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実体と観念 イデアとイデオロギー 「やまとこころ」と「漢意」

現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について 

序章 科学技術と人間本性
 

実体と観念 イデアとイデオロギー 「やまとこころ」と「漢意」

 

世間には騙される方が悪いという言葉がある。
この言葉は昔から存在しているが、現代に至っても現実を反映することには何ら変わりがない。
かつて、日本最大の英雄の一人である織田信長が騙し討ちによって志半ばにして散っていったことを考えれば、人々には歴史に学ぶ賢さが足りないと言えよう。
現代においては、オレオレ詐欺などと言った低俗な見破りやすい騙しが大量に起きているが、これらのものを見抜くことはそれなりに容易である。

低俗な騙しなら、騙されてもすぐに騙されたと気付くことが出来る。
だが、高等な騙しは騙された後にも騙されていることに気付けない。
高等な騙しは、人間の意識に働きかけるだけではなく、無意識下に刷り込まれるもものであるが故に、人間の精神に認知的バイアスを形成し、何時までも人間の判断と行動に強烈な影響力を及ぼし続けることになる。

こうした高等な騙しの中で、実際に行うと大変なことになるにも関わらず、実行することが道徳であると持て囃されるものも存在していて、これらはキレイゴトと呼ばれている。
キレイゴトとは、中身のないスローガンか或いは単なる迷惑以上のものではないが、社会的に有害なキレイゴトも、人々の歓心を買う手段としては大変に有効である。
巷には迷惑行為によって人気取りを行う者も多いが、キレイゴトはその有害性を見抜きにくいことから、迷惑行為よりも遥かに危険であると言えよう。

固定観念という言葉を世間ではよく耳にするが、この「観念」とは現実に基づかない情報を意味する言葉であって、実体の構造とはまるで無縁な妄想や空想を示している。
印象や思い込み、決めつけといったものは、観念の典型であると言っても何ら問題はない。

我々が情報と呼んでいるものは、元来は実体に基づいた認識であるはずだ。
だが、実体に基づかない虚構の情報は、観念であると考えるべきだろう。
実体に基づかない情報に過ぎない観念を実体に基づいた情報と区別出来ないならば、実体を認知する能力が破綻しているということである。

善悪というキレイゴトは、宗教権威が恣意的に定義する、事実に根拠がない決めつけであって、あらゆる観念の中で最も広まったものであると言える。
大体の場合において、キレイゴトは、それを広めることによって利益を得られるペテン師が広めるだけの、利己主義から発生する観念に過ぎない。

そして、大部分のキレイゴトを実行する者達も、社会を良くしようという意思や助け合いの精神といった公共心に基づいて実行するわけではない。
本人がいい格好をしたい、善人でありたい、権威から褒められたいといった見栄張りや承認欲求を動機として、彼等はキレイゴトを行うのだ。
権威に服従し、権威が唱える道徳的善悪を丸暗記するだけの愚か者が、キレイゴトの実行者であることも多く、彼等は実体としての是非を考えた上で判断することをどこまでも嫌っている。
キレイゴトを広める者も、キレイゴトを行う者も、実体的な是非を判断する者を見つけたら、彼を徹底的なまでに弾圧することを試みることもは、大変によく見られる現象である。

本当の嘘の達人は、いつの時代でも高尚な肩書を持っていることが多い。
そもそも、この世の肩書というものの殆どは、実体を反映しない観念でしかないだろう。
大部分の社会的信認は、実体的な問題解決技術ではなくて、人を騙す力から生まれている。暴虐の限りを尽くして人道に対する罪で裁かれたナチスですら、最初は選挙による群衆の支持によって選ばれた政党であった。

こうした歴史を省みれば、日本でもナチスのような一党独裁支配を成立させないために、国民は政治を監視する意識を強く持たなければならない。
複数政党による相互監視と実体に基づいた合議こそが、議会制民主主義の社会を形成する骨格であることは言うに及ばない。

だが、現代の学校教育では、ペーパーテストの点数を上げることや、内申のための見せかけの行儀を教えているだけの有り様であって、とても近代国民国家のための教育が行われているとはいえない。
突き詰めてしまえば、学校教育で教えていることのほぼ全ては、体育の兎跳びかピラミッドか若しくはそれに類似したことである。
生徒達に技を体得させることの意味を学ばせるどころか、有害性を信仰させ、非文明の精神を洗脳しているだけに過ぎない。
人体という複雑構造を動かすにも高度な制御技術が必要であって、人間には観察と思考抜きに出来ることは殆ど何もないだろう。

何も考えずに上の命令を遂行する官僚主義者を作る教育は、ハンナ・アーレントが指摘した「凡庸な悪人」のアイヒマンを生み出す洗脳でしかない。
ナチスの党官僚であり、そして大虐殺者でもあったアイヒマンは、党に従順でルーチンワーク的な仕事だけはよくこなしていたようで、部門の責任者にまで出世していた。
アイヒマンは一見は真面目であって肩書も立派であったかも知れないが、どれだけ表層を取り繕っても、内面は自ら思考する能力を持たない幼児でしかなかった。
言うまでもなく、全体主義社会の政府は、自分の頭で何も考えずにお上の妄言を信じ込み、命令に従属するだけのアイヒマンの如き奴隷を常に欲している。

現代の教育の受験制度は、中華の科挙制度にその起源が存在しているが、中華の科挙制度とは近代科学技術が存在しない時代の官僚登用制度であって、これは人間の精神を愚民化するだけのものでしかなかった。
現代日本の受験教育であっても、単にペーパーテストの点と内申が良ければいいというものであって、「紙の世界の外」を「想定の範囲外」とする人間を量産することしか出来ないことは科挙とまるで同じだ。
受験教育が続くうちは表層的に人当たりが良いだけで、実体的な公共性が全くないアイヒマンのような者だけが社会に増え続けることにしかならない。

とはいえ、人類史においては教育とは殆ど騙しそのものであって、二千年以上も前から観念的な洗脳によって社会が成立していた地域も存在している。
筆者は人類を洞窟の暗闇の中に留め続けた「騙しの構造」について読者に真実を明かしたいと思う次第だ。

本著ではわかりやすい対比構造として、プロイセン国王のフリードリヒ大王とナチス総統であったヒトラーを対比する演出を多用した。
哲学者とカルト宗教家の対比としては、彼らの対比こそが最も極大化された例であると言えよう。
この対比は、善悪のような観念的な二元論ではなくて、人類社会に貢献した英雄と世界史に最悪の汚点を残したペテン師という実体的な対比である。

国王のフリードリヒ大王はそれなり以上に民主主義的であった。
だが、平民出身のヒトラーは民主制によって当選したが、どこまでも民主主義を否定していた。
芸術家でもあった国王は政治制度の奥に在る理念を理解していた一方で、美大落ちの総統は洗脳と支配にだけ執着していたのが歴史の実像だろう。

大局観と要所への狙いが優れたフリードリヒ大王は、テンポが良く抑揚が効いた芸術作品を数多く残してもいる。
一方で、ヒトラーは作品の的確な指針を決め打ちすることも出来ず、意思決定の欠如による杜撰さと神経症的な細部の緻密さという矛盾が並立したガサツな絵しか描けなかった。ヒトラーは美を理解出来ず実体を認知出来ず、保身とぶりっ子以外が何も出来ない程に、愚かで軟弱であったというわけだ。

フリードリヒ大王とヒトラーの対比構造は、彼等の部下を対比しても完全に同じ構図が存在している。
国民国家の人間と群れに蠢き権威を妄信するナチス党員という比較は、頂点の対比の相似でしかなかった。
実は、この二つの人間精神の対比構造は既に江戸時代の日本の国学者の本居宣長が指摘しており、彼は哲学者の自由な精神を「やまとこころ」と名付け、儒教や他の宗教等に見られる観念的で抑圧的で従属的な精神を「漢意」と呼んだ。

明治維新とは本居宣長の思想を基盤とした政治運動であって、維新志士達は「漢意」のカルト宗教家ではなくて、「やまとこころ」の哲学者であり、つまりはヒトラーではなくてフリードリヒ大王であったのだ。
日本の「やまとこころ」はヨーロッパにおけるルネサンス精神と本質的に同一であって、古代の気風を見直す芸術活動が中世的な宗教社会を打破して近代社会を打ち立てる原動力となったことは、洋の東西を問わずに全く以て変わらない。

明治維新の「文明開化」とは、西洋の文明が日本に入ったのではなく、実は日本古来の気風が復古しただけに過ぎず、それが西洋の近代啓蒙思想と同じものであっただけなのだ。
だが、現在では日本人の「やまとこころ」が弱体化しており、それによって日本社会が暗黒時代に回帰しかけている。

本著ではヨーロッパの歴史について、ローマ帝国の崩壊までを古代、キリスト教による停滞の時代を中世、ルネサンス運動の勃興から国民国家成立以降を近代として扱っている。
一方で、日本では宗教によって身分が固定されることは江戸時代まで存在しなかったため、戦国時代まではヨーロッパの古代に相当する時代であると考えた。
現代の日本の惨状を表す言葉として、「中世ジャップランド」や「自民党幕府」という言葉がインターネットには存在しているが、宗教的な身分制度による統制が行われた江戸時代とは中世そのものであると言えよう。

図A

筆者は、アジアとは基本的に日本の西隣の極東アジアを指す言葉として使っていて、東南アジアの海洋民や中央アジアの遊牧民を指す言葉として用いてはいない。
日本人にとって、アジアという言葉には儒教的な要素が含まれている。ヨーロッパという言葉もバチカンの影響が及んだキリスト教圏を指す言葉として用いられる場合もあるのだから、アジアという言葉も儒教圏を指す言葉、地理的な意味での言葉ではなく宗教的な意味での用語として使ってもなんら問題はないだろう。

より深く言ってしまえば、ヨーロッパとはキリスト教によって形成された領域ではなく、ギリシャ哲学とカトリックとプロテスタントによって形成された領域である。
多くの日本人はキリスト教が万人救済の宗教だと認識しているが、カトリックと異なってプロテスタントはこの点を明確に否定している。
実は、カトリックとプロテスタントは同じ宗教の別の宗派というよりも完全に別の宗教であるのだが、この点に気付かなければ歴史の大局的な構造を認識することは出来ない。

このヨーロッパの成立要素の三分類は大雑把ではあるが、西洋社会の歴史構造をモデル化して説明するには大きく間違ってはいないだろう。
大局的な解説を行うためにメカニクスをモデル化した情報は、実体構造から乖離した観念であるイデオロギーとは完全に別物だ。
メカニクスは実体構造の観察と解析に基づいた生きた認知であって、イデオロギーとは権威による根拠なき決めつけの類でしかない。

往々にして、イデオロギーを妄信する者は、権威が押し付ける観念を暗記することに熱意を燃やす愚者に過ぎない。
情報と実体を照合することが認知であり、それを行わずにただ情報を記憶することが暗記というものだ。
暗記とは、脳に認知的閉塞を起こし、人間の観察意識を阻害するだけのものでしかない。
そして、現代の学校教育では教科書の暗記を行う能力のみが評価の対象であると言っても、完全な嘘になるということもないだろう。
実のところ、中世ヨーロッパの宗教教育でも教科書の暗記が重んじられていたという歴史が存在し、近代では教育は教科書中心から実験中心に移行したという歴史が存在している。

理解とは実体のメカニクス、つまりは実体構造の「機能的な繋がり」を認識し、その実体への認知情報を整理して体系化する脳処理である。
コツなり技術なりテクニックなりデザインなりと呼ばれているものも、実体のメカニクスを見抜いて巧みな意思決定を行うことであって、工学は哲学と呼ばれているものと本質的に同じ文明の力なのだ。

意味も機能も考えずにただ観念を暗記することは、想像力と観察力の欠如そのものでしかない。
実体への理解力が存在しなければ、事実も他者の意見も無視して、被害妄想に狂う独裁者のように振舞うことしか出来ない。
そして、往々にして、狡猾な賢者よりも幼稚なだけの愚者こそが、思考停止して他者を排除する独裁を行うのだ。

あらゆる実体構造には意味と機能がその奥に存在しているという考え方は、デザインにおける基本的な思想である。
人間には実体構造の「機能的な繋がり」を認知する直感が存在するが、古代ギリシャ人はこれを見抜くことを、イデアを視ると呼んでいた。
実体を通してイデアを視ることもなく理論だけを造ったとしても、それは絶対にイデア論未満のイデオロギーにしか成り得ない。
観念的な思考の積み重ねがイデオロギーであって、実体への直感的な認知的霊力がイデアであるということだ。
分かり切ったことであるが、動物的快楽欲求によって人間的探究精神を放棄するならば、イデアを視ることは絶対に不可能となる。

人間の自由とは人間が生きるために必要な能力であって、実体を認知し、その機能を理解し、駆動構造を解析して、それを自在に制御して、今の先の結果を創造する意思である。
本著では身近で実体的な議論を重視して感覚的な話を増やしたが、観念的な話が増えるよりは遥かに良いことだ。
人間の自由とは、ニーチェが唱えるような「力への意志」であって、観念的なイデオロギーという「無力への信仰」ではない。

イデアとイデオロギーが別のものであるということが分からなければ、ルネサンスの理念とプロテスタントの独善の違い、実体的な思考と観念的な妄想の差を知覚することは出来ない。
信念と信仰の違いとは、前者が己の内面に基づく一方で、後者は外から強制されるものであって、それ故に後者は結果の是非を考えることが出来ないということだろう。

人間の歴史は、人間の認識と社会の構造と時代の流れの絡み合いによって紡がれる。
筆者は人間の歴史を実体的に理解するために、理論としての哲学ではなく、「力への意志」としての哲学に重点を置くことにした。
マインド(精神)とシステム(構造)を噛み合わせてアーツ(芸術)を生み出すことがあらゆる人間の活動の本質であり、これは「心技体の調和」か、若しくは「気剣体の一致」と呼ぶべきものである。
科学技術というものは、システムを理解し、それを制御しようとする人間のマインドから生まれるが、これは存在と思考を繋ぎ合わせるアーツそのものであると言える。

現代社会の最大の問題は、観念的なイデオロギーと実体に基づいた科学技術の区別がつかなくなり、それによって意思決定が不全化したことだろう。
人間は、どこを目指し何をすべきかを認知できなくなり、政治というものがまるで前後不覚に陥ってしまったのだ。
とはいえ、情報の実体性を検証出来ない者がカルト宗教に嵌まるということは、古今東西を問わない歴史的な法則である。

かのマックス・ウェーバーは、二十世紀初頭の先進国はプロテスタンティズムによって成立する社会であると、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で説明した。
だが、現代の先進国に見られる官僚制や受験制度は、元々は古の中華で儒教の影響から発生したという歴史がある。
それ故に、現代社会とはプロテスタンティズムだけではなく、儒教とプロテスタンティズムによって成立する社会であるのだ。

これらの宗教に関わりが深いアメリカ、ドイツ、中華は、現在は地域覇権国家となっている。それは経済力の強さ以上に、彼らが宗教によって人間の精神を支配することに成功したことが原因だろう。
宗教によって精神を劣化させられた彼等は、知的好奇心無しに結果だけを求めているが、それこそが愚かさの本質なのだ。

明治日本の進歩精神は、社会を停滞させる宗教的な知的怠惰から最も遠いものである。
だが、地政学的な立地から言って、この三つの全体主義社会の圧力を世界で一番強く受けることになるのは、この日本である。
現代の日本は外発的な圧力によって、世界で一番不自由な国と化してしまったのだ。

それ故に「現代の超克」は、まずこれらの宗教の性質を見抜くことによって始まる。
コロナウィルスによる肉体への攻撃よりも、観念的なイデオロギーによる精神への攻撃の方が、人間に対して遥かに重篤な被害をもたらすことは明らかだ。

ウィルスは自己複製機能を持たないが故に細胞への寄生によって増殖するが、観念も実体がないが故に人間の思考への寄生によって増殖を起こす。
不安と麻薬のマッチポンプで人間を支配することが宗教権威の手口であるが、宗教の観念に取り憑かれた人間は問題解決への志を喪失し、ただ悲観主義に陥ることしか出来ないのだ。

芸術的なフリードリヒ大王は事実に基づいた風刺を好む人物であった。
そして、「芸術は爆発だ」と発言した岡本太郎は、「自分の中に毒を持て」とも述べていた。
芸術というものは、実体に捩じりと捻りを加えて演出することによって、己の意思を容赦なく表現する創造的破壊であるが、端的に言ってしまえば毒を美しく見せる手段であるとも言える。
そして、毒を上手く活用することこそが人間の医学の本質であるということも、忘れてはならない事実だろう。

言い訳がましい弁明ではあるが、筆者は神官という権威に仕える卑屈者ではなく、真実を射抜く道化師であることを目指しているので、本著では日本語の言霊の芸術性を最大限に過激な形で発揮させることにした。
当たり障りのない毒にも薬にもならぬものの内には本質的な美は存在しないのであって、芸術とは実体を誇張することによってその本質を知覚させるものである。
日本にも政治を風刺する芸術は多々存在するし、イギリス人やフランス人も伝統的にそれらを好んできた。言論の自由とは、まさにこうしたアーツを成立させるために存在している。

本居宣長は、「やまとこころ」とは「もののあはれ」を、つまりは実体の在り方を重んじる心性であると説いた。
一方で、ドイツに見られるロマン主義は、「もののあはれ」への無関心であって、この「漢意」が中世暗黒時代を形成したわけだ。
本著では、真実を抉り出すために、可能な限りに激しい表現を用いてアメリカを批評したが、別に筆者はアメリカのことを文字通りには嫌ってはおらず、筆者が批判しているものは「分断」を引き起こすアメリカの宗教と、それに由来する人種差別である。
ナチズムの本質が見過ごされ、トランプ前大統領の蛮行が忘却されないために、芸術的過激さが必要となっただけなのだ。

            


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