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生きる

初めて人の死に接したのは曾祖母が亡くなったときと記憶している。まだ小学校に上がる前だった。離れて暮らす親戚で、母のばあちゃんと言われてもなんだかぴんとこない。あまりに昔のことで思い出せることもあまりないのだけど、火葬場の煙突から立ちのぼる煙をただぼんやりと見つめていたことだけは、心の中の風景として憶えている。多分僕の近くにいた誰かが、死んだら煙になるんだって、あれがひいばあちゃんだって教えてくれた。遠い遠い記憶だ。


あれから僕はいくつかの身近な人たちの死に接してきた。こうして生きている限り自分ではない他人の死に接することは宿命ではあるけれど、その度に思う。死は決して特別なものではなく当たり前のことで、生きているこの状態こそ奇跡なのだということを。偶然のうちに生まれ落ち、たまたま生かされ生きている。死も生もそれ自体に意味はなく平等な命を偶然が支えている。死や生に意味を与えるのは人間の心。問いかけ、こたえることの中で単なる記号や摂理としての生死に意味が加わる。その問答をあきらめず、続けることが生きる者のすべきことなのではないかと思っている。



阪神大震災の頃は社会人になったばかりだったけど、大阪と行き来するような仕事をしていたから当時のことはよく憶えています。直接の知人に被災した人はいなかったけれど、間接的には色々なお話を聞きました。しばらく経ってから現地も訪問させてもらい、震災の凄まじさを感じ、がれきの中に捧げられた多くの花を見て、人の死というものを実感したことを思い出します。まだ若かった僕に何を教えてくれたのか、僕は何を学んだのか。こんなに時間が経った今でさえ、人は何故生き、何故死ぬのか、僕には答えがありません。一生答えは出せないかもしれないと思っています。だけどこの問いは続ける。その時々の答えを自らの心に刻んでいく。何故かはわからないけどそうすべきと思っているのです。



26年前の阪神淡路大震災で被災された全ての方にお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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