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おもてなし

Twitterにて、この数日「廃棄前提おじさん」という言葉がタイムラインをにぎわせていた。

事は、あるTwitterユーザーが旅館に泊まった際、出てきた食事の量が多すぎて食べきれない、シニア層がメインターゲットのはずなので、廃棄前提、実際にかなりの廃棄が出ていると断じたことに始まった。

その後、そのユーザーが関わっているオンラインサロンを含めてTwitter上を賑わせていた。

ぼくが今回のこの騒動で気になったのは「おもてなし」の心ってなんだろうということだ。

▼旅館は飯が多くて

件のツイートにリプライだったか引用リツイートだったか、はたまた評論だったか忘れたが・・・「同感、私も旅館の料理は多いと感じるし、無駄。まるですごい食べるのを強制するような田舎や実家のよう」と言うものがあった。

ぼくは件のツイートにもこの意見にも・・・非常に違和感を覚えた。

例えば実家に帰省し、食べきれないほどのご飯が出てくる。
例えば旅館に行って、食べきれないほどの料理が出てくる。

これは作ってくれた人の「心」を感じるかどうかによって、件のようなツイートになるか、「嬉しい」という気持ちになるのか変わってくると思う。

嬉しい、が、食べきれないということであれば…心で思えば済む話であり、「廃棄前提」などと全世界が見る事ができるツールに書き込むべき話ではないと考える。

更に言えば、旅館や料亭などで予約をした際、「食べ物の好き嫌い」「食べられないもの」「量」などは事前に確認されることが多いのではないだろうか。
ネット予約であればこういう事はできないのかもしれないが…「少し高い」という旅館であれば、大抵、確認してくれるところが多いように感じている。

▼マーケティング

さらに、この騒ぎが「マーケティングの一環」という話も聞こえてくる。
ぼくはこれにも違和感を感じた。

ぼくはマーケティングについてど素人だから―――これがもしマーケティングだったとしても―――正しい方法なのかどうなのかなんてわからない。

しかし、気分は悪い。
なぜかと言えば、仕事に対しての敬意もないし、食物に対しての感謝も感じられないからだ。

また、「他の宿泊施設を宣伝したかった」という話も聞くが…
固有名詞を出さかったにしても、「旅館」という言葉でそこでの料理を批判し、どこかを良く見せようという手法にもぼくは違和感を覚える。
「貶める」という行為の先に一体何があると言うのだろうか。
ぼくにはそういう手法がどうしても好きになれないのだ。

▼お客の要望

「サービスはお客の要望を実現し、お客の満足度を上げること」という意見がある。
これには異論はない。

お客のニーズを収集し、分析し、サービスや製品に反映させることがお客様に喜んでもらえる一つの考え方だと思う。

しかしながら、一つのサービスや製品に対してすべての人が100%満足するということはあり得ないとも思っている。

件の旅館の料理にしても、「量が多い」と感じる人も居れば「量が少ない」と感じる人も、「種類が多い」と感じる人も居れば「種類が少ない」と思う人も…
人が感じる事は色々とあるはずなのだ。

▼決めつけ、レッテル貼り、定義

色々な意見や感想、感じ方があるはずなのに、件のツイートは「としか思えない」「はず」と断じている事には・・・やはり疑問を持つ。

人間は「定義」がはっきりしているものについてはある種、安心するのではないだろうか。
しかし、「定義」がはっきりしていないものについては「わからない」事が多いから不安になり、恐怖を感じる事もある。

新型コロナウィルスもそうだ。
「こうすれば良い」というものが未だに見つからないから不安になる。
この正体がはっきりすれば、人々は今よりも不安になることはなくなるだろう。

しかし、今回のツイートと新型コロナウィルスの正体は別だ。
正体をはっきりさせること、定義と「決めつけ」「レッテル貼り」はまったくの別物だとぼくは考えている。

定義は誰がどう検証してもかわらない結果である。つまり正体そのものになる。
しかし、件のツイートのように「定義」しているようで色々な人が別の意見や見解をもつもは「決めつけ」であり、「レッテル貼り」でしかないとぼくは考える。

今回の件に限らず、こうした「決めつけ」「レッテル貼り」は少なからず人を不快にさせたり、傷つけることがあるのではないか。
それがマーケティングの一環ということだとしたら非常に違和感を覚えるし、そうすることで「流行り」はつくれるかもしれないが、「サービス」や「製品」は廃れていってしまうのではないだろうか。

▼おもてなしの心

だいぶ話が逸れてしまったが・・・
ぼくは今回のツイートを読んで一番に感じたことは「おもてなし」の心ってなんだろうということだった。

先ほども書いたが、お客がお金を払っている以上、そのお金に対するサービス、お客が求めているものを提供するのは当然のことだ。

ぼくが今回痛烈に感じたのは・・・
お客というものは、心を受け取れる人でないといけないのではないかということだ。

何も特別な訓練や資質がいるわけではない。
世の中の多くの人は既に持っているものだ。

つまり、作り手やサービスを提供する人間の「仕事」を通じて、その人の「心」を受け取れるかどうかだ。

これとは違う件でもよく、「お客様は神様」という文言が出てくることがある。
作り手やサービスを提供する側が全てお客の要望に応えなければいけないか、と言えばそうではない。
「神様に供えるつもりで」努める、という作り手側の精神を表した言葉だと認識している。

だからこそ、お客になり得るぼくたち。
すべての人間は…「神になったつもり」で評価するのではなく、作り手・サービスを提供する人間の仕事から「心」を受け取る事が必要なのだと考える。

「おもてなし」を受けたとしてもその心が分からなければ、単にサービスが気に入るかどうかだけの「評価者」になってしまうのではないだろうか。

自分たちの意に沿わなければ、酷評する。
これでは、お客様と作り手ではなく「支配者と奴隷」の関係でしかない。

おもてなしは送る方だけでは成り立たないとぼくは思っている。
受けるぼくたちが、その仕事から「心」を感じる事ではじめて成り立つものだと考える。

ぼくも舞台演出家として。モノ書きとして。
心を受け取ってもらえる仕事をしていけるようにしよう。

※今回の記事を書くにあたって、Twitterのフォロワーの池本さんとのやりとりで記事のアイデアを思いつきました。ありがとうございます♪


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