わかり合うとは、相手の中に自分を見つける作業
つぶやきじゃわかり得ない
私の好きな会社の社長が買いた本を読んだ。
社長のSNS(Twitter)の投稿をピックアップして、その時の気持ちなどを解説のように書き加えた本だった。
よくある経営ノウハウ本でもなく、社長の自伝とも違う印象。
過去のツイートをベースにしているのだが、そのツイートをリアルタイムで見ていたので、コメントが荒れていたものがあったのも覚えている。
その時の感情や背景が書かれていた。
「つぶやき(140字)では、考えが伝わらない。」
とは言われる。
しかし、
「長い文章なら、考えが伝わる。」
とも言い切れない。
つぶやきにしろ、文章にしろ、「その人の一部分」でしかない。
自分とは違う他者の一部分。
「わかる」とは、「他者の中に自分を見る」ことなんじゃないか?
そんなふうに思う。
人の数だけ世界がある
人は、自分の脳を通して世界を感じる。
その際、「自分だけのフィルター」を通して世界を認識している自覚を失っている人が多い。
知覚の仕方は人それぞれ。さらに、その判断も人それぞれなのだ。
同じ空間にいても「暑い」と感じる人もいれば、「寒い」と感じる人もいる。
それを「快適」に思う人もいれば、「不快」に思う人もいる。
血の繋がりがあってもなくても、そういう現実が生まれる。
同じ物語を見ても、同じ文脈を経験しても、受け取る印象はその人によって違う。
フィルターの数だけ世界があるようなものだ。
似たようなフィルターを持っている場合に、世界の一部分を共有できる。
多くの場合、人とは異なるフィルターを持っている。
どういう点で、どのように異なるフィルターなのかの確認をするのは難しい。
他者は「自分とは異なるフィルターを持っている」、つまり「自分とは違う世界を見ている」存在であるのを忘れてはならない。
人の世界を否定しない
そもそも自分とは違う世界の見方をしている上に、文字だけで表現されたものを見て、その他者のどこまでがわかるだろうか?
140字で、世界の何が共有できるだろうか?
フィルターの数だけ世界がある。人の数だけ世界がある。
それを言葉だけで、しかも少ない文字数で共有できると思う方が無理じゃないだろうか?
しかし、他者とは自分の世界に現れた存在だ。
自分の世界にとって何の意味もなければ現れなかったはずだ。
私の世界に用事がないために現れない存在は、無数にある。
その無数の存在は、私の世界では存在していないことになっている。
何か意味があって、私の世界に現れて、何かしらの対象を通じて世界を共有しているのが、私の世界に現れた他者だ。
いったい何を、どのように、共有しているのだろうか?
それを読み解くのがコミュニケーションだと思う。
共有しているところを探すのだ。
違いを見つけて否定するのではない。攻撃するのではない。
わかり合いたい部分を探すのだ。
それが自分の理解になり、世界を理解することにつながる。
他者は攻撃の対象のために現れたわけではない。
もしも、攻撃しているのだとしたら、その対象とは自分自身だ。
世界とは自分のフィルターなのだから。
そんなことを10歳の娘から教わった。
娘)「〇〇の匂いがするね」
私)「しないよ」
娘)「△△と同じ匂いだよ」
私)「しないよ」
娘)「そうやって、否定ばっかりしないんだよ」
私)「・・・」
私には匂いが感じられなくても、娘には感じられるのだ。
それは事実なのだろう。
それを、「あなたにはそうかもしれないが、私は違う。よって、そんなものは存在しない」と切り捨てる(否定する)のは、「自他の分離」を強める。
世界の共有からは程遠い。
他者は、自分と何かを共有して発信している。
何を共有しているのだろう?と探索することはあっても、否定するのは違うと気づかされた。
否定は自他の分離を強くし、自らを世界から遠ざけてしまう。
「この人は、世界をどのように見ているのだろう?」
そういう興味を持って、他者の発信を受け取っていこうと思う。
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