私たちが、本当は受け取っているもの:エネルギーのお話

私はグラフィックデザイナーなのですが、アシスタントデザイナーの時に、先輩から言われた忘れられない言葉があります。

「表面的には同じに見えても、デザインした人が心を込め、楽しんで取り組んだ物なのか、そうじゃないのかは、必ず相手に伝わる」。

その後、経験を重ねるにつれ、この言葉の意味がより深く理解できるようになりました。
なぜだか分からないけれど、情熱を注ぎ込んだ仕事ほど、相手に喜ばれたり、スムーズに進んだり、よりよいものができたりすることが多いように思います。

なので、気持ちって言葉にしなくても伝わるんだなぁ、と何となく思うようになったのですが、送り手としては分かったように思っていても、受け手としてはまだまだだな、と思うことがあったので、今日はそのお話です。


私の父は口数が少なく、会話は得意な方ではありません。たまに会話をしても、父からの一方的な話ばかりで、「双方向コミュニケーション」とは遠いものがあります。高校生までは一緒に暮らしていたのですが、私の大学進学に伴い、それ以来ずっと一緒に暮らしていないので、今は年に数回会うくらいです。

口数は少ない父ですが、贈り物が好きなようで、定期的に手紙が届きます。父の字は、達者というよりは、かなり個性的な字なので、解読がなかなか難しい。内容は、毎回同じ文章がまず先に書いてあり、加えてその時の季節の事柄や、好きな歌詞を書いて送ってきてくれます。

手紙に加え、「ここ読みなさい」と言わんばかりに、蛍光ペンで線がひかれた地元の新聞や、興味がある雑誌の記事のコピー、そしてたまに押し花を入れてくれるときもあります。


直接話したり、電話での会話もどうも続かないし、父は携帯電話を持っていないので、インターネットを通じてのやりとりもできないのです。どうしたもんかの結果、月日をかけてこのようなコミュニケーション方法に落ち着いた父と私。

今でこそ手紙や同封物が届くと、嬉しい気持ちで内容を楽しんでいるのですが、数年前までは違いました。


生きづらさを感じてもがいていた時期があり、色々な本を読んだり、内省をしたりして、当時は何とか楽になりたくて仕方がなかったです。そんな時に、父から何の気もない手紙などが届くと、自分の気持ちを分かって欲しくて、でも分かってもらえないもどかしさや怒りもあり、八つ当たりをするような気持ちで、届いたものを捨てていました。

一番落ち込んでいた時期には、「もう送ってこないで欲しい」と伝えたこともあります。その後、しばらくは届かなかったのですが、いつしかまた再開して、今も変わらずに送り続けてくれています。


色々な学びを得て、以前に比べるとだいぶ楽に生きられるようになった今、表面的に見えるものの奥にある大切さに、ようやく気づけるようになってきました。父からの贈り物についてもそうです。

自分が送り手の時には、受け手のことを考えて、「これがいいかな?あれがいいかな?喜んでくれるかな?」なんて相手の笑顔を想像したり、そんな時間も楽しんじゃったりして、すごく豊かな時間を過ごしていることは実感できます。

けれど自分が受け手になった時、自分が勝手に期待した「理想」どおりのものでないと、もの自体も相手の気持ちも、十分に受け取ることができていなかったことに気づきました。


私のことを思って、手紙を書いたり、贈り物を選んだりしてくれたんだな。このために時間を使ってくれたんだな。私を楽しませようとして、手紙以外にも色んなものを同封してくれたり、私の喜ぶ顔を想像してくれたのかもしれない。

そして、そんなたくさんの気持ちがつまった封筒を、ポストに投函する時の父の姿を想像すると、例え読みづらい文字だとしても、意味がよく分からないものだとしても、好みじゃないものだとしても、嬉しい気持ちでいっぱいになります。

ちょっと想像力を働かせば気づくはずなのに、どうしても分かりやすい表面的なものに意識が行きがちになってしまうので、もっともっと、その人の気持ちや、その人のエネルギーを受け取ることができるようになりたいと思うようになりました。


先日、文房具屋さんに行った時、ひまわりのイラストが立体的に飛び出るポストカードを、時間をかけて丁寧に選んでいる年配の男性を見かけました。その方の、大切な人への気持ちやエネルギーが伝わってくる感じがして、私まで幸せな気持ちになったので、今日の記事を書いてみました。


想像力と心の器を広げて、本当に受け取る。そんな気づきのお話ですが、みなさんはどう思われますか?

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