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【インタビュー】死ぬまで誰かの役に立ち続けるために。50代法人営業マンがnoteはじめます

はじめまして、ようちゃんねるです。

2022年から、保険会社での営業・企画、海外子会社副社長の経験をもとに、SNS等で新規企業開拓、新規事業開発、勝てるチームづくり、モチベーション向上のための発信をしています。

なぜそんなことをし続けているのでしょう。
人生100年時代、私の年齢は54歳。新卒から働き続けた会社も最終コーナーを曲がったところで、2024年半ば、32年以上勤めた会社から経営・戦略コンサルティングファームに転身いたしました。新たなチャレンジの中でも世の中の役に立ち続けたい私にとって、私が出来ることを必要としている人や、自分と同じ志を持つ人と出会い、繋がるためです。

そして2024年、新たなステップを踏み出すため、noteを開始することにしました。

まずは、私ようちゃんねるが誰なのか、どんな人間なのかを知ってもらいたいと思います。
自己紹介や私が通ってきた道のStoryを自分で書き上げることも考えましたが、読んでくださる方々の目線で届けたい、そう思ってプロのライターにインタビューをお願いすることにしました。

子ども時代のコンプレックスと1回目の挫折、若手サラリーマンの頃のキャリア観や苦悩、光が見えた気がした大きな出来事、そして2回目の挫折と人生の大きな目標を見据えた今。この約50年を振り返って、私のStoryを赤裸々にお話させていただきました。

ぜひ最後までお付き合いください。

「会社での成果や評価も喜びに感じられない営業マンが見据える未来。悔いのない最期のために、自らが培った経験で、世の中の役に立つ」

『我が人生に悔い無し』と思って死にたいんですよ。では、どうすれば満足して死ねるのか。私はね、どれだけ周りの人達から『あなたのおかげで助かったよ。ありがとう。』と言われて死ねたか、だと思うんです」

そう自らの死生観を語るのは、新卒で保険会社に入社し、営業・企画・海外法人で組織を束ね、国内外の多くの部下を育成してきた、ようちゃんねる氏だ。

社会に貢献したい、との想いが溢れる言葉を紡ぐ彼だが、若手の頃は「本当にこれが自分のやりたいことなのか」と仕事の意義を見いだせずにいたという。
管理職となった当初は、部下からの360度評価の結果も高くはなかった。営業成績は悪くなかったものの、もやもやした毎日を過ごすキャリアが続いていた。

50代も中盤になった現在の方が、生き生きと積極的にキャリアを切り拓く姿勢を見せる彼が、どんな出来事に直面し、何を感じ、どんな半生を送ってきたのか。そして54歳を迎えた今、未来をどう見据えるのか。

熱く、一方で、やさしさで溢れる、ようちゃんねる氏の想いをお届けする。

(プロフィール)
ようちゃんねる
1970年生まれ。1988年、早稲田大学商学部進学。
1992年、大手保険会社に入社。代理店向け営業や企業向け営業を経て、2009年にタイ子会社の取締役副社長に就任。2011年のタイ洪水を現地で経験し、営業本部長として保険金の支払いや会社の立て直しに奔走する。

2013年に帰国し、営業管理職として企業営業部門のマネジメントを担当。以後、部下自身のパーパスにフォーカスした1on1、モチベーションや層別の営業スキル向上のための自作の研修などで、「勝てる」組織づくりに注力。

そして2024年半ば、32年以上勤めた大手保険会社を退職。経営・戦略コンサルティングファームに転身し、新たなチャレンジを始める。

妻は美容系インフルエンサーとしてInstagramやYoutubeで活躍する「@yui_beauty3」。妻が起業した株式会社Bealizeの経営顧問でもある。
妻のすすめもあり、2022年からX(旧Twitter)で営業ノウハウの発信を開始した。

日々の癒やしは、愛犬のマロンくん(3歳)。夜はベッドで添い寝をするほどの溺愛ぶり。

コンプレックスがあった少年時代。たまたま保険の道へ

石川県金沢市に生を受けた、ようちゃんねる氏。子ども時代は親の転勤の影響で、全国各地を転々として過ごした。

「物心ついてはじめての転校が小学4年生でした。友達と離れるのが寂しくて、泣きじゃくったのを覚えています」

いじめを受けたこともあると当時を振り返る。辛い記憶も多かったが、度重なる転校の経験は、コミュニケーション力を養う機会ともなったという。

「処世術が身に付きましたね。転校自体も、全国に友達ができるメリットがあると、プラスに受け止められるようになりました。また、辛い経験もしたことで、どこかでふっと力を抜いて自分をいたわる、メンタルの持ち方も自然と学びました」

小学生時代は2年生まで剣道、4年生まで書道、高学年ではバスケをやっていました

幼いながらにコミュニケーション力やメンタルを鍛えた同氏だが、1つコンプレックスがあった。「リーダーになれないこと」だ。学級委員長など、小さな組織でのリーダー経験はあった。だが、部活動でキャプテンを務めるなど、周囲から好かれ、推され、頼られるという経験はなかった。本当は人に認められ、任され、先頭に立ってみんなの役に立ちたい、そう思いつつも、自分はできていない。そんな友人がうらやましかった。もやもやした思いを抱えていた。

就活では、子どもの頃から「お金がない」と親から聞かされ続けていたこともあり、業界を問わず給料の高い大手企業を中心に受けた。そこでいち早く内定が出たのがある保険会社だった。

「本当は志望度は高くなかったんです。でも給料はすごく良かった。それで、第一志望の商社以外は面接をすべてお断りしました。しかし、その商社も最終面接で落ちてしまいました。忘れもしない、平成3年7月19日のことです(笑)」

成果が上がるほど感じる、疑念

そんな経緯で保険会社に入社することになった、ようちゃんねる氏。地方の営業支社配属となり、保険代理店への営業を担当した。成績は良かったが、やりがいは感じられなかったと語る。

「会社の目標とする数字を達成し、評価されているけれど、本当に誰かの役に立っている感覚がなかったんです。お客様との間に代理店が入るため、お客様から直接『ありがとう』と言われる機会はめったにありません。会社の利益と代理店の手数料のために仕事をしているようで、自分の仕事は何のためにあるんだと、もやもやしていました」

ガイアの夜明けやプロフェッショナルなど、ビジネスドキュメンタリーが昔から好きだった。今も「下町ロケット」の世界が大好きな同氏。仲間や同志が叱咤激励しあって苦難を乗り越え、最後には涙を流し抱き合って喜ぶ姿が理想だった。しかしそんな瞬間は一向に訪れない。評価されれば評価されるほど、誰かのためになっていないような、そんなやるせなさがあった。

「会社を辞めたい、と何度も思いましたよ。辞表を出したこともあります。ただ、周りの方々には恵まれていましたね。また、総合職だから転勤も多いし、担当の業務領域も大きく変わることがしばしばでした。『次の部署ならば、誰かのために仕事ができるかもしれない。』そんな期待から、なんだかんだ時が過ぎていきました」

「あなたのおかげで、助かった」

そんなようちゃんねる氏の転機となったのは、入社17年目。海外子会社の取締役副社長として、タイに赴任することになった。

初の海外転勤。そこで同氏の身に降りかかったのは、2011年のタイ洪水だった。7月から12月に渡って続いた洪水で、被災者は230万人、死者は800名を超えた。

「本当にひどい状況でした。工業団地を含む一帯が水深3m以上の水に浸かり、その水がひくまで2ヶ月かかった。水が引いても工場の設備はサビだらけで使えない。オイルや化学物質の混じったヘドロが地面や工場内を覆っていて、どうやって復旧するのか、想像がつかないほどの惨状でした」

2011年のタイ大洪水 多くのお客様の工場が水没した

保険会社は、災害のときこそ出番だ。被災した企業100数十社に対し、保険金支払いの準備をはじめた。

「被災されたお客様はもちろん、日本の本社や、世界中から集結した損害鑑定人など、さまざまな関係者との連携が必要になります。マネジメントの立場と最前線の立場の双方で、死に物狂いで駆け回りました」

そして、ようちゃんねる氏は、ずっと思い悩んでいた「誰のために仕事をするか」の答えを見た気がしたと語る。

「保険金をお支払いしたお客様から、心の底から感謝されたんです。手を強く握られ、目を潤ませたお客様が、『これでなんとか再建できるよ』と。その会社の存続は、多くのタイ従業員の家族の生活や命に直結している。自分の仕事が誰かの役に立っているんだと、今までにはなかった手応えを感じました」

入社以来ずっと同じ会社にいて、部署は何度も変わってきたが、本質的には仕事の内容は変わらなかった。この会社で誰かのためになる仕事ができるのか、そんなのは建前じゃないのか、そう思って20年近く過ごしてきた。だが今、この仕事でも本当にお客様のためになることができるのだと、はじめて手触り感をもって実感できたのだった。もっと誰かの役に立ちたい。確かな志が生まれた瞬間だった。

このままのマネジメントスタイルではいけない

2013年に日本に帰国後、大阪で営業部門のマネジメントを任された。この仕事でも人の役に立てる、そんなやりがいを知った今、部下を育ててもっと世の中に貢献したい。そんなやる気に満ちていた。

部下とは目標管理の面談を何度も行った。プライベートの雑談は一切なし。「お客様に認めてもらうために君は何をやるのか」「いつまでやるのか」と問い続けた。認められた、感謝されたということの結果が「新規の成約」だと疑わず、それを追うためにとにかく詰めた。いわゆる、厳しい上司だった。

だが、組織の成果は初期こそ好調に見えたが長続きはせず、以後はパッとしなかった。そんな時に毎年行われる、上司を対象とした部下による360度評価。『的確な指示』の有無の問いでは評価は高かったが『傾聴』は低かった。部下としては、相談すれば指示が与えられ、その通りに動けば結果が出るが、決して自分の成果や成長だという気はしなかったのだろう。自立心は育つことなく、失敗を気軽に報告できるような上司ではなかった。

「自分が夏休みを2週間取ると、部下たちがほっとしているんです。結局、部下にとっては、やらされていただけ。本人のモチベーションを高めることができていませんでした」

今のままでは成果も頭打ちだ。上司である自分が変わらなければ。だが、どうすればいいのかわからない。そんなときに出会ったのが、シリコンバレー発祥で、今や一般的となった1on1だった。今までの目標や行程管理重視のスタイルとは全く方法や内容が異なるが、成果を出せていない以上、やってみるしかない。そんな思いで、5年間の大阪勤務を終え、東京に転勤すると同時に自分のスタイルを一新することを決意した。

1on1を徹底して行った

具体的には、1on1を毎回30分、月1回定期的に実施するのはもちろんのこと、部下の呼び方も全員「さん付け」で統一。呼びかけに続く言葉にやわらかさをもたせる効果があると思ったからだ。自分が若手の頃悩んでいた「何のために仕事をするか」については何度も語ったし、部下にも何度も聴いた。モチベーションの源泉になるからだ。ほかにもコーチングなどの周辺の知識も身に付けながら、組織づくりを進めていった。

エンゲージメント調査全国一位に

驚くべきことがおこった。

2年後に、組織のモチベーションを測る社内のエンゲージメント調査で店種別1位を獲得。200店舗以上の中からトップに躍り出たのだ。担当役員からも「あの管理職にマネジメントのアドバイスをしてあげてくれないか」と頼られるようになっていた。

継続すること2年。その間に諦めなかったのか、聞いてみた。

「成果が出るまで時間がかかることは分かっていましたし、今までのやり方ではだめだということも痛いくらい認識していました。決心したからには、ブレる気持ちはありませんでしたね」

当たり前のように語るが、2年は長い。その間諦めずに継続できたのは、彼がこれまで培ってきた忍耐力、そして世の中に仕事を通じて貢献したいという、強い想いがあったからだろう。

これからの人生を、どう生きるか

こうしてマネジメント面でも仕事が評価され、充実したキャリアを送るかたわら、50歳を超え、会社員人生にも終わりが近づいてきた。人生100年時代と言われる今、会社を去った後、自分はどう生きていくのか、そしてどう死んでいくのか、考えざるを得ない年齢となった。

「死ぬときに、『俺の人生に悔いはなかった』と思って死ねる人生を送りたいんです。どうすれば悔いがないか考えてみると、自分が欲しいのは札束ではない。「あなたのおかげで助かったよ」といわれる、その量だなと。だから私は、体が動くかぎりずっと仕事を続けて、誰かの役に立ち続けたいと思うんです」

とはいえ、いずれは会社を去ることになる。会社の看板を掲げず、自分の力でビジネスを成功に導く力を今のうちに身に付けておかねば。そう考えるようになった。

後押ししたのは、インフルエンサーとして活躍する妻の存在だった。

https://www.instagram.com/yui_beauty3/

「妻が会社を設立し、自分は経営顧問を務めることになりました。今は無給ですがね(笑)。その『箱』を利用して、いずれは多くの従業員を雇うほどの会社にする、そのサポートをしたいと考えています。

一方で、自分で何かやりたいという気持ちもあって。妻のように、Instagramをはじめようと思ったんです。でも妻からは反対されました。『あなたは文章で伝える方が合っている』と。そこでXでノウハウの発信をはじめました」

発信している内容は、これまでのキャリアを活かした企業開拓のプロとしてのコンテンツ。営業ノウハウやスキル、そして1on1を軸としたチームマネジメントに関する内容を毎日投稿してみることにした。

やると決めたからにはやり続ける、と彼は言う。有名インフルエンサーのセミナーに参加するなど、徐々につながりを増やしていった。開始から2年あまりで、フォロワーは1400人を超えるようになった。

https://twitter.com/youchan_nel_

世の中の人の役に立ち続けるために

キャリアをスタートしてから長らくくすぶっていた、ようちゃんねる氏。現在はキャリアについてどう考えているのだろうか。

「仕事がくだらないから会社を辞めたいとか、そんな気持ちは一切なくなりましたね。会社員を続ける中で、周りの人達が自己実現をして成果を上げることに、大きなやりがいを感じます」

一方で、と続けるようちゃんねる氏。

「Xで今までやってきたことは、全部が正解ではないし、まだまだやれることはあるんだろうな、と思っています。たとえば1on1ひとつとってみても、ベンチャーでこれから組織づくりをしていきたい方のメンターとして支援する、その手段として使ってみる方法もあるかもしれません。自分が培ったことで、世の中に貢献できることはたくさんあるはずです

その一歩として、noteでの発信に踏み出したのが今ここ。字数制限のあるXに比べて、これまで以上に詳細まで伝えるコンテンツの提供が可能になる。これまで以上に、活動の幅も広がっていくだろう。

「まだまだ、どんなビジネスをしていくかについては模索中なんです」と語るが、その姿に焦りは見えない。むしろ自信すら伺える。これまで確かなスキルを培ってきた自負があるからだろう。

最後に、「今死んだら後悔しますか?」と聞いてみた。少し悩んだ後に、「まだ死ねないですね」と笑って答えてくれた。どうやら今のようちゃんねる氏は、「誰かのために役に立つ」ことにまだまだ満足できていないらしい。他者への貢献に対する異常なまでの貪欲さ。この想いが今後も多くの人たちを救うのだろう。

編集後記

ようちゃんねる氏とはじめて出会ったとき、「物腰はやわらかいが、芯の通った頼りがいのある、ダンディなおじさま」、そんな印象を受けた。インタビューをしてみて、その印象は更に強くなった。
だが意外だったのが、くすぶっていた若手の期間が長いこと。順風満帆と見える経歴からはまったく想像ができなかった。

あらためて考えてみると、ようちゃんねる氏が若手時代にもやもやした気持ちを抱えていたのは、あまりにも「誰かのためになりたい」という意志が強かったからなのだろう。ごく普通に成果を出すだけでは満足できない、そんな人間性が、彼のキャリアにとっては壁となった。そしてその壁を乗り越えた後、ようちゃんねる氏の変化は目を見張るものがある。人が変わるのに、年齢なんて関係ないんだと心からそう思えた。彼のこれからの活躍は、同世代のビジネスパーソンにとっても、光となるだろう。

この記事で興味を持った方は、ぜひ一度、ようちゃんねる氏と話してみてほしい。数多くの部門で、何千人というお客様や取引先と出会い、また社内の多種多様なメンバーと千回以上も1on1をし、成果を出してきた経験をもつ同氏との対話は、新たな気付きを得られるはずだ。

ようちゃんねる氏のスキルセットについては、こちらのnoteに詳しく示してある。
このnoteから新たな縁が生まれ、世の中の役に立つ何かにつながることを、心から祈っている。

インタビュー・執筆 林春花


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