日記2023年6月①

久しぶりに日記を書く。5月の半ばから書いていなかったけれどメモは残していて、見返すと一ヶ月も経っていないけれどずいぶん前のことのように感じる。

5月の中旬にショッピングモールで子供の髪を切ってもらった。モールでは子供をきゃらくるカートというポケモンとかドラえもんとかアンパンマンの装飾のついたカートに乗せると楽なので人気がある。美容室の前にそれを置いて髪を切ってもらっていたら、南アジア系の男性に「Is this yours?」と訊かれたので「Yes」と答えた。男性はそっかという残念そうな顔をして去っていった。その後ぼんやり待っていたらちょっとした隙にキャラくるカートが誰かに持ち去られていた。あの男性のような倫理観の者ばかりではないのだ(まああの人の可能性もなくはないが違うだろう)。

モールの屋上には子供が遊べる水場があって、子供たちが水浸しで遊んでいる。うちは水遊びの用意をしてこなかったのでただ眺めていた。うちの子も無理は言わないので偉いと思う。知らない子供たちがわーきゃー言っているのを真剣に見ていた。思えば赤ん坊の頃からよく周りを観察する子で、大人をじっと見る真剣な表情をよく覚えている。やってみるよりまずは様子を伺う。1歳で保育園に預け始めたときも年上の子の真似をしてあっという間に適応したので先生も驚いていた。それはそれで苦労が多いだろうと思うのだけれど、そういうたちなのだ。

髪は思い切り短くしてくれたのでありがたかった。

別の日に自分の散髪にも行った。もう3年くらい同じような形にパーマをかけてもらっている。パーマをかけると多少伸びてきてもかっこがつきやすいので気に入っているのだが、ちょっと飽きてきた部分もある。大学院を卒業したら変えたくなるかもしれない。切った直後は少しインポッシブルのえいじに似てしまう。

妻が半日休みをとって、子供は幼稚園に預けたまま車で買い物に行った。ZARAで服を買った。高くないので結構たくさん買ってしまう。久しぶりに二人でお昼を食べ、自分のペースで買い物ができたので楽しかった。昼食も食べ過ぎてしまったがそういう日も必要だ。

5月21日は文学フリマ東京に出店した。先日ZARAで買ったシャツを着て行こうか迷ったけれど結局着ていかず、そうしたらお客さんで同じシャツを着てきている人がいたのでやめといてよかったと思った。売った同人誌は私が小説を書いてみたいと思って始めたもので、読者を想定しないと書けない気がしたので、投稿とかは考えず最初から同人誌の形で進めた。全く初めての小説書きで稚拙なところも多いなと自分でも思うのだが、作ったからには読んでもらわないとしかたがないので一生懸命宣伝した。相棒の国語教師はSNSをやめてしまったので私一人で頑張って、告知をするたびに自分の書いたものの質に不安を感じ、同時に諦めというか面の皮が厚くなるというか、もうしかたがないなという感じでどうせなら売れてほしいという気持ちになって、自分の気持ちがよくわからなくなってくる。

当日はサークル紹介用の名刺も作って配り、お客さんが来るとその名刺を渡していたのだけれど、あるとき相棒の国語教師が、名刺を渡すタイミングが早すぎる、お客さんが名刺だけ受け取って満足して買わずに行ってしまっている、もっとギリギリまで待って気まずい思いをさせないと買ってくれない、と私を注意した。あなたは精神科医だから相手に気まずい思いをさせないようにすることが染み付いている、それでは売れない、と。私はまさか自分の行動が裏目に出ているとは思ってもみなかったので驚いて、マジか、と言ったけれど、言われてみると確かにその通りであるような気もした。そのあとは私は黙ってお客さんの対応を国語教師に任せることにしたのだけれど、そうしたら一旦落ちた売上がV字回復して、本当にどんどん売れ始めた。最終的に目標の倍ほど売れた。私一人だったら全然売れなかったのだと思う。友達というのはありがたい。

幕張の本屋lighthouseさんに同人誌を置いていただけることになって、まず4冊置いてもらったのだが、ありがたいことにそれもすぐ売れた。みなさんありがとうございます。

文フリでかなり疲れた。しかし疲れた割には元気で気持ちも落ち着いてそうだねと妻に言われた。調子の悪かったときにはもう二週間くらいひどい状態になっていたと思うけど、と言われて、これも自分じゃわからないことだった。

メモを見ると、5月になって子供のおしっこが安定してトイレで成功するようになってきたとある。一時期トイレの直前でギリギリ漏らしてしまうことがあったけれど、それもむしろ慣れてきて本人なりにどこまで我慢できるか試しているような感じがして、実際何度か直前での失敗をしたらそれ以降しなくなった。この時はまだうんちをトイレで座ってすることができなかった。その後、トイレの子供用の踏み台の下にさらに新聞紙を重ねて噛ませて踏み台の高さを上げ、足の踏ん張りを効かせやすくしたところ、5月の終わり頃に初めて家のトイレでうんちが出た。そうしたらあっという間におしっこもうんちも安定してできるようになった。おしっこを漏らしたりうんちができなかったりしたのはほんの二週間ほど前なのだけれど、ずいぶん前のことに感じる。

前にこういう記事を書いた(「赤子の現在性」)。赤ん坊は「情報化」されない。過去が切り離されない。自分が歴史にならない。生きていた時間が全て現在に巻き込まれて、常に現在を流れている。そのような強い現在性にあって、今とは違う、切り離された過去の「あのとき」を思うとき、それは海を渡るような遠い距離を感じる。私たち大人がいかに「過去」に生きているかがわかる。いかに歴史として生きているかがわかる。だからこそ大事にできる今というのもあるのだが。

今6月の3日にこの日記を書いている。6月2日は全国的に記録的な豪雨で、私は大学院の教官と会って今後の復学と卒業への道筋を相談する予定だったのだけれど、教官の方から今日は無理しなくてもいいのではないかと言ってくれたので、延期することにした。予定がなくなって天気も悪くて何もすることがなくなって、しばらく鬱々としていた。こういう時にはTwitterのパトロールをしてしまうのだが、そのうちそんな自分が嫌になってくる。だるいし妙な疲労感があって横になっているのが楽なのだけれど、何もしないと「何もしていない」という考えに苛まれるのでつらい。こういう状況をどう乗り切るかというのが私の最近の関心で、今のところキーワードとしては「気持ちよさ」「手に届くところにいろんなものを散りばめる」「他者を招き入れる」「差異を発見する」「家事」などと考えているけれどこれだけでは意味がわからないだろう。私にもよくわかっていない。とりあえず昨日の私は何か違ったものを頭に入れようと思って録画していたNHKの「きょうの料理」を見て、「家事をやれ〜」とマストドンにつぶやいてから洗濯物をたたみ、そうしたらちょっと元気になってきて自分の中に実山椒を塩茹でする機運が高まってくるのを感じた。野菜室から実山椒を出して枝を取り、洗い、茹でる。水にとってしばらく浸ける。ちょっとずつ元気が出てきて、夕飯の準備も始める。鶏ひき肉に塩と片栗粉を入れて混ぜる。

認知行動療法の行動活性化と同じじゃないかと思った人もいるかもしれない。まあそう考えてもらっても構わないのだけれど、ちょっと違うんだよなあ。行動活性化はあくまでも技法、技術、テクノロジーとして捉えるべきで、何に価値を感じるか、どう生きるか、なぜやるかという「欲望」の次元には踏み込まない。まあその点も行動活性化の技法の中には自分にとって価値のあることを整理する段階というのがあるのだけれど、やっぱりちょっと違って、そういう認知行動療法がしれっと踏み込まずにいる部分を考えないといけないと思う。最近では「欲望形成支援」という言葉を聞くようになったけれど、それも同じようなニッチを狙った言葉なのだと思っている。私はそこをお題目ではなくて実際何をするかというレベルで考えたいのだが。

「家事は素晴らしいものである」みたいなことをまじめに考える。山崎ナオコーラさんの『むしろ、考える家事』は非常に大事なことを書いている。

書いているうちに昨日からの雨が止んだ。これから子供の新しい水筒と水着を買いにいく。続きはいつでも書ける。

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