【第30回】「男か女か」という二分法の必然 『ジェンダーと脳』批判(2)
〔前回の続き〕
ダフナ・ジョエルの著書『ジェンダーと脳』、前半にあたる第1部と第2部ではこれまでとりあげてきた「モザイク脳」論について詳しく解説されており、ここまではよい。だが後半にあたる第3部と第4部では「ジェンダーというのは幻想であり、だからジェンダーのない世界を目指すべき」というラディカルな主張が展開され、読み進むにつれて「いや、そこまではついていけない… 」という気持ちになってくる。
人は男性も女性も個人ごとに多様な内面を持っているので「男性(女性)はこういうもの」とか「男性(女性)はこうでなくてはならない」という固定観念に捉われない社会にしよう、というのであればまあ理解できる。実際、ジョエルはそうした内容のことも書いており部分的には同意できる箇所もある。
しかし、ジョエルはそう主張するだけにとどまらず、(彼女の言葉で言えば)「ジェンダーバイナリーという二分法」、つまり人を男性と女性という二つの集団に分ける発想そのものを否定するのだ。
特に違和感を覚える箇所を抜き出してみたのだが、これらの記述も含めて本書の後半を読む限り、ジョエルには「生殖」とか「人口の再生産」という観点が欠けているように思われる(わずかながら一応触れている箇所もあるのだが、あまり真剣に考えているようには思えない)。
なぜ社会は人間を生殖器によって分類しているのか? 前回と同じことを言わなくてはならない。究極的な理由はこうであろう。人間が有性生殖をする生き物だからだ。
たしかにジョエルの言う通り、人は誰もが内面においては男性的な特徴と女性的な特徴を併せ持っているのが普通であり、男女の心理的な差異というのは、これまで考えられていたより曖昧で流動的なものなのかもしれない。
しかしそう言ってみたところで、結局人間は男性の生殖機能を持つ人と女性の生殖機能を持つ人の間でしか子供を作ることができないのだ。前回述べた通り、ヒトはこの生き物としての制約から当分の間逃れることができないだろう。その意味で、性別という区分には「身長が160cmなのか180cmなのか」とか「目の色が黒なのか青なのか」といった区分とは全く違う重みがある。
世界中のあらゆる社会が文化の根底に男女の区別を置いているのはそのためであろう。どの社会も人を基本的には男か女かの2種類に分け、その上でそれぞれの性にふさわしいとされる服装や髪型や装飾品、言葉遣い、振る舞い、行動様式、役割といったものを規定している(伝統社会はそれが特に顕著である)。
これら一連の「らしさ」は、それになじめない人にとっては抑圧的に働くという負の側面があるし、私だって現代において全ての人が何から何までそれに従うべきだとは思わない。しかし、かといってこれらを完全に消し去り、男女の文化的な差異をゼロにしてよいとも思えない。
これらの慣習や規範やイメージには、男性の身体を持つ人と女性の身体を持つ人それぞれに「自分は男である」とか「自分は女である」というアイデンティティの形成を促すとともに、異性に対しての(幻想も込みでの)欲望を強化させ、生殖活動を活発化させる機能があるのだと思う。
人間が男性と女性の間でしか子供を作ることができない(すなわち社会を存続させることができない)以上、我々は「男か女か」という二分法から完全に自由にはなれないし、その二分法を文化的に強める営みを捨て去ることもできないのではないだろうか。
〔次回に続く〕
注
〈1〉ダフナ・ジョエル、ルバ・ヴィハンスキ『ジェンダーと脳 —性別を超える脳の多様性—』鍛原多恵子訳、紀伊國屋書店、2021、kindle版、No.1667
〈2〉前掲書、No.2139
〈3〉前掲書、No.1785
〈4〉前掲書、No.2107
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