【年齢のうた】河島英五 その2●願望と孤独が生々しくにじむ「二十七才」
島根で買ってきたものをあれこれ食べたりしています。
自分はこんなふうに何かの行事から日が経つと、つい「あれから1週間か~」「もう1ヵ月も前になるんだな!」と思い返すクセがあります。まあ法事の帰省なんて一瞬で、旅行でも出張でもないんですが。
これは思い出や経験を自分の中で反芻し、確認しておきたい気持ちがあるからですね。何を呑気なことを、もう次のことに向かえよ、という意見もあるかもですが、出来事があまりに続くと何かを見失ったり忘れたりすることが多くなる気がしまして。だって、こうして少し前を振り返っても、すぐに失念していきがちなわけです。あれこれを。
まあ僕なんか生活圏からあまり出ない生活をしていてこれですから(そもそも通勤がないし)、あちこち飛び回る仕事をしている方はもっと大変だと思います。ミュージシャンとかね。
そういえばアジカンの南米でのライヴが異常に盛り上がってる動画を観たんですが、その熱狂ぶりはもう思わず笑ってしまうほどでした。すごいな~。地球の裏側までのツアー、お疲れさまです。
ではでは、河島英五の2回目です。
河島英五というアーティストのこと
あらためて、河島英五についておさらいしておく。
河島英五は1952年の4月生まれ。亡くなったのは2001年の4月で、48歳の時だ。もうすぐで49歳になる時だった。
東大阪市出身で、活動のベースは関西にあったようである。僕は東大阪市に3年間住んでいたので、よけいに惜しい気がしてしまう。ニアミスしてたかもとか、もっと長く生きてほしかったなとか……。
前回書いたように、僕が「野風増」を聴いたのは84年から85年頃のことだと思う。といっても、それも40年も前になる。
その頃にはもちろん「酒と泪と男と女」も知っていた。とうの昔にヒットしていたのだ。ただ、河島英五という人の歌だとは、そんなに意識していなかった。
その後、彼の歌を少しずつ知っていった。とりわけ印象深いのは、これも人気曲の「時代おくれ」。作詞は阿久悠である。
それに、「てんびんばかり」。
そして「生きてりゃいいさ」。
それともうひとつ忘れてはいけないのは、河島が沢田研二に「いくつかの場面」という曲を書き下ろしていたこと。自分は河島のことをちょっとずつ知っていった頃に、ちょうどジュリーの昔のアルバムを買い揃えていってて、この曲と同じタイトルのアルバムも聴いていた。
河島はこの曲をのちにセルフカバーしている。
「いくつかの場面」はジュリーのライヴで聴いたことがある。とくに思い出にあるのは、80曲を歌唱した『人間60年 ジュリー祭り』の時。この曲で彼は珍しく、唄いながら泣いていた。下記はその時にオリコンで書いたレポートだ。
ただ、去年の75歳のアニバーサリーでは唄っていない。楽曲のボリューム的には、上記の還暦の時が最も豪勢だった。
こんなふうにソングライターとしても優れていた河島英五だが、前回書いたように、僕は彼のライヴとは無縁のままだった。ただ、娘の河島亜奈睦がメンバーであるアナム&マキは一度だけ東京で、たしか新宿にあったリキッドルームで観たことがある。デビューの頃だから2000年ぐらいだったはずだ。
彼女は父親とセッションをしたり、共演した音源を残したりと、ミュージシャン同士としての交流もあったようである。
さて、こうして河島英五のことを調べている中、彼が年齢について唄った曲が前回の「野風増」(この作詞は他者だが)のほかにもあることを知った。
それが「二十七才」である。
27才当時の自分を唄った「二十七才」
河島英五の「二十七才」という曲は、1980年のアルバム『文明Ⅱ』に収録されている。
しかし残念ながら、今この曲はサブスクにも配信サイトにもない。それどころか河島の音源は、初期のものほどアルバムとして聴くことが困難になっている。CDにしても、サブスクやダウンロードの配信にしても、各オリジナルアルバムとしてまとめられているものが非常に少ないのだ。その理由に契約上の何かがあるのか、誰かのこだわりがあるのかは、わからない。
そうであるなら旧譜のCDでも売ってないかと思ったのだが、同じように初期の作品は、普通には入手できない。河島の作品は、CBS・ソニー(当時)へ移籍した中期以降ものと、彼の楽曲を編集したアルバムやBOXセットのような形では聴くことができる。なのに80年代前半までのものは、オリジナルアルバムという単位では聴けないのだ。
フォークシンガーとして、シンガーソングライターとして……ともかくアーティストとして高く評価され、その歌は今でも広く親しまれているはずだ。一方で、彼の音楽家としてのキャリア全体を捉えようとする動きがそんなになかったということなのだろうか。もったいないことである。
ただ、残念ながら、こういうケースは多いのだろうと思う。邦楽のみならず、洋楽でも。
というわけで、比較的初期にあたるオリジナルアルバム収録曲のひとつである「二十七才」にたどり着くために、僕は現在住んでいる文京区の図書館に出向いた。文京区の図書館はけっこうな数のアナログ盤を所有していて、レコード時代のアーティストの作品のいくらかは直接手にすることができるのだ。
そしてLPレコードの『文明Ⅱ』を借りてきた。レンタルレコードではなく、図書館の貸し出しを利用したのである。
1980年に出た「二十七才」は、このレコードのA面の2曲目。河島が27才になったのはこの前の年のことだ。
おそらく、さまざまなことを感じている渦中にいる自分自身を描いた曲なのだろう。
アップテンポの「二十七才」の歌詞は、とてもストレートだ。若過ぎるわけでもない、老人でもないという自分を唄っている。
欲望や願望に追われ、日々に疲れ、それでも自由を欲しながら生きる人間の姿。歌詞の最後では、ひとりじゃないことと、ひとりぼっちだということが、交互に表されている。
この『文明』というオリジナルアルバムは、ⅠからⅢまでの3作がシリーズ的に、すべて1980年にリリースされた。ジャケットやアートワークには、写真家の並河萬里が撮影した写真が使用されている。
70年代後半からの河島は海外を旅し、その先々で出会った人々や出来事を通して、人間というもの、そして自分自身という存在に向き合ったのだと思われる。「二十七才」は、そんな経験を経た彼が書いたということだ。
この歌には、逡巡や戸惑いも、衝動や願いも、それに孤独感もある。
27才……若さだけではなくなってきた自分と、しかしまだ何かをやりたがり、欲している自分と。20代後半は、多くの人は、自分の居場所や行きたいところ、やりたいことを確かめる場面が増える年齢にあたるのではないだろうか。そして大人と言われることになる30代を前に、自分自身について何かと考えがちな段階だと思う。
この曲での河島は、まさにそんな真っただ中にいるかのようだ。
「二十七才」を武骨に唄い、豪快に叫ぶ彼の歌声は、自分の行き先を探し求めながらも、力強さをたたえた彼そのもののようである。
河島英五というシンガーは、そんな人間のまま生きたのかな、と思った。