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舞台 「太陽は飛び去って」 観劇レビュー 2021/12/04

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公演タイトル:「太陽は飛び去って」
劇場:サンモールスタジオ
劇団・企画:Ammo
作・演出:南慎介
出演:前園あかり、津田修平、井上実莉、吉村公佑、奥野亮子、田中千佳子、堤千穂、トヨザワトモコ、福永理未、松本寛子、日下部そう、大原研二
公演期間:12/2〜12/8(東京)
上演時間:約130分
作品キーワード:女性解放運動、時代劇、舞台美術、レトロ
個人満足度:★★★★★★★★☆☆


歴史を題材として舞台作品を上演する南慎介さんが主宰する演劇ユニット「Ammo」の舞台作品を初観劇。

今作は、女性解放運動をテーマとした物語。
青踏社を立ち上げた平塚らいてうが去った後の1929年のとある一日が舞台となっている。
そこでは、婦人参政権を求める派閥の筆頭である雪下千代(堤千穂)と、貧しい女性たちの社会的地位向上を目指す長谷川不二(松本寛子)と、女性に囚われず外地(海外)で暮らす男性に参政権を与えることを第一目標とする有馬雅子(奥野亮子)の女性三人が、それぞれ支持を集めて当時の日本社会情勢を変えようと立ち上がっていた。

個人的に面白いと感じたのが、男女平等を求める思想の中でもそれぞれ派閥が存在していて各々主張が違っていたということ。
そこまで日本史に明るい訳ではない私にとって、太平洋戦争前の日本ではこういった女性解放運動の中でも様々な思想が乱立するように支持を集めて対立していたという事実は驚きだった。
また、主人公である中山環(前園あかり)は、どの主義にも賛同せずに選ばないという選択肢を取るという勇気にも感銘を受けた。
まだまだ女性の社会的地位が今のように高くなかった日本において、選ぶ権利があるのなら選ぶべきという主張が強いのも考えものだなと感じてしまう。
戦前当時の日本社会の生きづらさを垣間見るような素晴らしい脚本だったと思う。

また演出も素晴らしくて、舞台装置のレトロ感、舞台照明の素晴らしさもさることながら、日本史に詳しくない人にとってもわかりやすく、且つ説明の多い作品にもなっていない点が素晴らしかった。
女性たちが女性が自由に生活出来る理想の暮らしを夢見て、葉山旅行やパーティーを満喫するシーンが最高だった。

決して飽きさせることなく、ずっと惹きつけられっぱなしだった130分間。多くの人におすすめしたい。

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【鑑賞動機】

観劇の決めては、脚本、キャスト、フライヤー。
女性解放運動を扱った作品ということで、個人的に凄く興味をそそられる内容だと思ったから。そしてキャスト陣に、堤千穂さん、井上実莉さんといった以前観劇して素晴らしい女優だと感じたキャストが出演れていたから。フライヤーデザインも素敵だったから(このフライヤーは結構好き)。
また観劇予定を入れてからの話であるが、CoRich舞台芸術!のYouTubeチャンネルで、演劇ライターの河野桃子さんが今作を紹介していたのもあって期待値も高まっていた。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ある日の夜、中山環(前園あかり)は夫の中山清一が邸宅から姿を消していくのを目の当たりにする。

ある日の中山家の庭での話。今日も中山家の庭には多くの人が集まっていた。女学校の副校長を務める長谷川正春(大原研二)は仕事をサボって煙草を吹かしに、植木屋で作家でもある沢本五郎(吉村公佑)は自分が植えた木の様子を見に、そして中山環や、中山家の執事の谷口スマ(田中千佳子)や使用人の日高伊久(福永理未)もいた。
今日は青年会館で新婦人協会の代表統一選挙が行われる日であった。その内の立候補者の一人である雪下千代(堤千穂)がやってくる。彼女は平塚らいてふや市川房枝らにも支持されている市民派の活動家であった。彼女は、婦人参政権を実現することを第一目標として新婦人協会の代表として立候補していた。
次に同じく立候補者の一人である長谷川不二(松本寛子)がやってくる。彼女は「無産」といって、女性の社会的地位を向上させるには女性に参政権を認めることではなく、貧困階級の女性の地位を向上させ平等になることであることを訴えていた。そういった点で雪下とは対立していた。
さらに立候補者の一人である有馬雅子(奥野亮子)がやってくる。彼女は高級な服装で金持ちの家系であることが窺える。彼女は環とは女学校時代の同窓であった。

皆が中山家の庭から去って、環が一人で庭にいる所に女学生の瓜生輝子(井上実莉)がやってくる。輝子は環に尋ねる。「フェミニズム」をどう訳したらよいのかと。「婦人参政権」という訳を見た環は、それはちょっと違うのではないかと言う。婦人参政権はたしかにフェミニズムの一部かもしれないけれど、婦人参政権がフェミニズムと等しいものではないと。そこで輝子は、「女性解放運動」という訳し方はどうかと尋ねる。環は、それなら「フェミニズム」の訳し方に近いかも知れないと言う。
環は、中山家の庭に見知らぬ婦人が座っていたため、話かける。その婦人は亀井令子(トヨザワトモコ)と言って、伊予大洲藩に仕えた亀井小爵家に嫁いだ女だと言い、環のことをよく知っているのだと言うが、環は令子に心当たりはなかった。令子は妙に甲高く大きな声を立てて話すため、周囲の人間を困らせていた。
雅子もやってきて、2人して令子を見るがなかなか思い出せず、しかし令子の同窓時代のある仕草をすると2人はやっと思い出し、令子が当時とはまるで別人と思うくらい変わってしまったことを悟る。

ここで、青年会館で行われる新婦人協会の代表統一選挙に立候補した女性たちの紹介が始まる。
雪下千代は、婦人参政権を第一に実現させることを目指す主義で、「市民」という掛け軸を掲げていた。平塚らいてうや市川房枝らの後継という意味合いもあり、新婦人協会の会員の4割の支持を得ていた。
長谷川不二は、「無産」という掛け軸を掲げているように、貧富の差をなくして皆平等になって良い社会を作っていこうと活動する主義であり、裏では共産主義とも繋がっているある種政府から危険視されている立場であった。共産主義からの支持もあるが、新婦人協会内での支持は2割程度に留まっていた。
一方、有馬雅子は「改革」という掛け軸を掲げて、その高級な服装を身に着けた風貌から分かるように、彼女は上流階級の女性からの支持が強く、全体の1割に留まっていた。
雪下は4割、長谷川は2割、有馬は1割、では残りの3割はというと、穏健派や少数派など上記の3つの主義に属さない人々が占めていたが、中でも中山環を始めとする融和派が圧倒的に多かった。融和派は、どの主義にも属さない中立な立場をとっていた。だからこそ、雪下も長谷川も有馬も環の元を訪れて彼女を引き入れようと近づいていたのである。彼女の意志がどの主義かに傾けば、一気に形勢逆転出来るからである。

中山家の庭に、立派な髭を生やしてベージュの高級なスーツを纏った男がやってきた。環はどちら様かと尋ねると、彼は亀井利祥(日下部そう)と名乗り伊予大洲藩の由緒正しい家柄だと語る。また妻は亀井令子であり、令子は自分が留守にしていても家の奥まった部屋でずっと本を読んでいてと愚痴る。客人が来たら誰が応対するのかや、家事を仕切るのは一体誰がやるんだと令子に対して呆れ返っていた。
また彼は慶応大学出身で、学歴、家柄、資産などを誇らしげに語っていた。

環の元へ、有馬雅子と一人の軍人がやってくる。その軍人は雅子の夫であり有馬弥(津田修平)と名乗っていた。彼は今からおぼろげな記憶の話をする。
彼は以前外地である満州へ出兵していた。そこで環の夫である中山清一に出会っていた。中山は非常に知的で良い人柄で有馬弥も仲良くさせてもらっていた。しかし、中山清一は忽然と姿を消してしまう。その後に満州で雅子と出会ったため、雅子は清一と出会ったことはなかった。
有馬弥が、外地での戦争を終えて内地に戻って博多にいた時のことだった。見覚えのある顔が到着する船を出迎えに港に向かって歩いていく姿を目撃した。それは清一にそっくりだった。有馬弥は、小さくでもはっきりした声で「中山くん」と声をかけた。その男は一瞬立ち止まって、暫く沈黙した後再び港へ向かって行ったという。それから、その清一らしき男は、到着した船から降りてきた女性と共に荷物を持って街中へ消え去ったと言う。
有馬弥は、この出来事はその男が確実に中山清一だったとは言えないが、でもあの眼差しといい清一に違いなかったと言う。
スマは、今すぐにでも博多に清一を探す部隊を向かわせましょうと環に言うが、環は博多に向かわせなくて良いと言う。なぜなら、環はこの中山家を仕切る人間であり、この家の主だからである。大黒柱がいなくても、環自身がいれば中山家は成り立つのだと、決して中山家は抜け殻なんかではないのだと。スマはなんてことをおっしゃるのと泣き崩れる。

中山家の庭には、伊久と輝子がいた。輝子が普段自分のことを話さない伊久に対して色々尋ねる。伊久は山々に囲まれた田舎で生まれ育った。大自然に囲まれた故郷が大好きだった。しかしその生まれ育った土地は金持ちによって売却されてしまった。お金さえあれば、あの広大な土地が買えるのにと思って、巨額のお金が欲しくなって上京したのだと言う。

雪下と雅子と環は、三人で女学校時代に遊んだ時のことを思い出す。そしてそこから、もし女性に自由が与えられた世界が来たらと妄想する。
好きな時間に起きて、好きなものを食べて、友達と好きな場所へ遊びに行く。電車に乗って三越伊勢丹へ買い物に出かけたり、葉山へ旅行に行くのも良い。葉山でフルーツジュースを飲んで、そして浅草に行って好きな映画をみて、疲れたら昼寝をして、そして夜はパーティーに出かけてみんなで飲んで歌って騒いで楽しむ。そんな日常を夢見ていた。

中山家の庭に、亀井利祥と長谷川正春、沢本五郎がやってくる。亀井利祥と長谷川正春は非常に馬が合いそうだったが、だらしない格好をした沢本に対しては亀井利祥は馬鹿にする。自分は高貴な身分であり、慶応大学を卒業していることをアピールする。そしてラグビー部に所属していたことも。
しかし沢本も早稲田大学を卒業していた。それに反応した亀井利祥は早慶戦を持ちかけて沢本と取っ組み合いを始める。
騒がしくやっているうちに皆が集まってきて、そこには令子の姿もあった。亀井利祥は令子と会話を始め、気に入らないことがあったためか令子をこっぴどくビンタする。
そんな光景を目の当たりにして、これが今の日本の男女格差の現状、それでも婦人参政権に支持しないのかと雪下は環に問う。環はそれでも、融和派としてどこにも属さないことを貫くのだった。雪下は環に呆れてしまう。

雪下と雅子が各々の意見で対立していた。雪下は婦人参政権を第一目標として掲げているが、雅子は女性の参政権よりも外地に暮らす男性に参政権を与えることによって、彼らも味方に引き入れて勢力を増そうと考えていた。その点において2人の意見は異なっていた。
環に対して、長谷川不二も、有馬雅子も歩み寄ってきたが一向にどこにも属さない主張を曲げず、2人からも呆れられてしまう。

大火事が起きる。人々は中山家の屋敷に避難する。沢本は大怪我をしてしまい、医学も学んでいた亀井利祥に手当してもらい助けられる。
今回の新婦人協会の代表統一選挙は中止になってしまった。理由は日本に戦争の兆しが訪れ、治安維持法が導入されたことによって、女性の政治集会の開催は政府監視の元で開かなくてはならなくなった。そして新婦人協会の代表は強制的に有馬雅子が選出されることになった。
皆口を揃えてこれはおかしいと嘆く。まるで時代は戻ってしまったかのようだった。
環は、沢本が植えた大きな木に据え付けられていた支えを全て取り除く。どんなに強い嵐が来ても、自力で立ち続ける木であるように。ここで物語は終了する。

観劇中、環の中立を貫く行動にずっと合点がいってなかった。どうしてそこまで誰かに属するようなことはしないのだろうか、目の前で女性が男性からDVを受けていても。そして博多に夫がいる可能性が浮上しても博多に部隊を派遣しないなど。
ただこうやって物語を振り返ってみると、きっと彼女の思想は、女性の社会的地位を向上させようとかそういう男女平等を実現させようとかではなく、現状を受け入れながら自分の足で耐え忍びながら生きていく強さを持つことだったのではないかと思う。それこそが彼女が貫き通したい主義だったのではないかと思う。
女性解放運動ってなると、今の状況では女性は囚われの身であることが前提となるけれど、囚われているってことを認めない強さを彼女の姿勢から感じられた。考察で詳しく書こうと思う。
大正時代から昭和時代初期の日本史の用語が沢山飛び交うが、非常に素人でも分かりやすく書かれた作品で上手いと感じた。

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【世界観・演出】(※ネタバレあり)

全体を通して素晴らしい舞台美術であった。サンモールスタジオという小劇場だからこそ間近で感じられる迫力があるから良い。
舞台装置、衣装、舞台照明、音響、その他演出について順番にみていく。

まずは舞台装置から。
中山家の庭を再現した舞台装置で、客席からみて下手奥側、下手側、上手側は全て屋敷の縁側となっており、上手奥側だけ開けていて庭となっており、沢本が植えた樹木が一本立っている。また、舞台中央の空間の屋敷に囲われたスペースも庭となっている。
屋敷は本当に昭和初期を思わせるような古い木造の昔の家といった感じで趣があった。特に上手側の障子が開閉できるようになっている仕掛けがおもちゃのようで素敵だった。
上手奥に立っていた樹木もクオリティが高く、そこには鳥かごがかけられていた。何の鳥が囚われていたか忘れてしまったが。雷鳥ではなかった。
レトロ感満載の舞台装置で、非常に手作りというのを感じさせられる良さもあった。小劇場の舞台だなという印象、学生時代に自分たちが演劇をしていた頃を思わせるような、ハイクオリティな舞台装置と小劇場の狭い空間だった。

次に衣装だが、和装のキャストと洋装のキャストが混ざっていていかにも昭和初期といった感じ。
印象に残ったのは、雪下千代のカツラ。まるで黒柳徹子さんのような玉ねぎ型の頭髪をしていて昔はこんな髪型をしていた人が沢山いたのかとついイジりたくなってしまう。
亀井利祥のスーツ姿は非常に格好良かった。いかにもレトロ風な紳士といった所で出で立ちといい髭といい非常に似合っていて素敵だった。
軍人の有馬弥の軍服も格好良かった。坊主刈りの頭髪も相まっていかにも軍人といったオーラで好きだった。

そして個人的に舞台美術の中で一番好きだった照明演出。小劇場なのでそこまでクオリティの高い演出は実現できないものの、センスは抜群で非常に素晴らしかったと思っている。
一番印象に残るのは、上手側の樹木に照らされる日光。その日光の当て方が素晴らしいからこそ樹木がまるで本物のように見える。
また、舞台装置上に斑点のような模様が見られたのだが、あれは照明によるものなのだろうか。それとも舞台装置の汚しとして存在するものなのか。気になったがもし照明による演出であるのならば、樹木に差し込んだ光が斑点模様となって屋敷にあたっている感じも好きだった。
新婦人協会の代表として立候補に上がっていた3人の女性の登場シーンで、照明で光り輝かせる演出が見られたがここはもっと効果的なやり方があったんじゃないかと思った。少々わざとらしかった。
ただ、序盤のシーンの環が清一が消えていなくなる所を目撃する暗いシーンや、女性たちが葉山に旅行したり夜にパーティーをしたりと妄想で盛り上がるシーンのカラフルな照明はとても好きだった。特に妄想で盛り上がるシーンは、あそこだけ現実離れしたファンタジーなシーンなので、中盤に挿入されることによって物語全体に良いアクセントを与えてくれたと思っている。
記憶が正しいかどうかわからないが、伊久と輝子のシーンで伊久が自分の故郷について語っているシーンの照明がちょっと夕方っぽかったというか、彼女のモノローグに非常にハマっていた印象を受けた。

音響も、序盤にBGMが多く使われていた印象。ラジオから流れてくる昔の昭和の歌謡曲が音質も相まってとても良い。昔のラジオだからこその音質の悪さというのが凄く研究されている感じがした。
あとは早慶戦の音楽が格好良かった。ああやって作品の主題とちょっと逸れた演出を閑話休題的に入れてくれるあたりも良かった。夜のパーティーのシーンの音楽とかも。
効果音で印象に残ったのは嵐の音だろうか。特に環が誰の主義にも協力しないと語ったときに嵐の音が流れたと思うが、どんな荒波がやってきても自分の足で耐え忍んで見せるという覚悟を感じられて好きだった。

最後にその他演出について。
観劇していて思ったのが、この作品はモノローグから情景を観客に浮かばせるのが非常に上手いと思った。本当につまらない舞台のモノローグは、会話だけがただ進んで全然頭に入ってこなくて集中力が途切れてしまったりするのだが、今作のモノローグは情景が思い浮かぶので聞き入ってしまう。
例えば有馬弥が行方不明の中山清一について語るシーン。他愛もないことで彼と語り合った日々の思い出、それから博多港で清一らしき人を見かけた時の話。台詞が凄く良くて、ただ淡々と事実を伝えるのではなく「あの空白の間が全てを物語っていた」とかそういう印象に残る発言が多いからこそ引き込まれるのかもしれない。後は「卵を24個使って卵焼きを作った」などインパクトのある内容が含まれている点もモノローグの面白さを引き立てている気がする。
あとは、伊久が輝子に向かって自分の故郷を語るシーンも上手いと思った。「どこを見渡しても山ばかり」とか本当に情景の浮かぶ台詞が多くて言葉選びが素晴らしくて聞き入っていた。
そして歴史を扱った舞台作品ということで、どうしても劇中に歴史上の用語が沢山飛び交ってしまう訳だが、解説が必要な箇所はしっかり入れて、且つ説明過多になってつまらなくならないように工夫された作品に感じた。同じく歴史を扱った舞台として、大逆事件を扱ったニ兎社の「鷗外の怪談」も観劇したがこちらはちょっと歴史に詳しくない人間を置いてけぼりにする傾向があったように思える。そういうのはなくして欲しいと思った。劇団チョコレートケーキの「一九一一年」は同じ大逆事件を扱った作品でもわかりやすかったのだが。
「市民」「無産」「改革」の文字を掛け軸で並べて、3人の女性解放運動家の主義を説明するシーンが非常に良かった。そこで物語の流れを一気に掴むことが出来たし、ちょうどよい説明量だった。
最後のシーンの、樹木の支えを全て取っ払う環の行動が意味するところが好き。意味が分かってくると非常に上手い演出だと後で思えた。こちらは考察パートにて説明する。

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【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

女性解放運動の物語ということで女性キャストが多く目立つ作品だったが、男性キャストも含めて非常にレベルが高かった。
特筆したいキャストをピックアップして紹介する。

まずは、主人公の中山環役を演じたAmmo所属の前園あかりさん。彼女の演技を拝見するのは初めて。
融和派を名乗る(名乗ってはいないか)だけあって、何かを過激に支持するような女性には見えないが、決して弱くはなくむしろ芯の強い女性に見えるあたりがキャラクター性と合っていてはまり役だった。
観劇中はこの環が取る行動にイマイチ合点がいってなくて、芯の強い女性だと感心するよりはなんでそんな行動を取るのだろうかという疑問の方が強く出てしまったが、改めて彼女の行動を振り返り、そして公演パンフレットを読むことで納得がいってスッキリし、これこそが本当の意味での強い女性なんじゃないかと思えてきた。
凄く立派な存在に今では感じられる。

次に、雪下千代役を演じた堤千穂さん。彼女の演技は江古田のガールズの「12人の怒れる女」以来2度目となる。
今回の雪下役の演技を拝見して、堤さんの演技がますます好きになった。非常に主張の強い女性に見えて意外と声が甲高いのが印象的。その声の甲高さに魅力を感じた。そこには主張の強さというのを感じる時もあるのだが、女性的優しさが垣間見える時がある、それが良い。今回の役ではその優しさが見受けられる箇所が多かったからこそますます好きになれたのだと思う。
堤さんは凄く上品な女性の役が似合っていると思う。なんかそういう女優って凄く素敵だなと思う。

有馬雅子役を演じた奥野亮子さんもはまり役だった。富裕層でお金持ちという役がよく似合っていた。
蓮舫さんを思い浮かべてしまった。ショートカットヘアでお高く止まっていて、頭良さそうな感じが良かった。

個人的に今回のキャストで一番好きだったのが、女学生の瓜生輝子役を演じたAmmo所属の井上実莉さん。彼女の演技はキ上の空論の「ピーチ・オン・ザ・ビーチ・ノーエスケープ」で一度拝見したことがある程度で、ホームの劇団のAmmoで演技を見るのは初めて。
1997年生まれで24歳という若さだが、非常にその若々しさ、女学生のピュアさが存分に発揮された演技で非常に好きだった。
「フェミニズム」の訳し方ってなんですか?と問うてくるシーンや、伊久とのシーンのあのピュアな感じが本当に良い。本当に高校生くらいに見えてくるし、こんなピュアな女子が社会の荒波に揉まれることになると考えると胸が痛くなってくる。
「ピーチ・オン・ザ・ビーチ・ノーエスケープ」で見られたような大人の演技とはまるで違う側面が見られて大満足だった。

亀井令子役を演じたトヨザワトモコさんのあのオーバーな演技は、最初観た時はやりすぎではなかろうかと思ったが、観ている内にこれもありかと思えてきた。
あそこまで殻を破って演技が出来る女性って素晴らしい。
また、日高伊久役を演じた福永理未さんの大人しい演技も魅力的で惹かれた。特に故郷を語る伊久は本当に印象に残っている。

男性では、沢本五郎役を務めたAmmo所属の吉村公佑さんの、あの田舎者っぽいガサツなオーラを出す演技も好きだった。
それとは対照的に、高貴で紳士な亀井利祥役を演じた日下部そうさんの演技は、劇団チョコレートケーキの役者を想起させるくらい重厚で引き締まった味があった。

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【舞台の考察】(※ネタバレあり)

この公演を観劇した時は、正直主人公の中山環の行動に疑問を抱いていた。どうして女性解放運動家であるにも関わらず、そこまで誰の主義主張も支持しないのか。そして博多に行方不明の夫である中山清一の生存の可能性が見えたのに、博多で彼の捜索を行おうとしなかったのか。
しかし、この観劇レビューを書きながら、そして公演パンフレットを読んだことによって、中山環という人物像が浮かび上がり、そして脚本・演出の南慎介さんが彼女を通じて何を伝えたかったのかが見えてきたので、そこを考察していきたいと思う。

この物語には上で述べたように、3人の女性解放運動家とその主張が登場する。雪下千代の婦人参政権を求める「市民」主義、長谷川不二の貧しい女性にも平等な人権を与えようと共産主義とも繋がっている「無産」主義、そして有馬雅子の女性に参政権を与える前に外地に暮らす男性に参政権を与えることで仲間になってもらおうと考える「革命」主義である。
中山環はどの主義にも決して従うことはなかった。なぜどの主義も支持しようとしなかったのか。それはたとえどの主義が実現したとしても、それが女性が暮らしやすい世の中になるとは限らないと思ったからであろう。
劇中のシーンにこんな場面があった。婦人参政権が認められたからと言って、女性の暮らしは変わるのだろうかと環は言うのである。たしかにそうである。劇中では、亀井利祥が妻の令子に暴力を振るうシーンがある、また副校長が密かに伊久に体を求めようとするセクハラ行為をしようとするシーンがある。婦人参政権が認められたからといって、こうした男性の女性に対する振る舞いは変わるはずがないだろう。
実際今の日本社会でもセクハラという言葉が存在する通り、男性が女性にそういった行為をするという状況は変わっていない。まだまだ女性にとっては生きづらい環境というのは断ち切られていないだろう。

環がどの主義も支持しなかった理由としてもう一つ考えられるのが、彼女の誰にも依存したくないという強い意志である。これは観劇レビューを書きながら、そして公演パンフレットを読みながら思い至った考えである。
この3人の主張のいずれかを支持してしまうと、その主張を唱えた人間に依存する形となる。環はそういった状況に身を置きたくなかったのだろう。この考え方は、環が博多に居る可能性のある夫中山清一を捜索しなかった理由をも説明する。
中山家の執事のスマは、夫のいない中山家はただの抜け殻だと言うが、環はその意見を突っぱねて抜け殻なんかではないと言い張る。環自身が中山家にいれば主は務まると。
環にとって夫婦とは、妻が夫に依存する関係ではなく、互いに独立した関係でありたいと願ったのかもしれない。清一を中山家に戻さなければいけないとなると、中山家そのものが清一がいないと成り立たない、つまり嫁いだ環が夫の清一に依存した状態になっていることを意味するからである。

女性解放運動で有名な平塚らいてうにこんな言葉がある。


原始、女性は太陽であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く。病人のような青白い顔の月である。


女性は何かに依存しないと生きていけない。自分の力では決して生きてはいけない時代であった。だからこそ環は、誰の力も借りずに生きていく女性を示してみせたんじゃないかと思う。どの主義思想にも依存せず、そして夫に依存せずに生きていく。
それを最も象徴する劇中の描写が、最後の樹木の支えを全て外すシーンだと思う。台風が近づいているというのに樹木の支えを全て外してしまう。どんな荒波がやってこようとも、環は決して誰かに助けを求めたり依存したりはせずに、自分の足で生きていこう。そんな覚悟が窺えるラストである。
1929年の物語なので、当然この後日本は太平洋戦争へと突入していく。そんな中でも夫を頼らずに自分の足で生きていこうという覚悟と強さを私は感じた。

こうやって見ていくと、観劇した直後は差別や派閥を扱った舞台作品のように感じていたが、よくよく考えてみると各々の心の居場所はどこかを問いかける作品に感じられる。それは他人の主義思想に委ねているのか、パートナーに委ねているのか、それとも自分自身にあるのか。
決して人を頼ってはいけないということはないけれど、どんな困難がやってきてもある程度自力で立ち向かえる力は必要だし、そうなったときに自分が心の置き場所をどこにしているのかを問われる気がする。そう考えると、当時の女性は決して弱くはなくてむしろ今の女性以上に強くたくましかったんじゃないかとさえ思えてくる。



↓井上実莉さん過去出演舞台


↓奥野亮子さん・吉村公佑さん過去出演舞台


↓堤千穂さん過去出演舞台


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