゃないそうじゃない。

 わたしは耳を塞いで目をつむって座りこんだ。

 違う。そうじゃない。

 こんなことが、したかったんじゃない。

 耳を圧迫する手にはまだ、感覚が残っていた。赤く染まっているはずの手のひらは熱いほどに、あなたの温度を伝えている。びりびりと血液が流れる音を聞いた。波打つ速度は驚くほど速い。視界を遮断するほどに、あなたの温度はわたし

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