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詩集『深呼吸の必要』 長田弘

長田弘さんの詩集「深呼吸の必要」は僕がとても大切に思っている本。「あのときかもしれない」という散文詩の中で僕たちが子どもだった時代はいつ終わりを告げたのか、僕たちはいつ大人になったのか、その瞬間とはいつだったのか、繰り返し問いかける。例えばこんなふうに。

きみはいつおとなになったんだろう。きみはいまはおとなで、子どもじゃない。子どもじゃないけれども、きみだって、もとは一人の子どもだったのだ。
子どものころのことを、きみはよくおぼえている。水溜まり。川の光り。カゲロウの道。なわとび。老いたサクランボの木。学校の白いチョーク。はじめて乗った自転車。はじめての海。きみはみんなおぼえている。しかし、そのとき汗つぶをとばして走っていた子どものきみがいったいいつおとなになったのか、きみはどうしてもうまくおもいだせない。


そしてまたこんなふうに。

「なぜ」とかんがえることは、子どものきみにはふしぎなことだった。あたりまえにおもえていたことが、「なぜ」とかんがえだすと、たちまちあたりまえのことじゃなくなってしまうからだ。(略)
そういう「なぜ」がいっぱいきみの周囲にはあった。「なぜ」には、こたえのないことがしょっちゅうだった。そんな「なぜ」をかんがえるなんて、くだらないことだったんだろうか。


こうした子ども時代の無邪気な問いに、そして大人になった瞬間とはいつだったのかという問いに、幾つかの答えを平易な言葉で差しだそうとする。例えばこうだ。

そうしてきみは、きみについてのぜんぶのことを自分で決めなくちゃならなくなっていったのだった。つまりほかの誰にも代わってもらえない一人の自分に、きみはなっていった。きみはほかの誰にもならなかった。好きだろうがきらいだろうが、きみという一人の人間にしかなれなかった。そうと知ったとき、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになっていたんだ。


或いはまた、こんな答えを。

けれど、ふと気がつくと、いつしかもう、あまり「なぜ」という言葉を口にしなくなっている。
そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。「なぜ」と元気にかんがえるかわりに、「そうなってるんだ」という退屈なこたえで、どんな疑問もあっさり打ち消してしまうようになったとき。


この本を開いて、ふと後ろを振り返り、夕暮れの電信柱の陰に少年時代の僕の姿を見つけるとき、もう随分と遠くまで歩いてきてしまったことを、僕は子どもではなく確かに大人になってしまっていることを、優しくそして少し寂しく、思い出させてくれる。




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