汽車にゆられて

その駅の向こうに線路はない。

北陸本線から乗り継ぐ単線の終着駅。

私が生まれ育ったその町は、海と山に囲まれた静かな港町。日中は1時間に一本程度の電車がその駅にやってきて、また折り返して発車していく。今時、あきらかに電車のはずだが、町の人たちは親しみをこめて「汽車」という。

そんな汽車にゆられて、二十代だった私は毎朝、県庁所在地のオフィス街へと通勤していた。

海沿いを走る単線の車窓から見る景色は、町おこしのパンフレットに欠かさず載るほどの絶景だ。

海すれすれを走り、海の向こうには立山連峰が見える。物心ついた頃から毎日見ていた景色は一度も飽きることはなかった。いつも私を大事に包み込んでくれる風景だ。

朝の通勤時、3両編成の車両は顔見知りが多い。隣町の高校に通う学生や、ちょっと眠そうな通勤の会社員。狭い町だから当然同級生もいたりする。ほぼボックス席の車内は、共に居合わせた四人が思い想いの時を過ごす。

冬の朝。しんしんと降り積もる雪の中、待つ人たちはいつもより口数も少ない。寒さと足元の悪さに少しうんざりしながらホームに佇んでいた。

いつものように改札を抜け、いつものホームに立とうとした時。一匹の白い子犬が改札を駆け抜けてホームに迷い込んできた。

子犬は、ホームの端に降り積もる雪に興奮しながら、人々の足の間を軽やかにくるくると走り回る。遊んで遊んでと、みんなを誘う。子犬が駆け抜けた後には、みんなの笑顔が残る。寒さも北陸特有のどうしようもない荒れた天気も、子犬は一気に吹き飛ばす。誰も子犬を捕まえようとはしなかった。駅員さんも一緒に笑顔になった。

一人の男子高校生が子犬と一緒に遊び始める。足に絡まりながらホームでじゃれる子犬をその足でうまくかまっている。暖かい視線の中、彼と子犬は友達になった。

ホームへ汽車が入ってくる。下車する乗客の迷惑にならないように高校生が足で子犬を挟み込んでいた。滞りなくホームの人たちが汽車に乗り込むのを見届けて、高校生は子犬にバイバイした。

車窓からみんなが子犬を見ていた。高校生が汽車に乗り込む。乗客の視線が一斉にドアへ引き込まれた。子犬が一緒についてきてしまった。

くすくすとみんなが笑った。誰も連れ出せとは言わない。子犬は車内を少し行ったり来たりした後に、高校生の足元に座った。

「寒いなぁ」と高校生は、子犬を足で挟み込んだ。みんなが行く末を見ている。

高校生は、少し考えて子犬を抱えて立ち上がり汽車を降りて改札へ向かった。駅員さんと笑顔で話をして、子犬を抱いたまま改札を抜けて行った。

みんなが笑顔だった。誰も子犬を排除しなかったし、誰のことも責めなかった。突然の予期せぬ出来事を楽しむ気持ちと、やさしい気持ちが溢れ、汽車にの中は、暖かいひだまりのようだった。

高校生は無事汽車に戻り、定刻通り発車した。

あの子犬はどこへ行ったんだろう。

みんなの心を一瞬で暖かくした子犬は、きっと雪の中を元気に駆けていっただろう。この町の暖かい誰かが家族に招き入れたかもしれない。

その日の朝は、ボックス席のみんなが穏やかなやさしさに包まれた。

遠い日の田舎の朝の、小さな出来事。

いつまでも忘れない風景の一つだ。



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