見出し画像

高齢者の被害妄想は病気ではない!

私には、80才になる母がいます。
それなりの高齢者ですが、食事や買物、家事に到るまで、自立した生活が出来ており、大きな介護もなく、恵まれた環境で私は同居しています。

ただひとつ、「物盗まれ被害」の妄想が酷く、会話をしても直ぐに、物が盗まれた内容となり、母からの会話も物が盗まれる相談…
間違いや勘違いを正そうと話をすると、人格が変わったかのように「怒り」へと変貌してしまいます。
そうなってしまうと、自ずと会話が減り、母との接触を控えるようになっていました。

このような状態は、異常な環境だと感じながら対応していましたが、老人ホームや介護施設、高齢者との同居生活では、日常的に起きている現象であることを知りました。
そして、身近で接している人の「苦労」や「悲しみ」、対応方法など調べて行くと、感銘や共感、共鳴する点が多く「勇気」を頂きながら、私も、日々母と接しています。

私も、私なりに「カタカムナ」を探究している立場でこの問題を捉えていますので、ひとりでも参考にして頂けたら嬉しく思います。
また、私も体感している「身」ですので、反対意見やアドバイス等を頂けたら参考になりますので、コメントを頂けると助かります。

盗まれる物

様々な物が盗まれます。
「財布」や「現金」、「預金通帳」などは勿論のこと、自宅で飾る絵画や工芸品などの「置物」、「衣類」や「寝具」、「食材」や「冷蔵庫の中身」、「物置に保管している物」や「洗濯物」、「食器」や「電化製品」に到るまで、全ての物が盗まれる対象となります。

※実際には、「自分で物を移動」「捨てた」「昔にあった物」「買ったつもり」「あったつもり」などの、「記憶違い」になります。

その結果、「ドアの鍵」「金庫」「鍵付きの家具」などを購入しますが、特定の人物、又は誰かに「鍵が盗まれた」「合鍵を作られた」などと思考が広がり、特定の人物や誰かに「監視」されていると発展して来ます。

そして、これらに対する私達の視点での現実(勘違いや妄想)を伝え、本人をなだめ伝えると、「怒り」へと変貌してしまいます。



推奨される対応方法

色々な「カウンセラー」や「専門家」の意見を参考にすると、共通したアドバイスがあります。
同様な経験を持つ人であれば、共通認識しているアドバイスがあります。

「肯定も否定もしないで、本人の話を聞いてあげる」

「痴呆症」や「精神疾患」を持つ人への介護では、常識的な知識です。

しかしながら、この対応どこまで出来ますか?

見ず知らずの他人であれば、頭を使って対応出来ますが、家族であり、毎日接している人に対しては、平常で出来る対応ではありません。
私も2、3日は出来ましたが、非常に辛い対応で、毎日毎回続けることは、非現実的で長くは出来ません。

自分への「嘘」と、本人への「敬意」と「愛情」が無い対応だからです。
数年間接していますが、会話を途中で打ち切って、その場から逃げ去り、時には衝突して喧嘩になるのが現実ではないでしょうか?

また、一部においては、本人の日常に刺激や変化をつけて、新しい環境を作ってあげたり、旅行やデイサービスを利用させたりすることも推奨されていますが、「新しい妄想」が始まってしまい、後悔した人も少なく無いはずです。

そして、私はとても矛盾した対応方法であることに気が付きました。
なぜなら、「肯定も否定もしない」と告げているのに、環境を変えると言うことは、本人の日常を「否定」している事に繋がるからです。

本人は、「自分が正常」であり、「自分は社会に適合している」と感じているのに、周囲が勝手に提案して、本人を心身ともに連れ出す行為は、誰が望んでいることなのでしょうか?

この捉え方は間違いなのでしょうか?

正常である自分に対して、周りから「否定」されてしまうと、どのような心境になり、どのような態度で、あなたは周囲と接して行きますか?

自分は病人であり、自分は「おかしい」と認識出来ますか?



カタカムナと量子的観点

皆さんが「常識」だと考えている「時間」や「空間」は、社会の共通ルールであり、個人の常識ではありません。

ましてや、体に衰えが来ている高齢者は、「電気粒子(素粒子)」や「生命粒子(原子や分子)」の活動は、一般的な健常者に比べて、相当数の「遅延」や「乱れ」があり、社会的な時間や空間に追いつかず、歪んで認識しています。
この認識が、本人にとっては「時間軸」であり、「世界観」であり、「常識」となります。

それらの常識を、健常的な自分達の社会目線で、「病気」や「病人」扱いすることは、とても乱暴で横暴であると私は感じてしまいます。
穿った目線で言うならば、自分が「善」で母が「悪」と、勝手に決めつけて接している気がします。

人は、1人1人違う「時間軸」と「世界観」を持って生きているものです。
母にとっては、母の感じている現象が「事実」であり「現実」なのです。

これを否定することは誰にも出来ず、他人の「時間軸」や「世界観」を自分に強要することは、社会でも同様にして行われ、時には「ハラスメント」として、みなさんは認識しているはずです。

「カタカムナの観点」や、最新の「量子学の観点」から観察しても、人の生命活動は、個々に特徴があり、個性があって当たり前です。
共通しているのは、それぞれの活動サイクルのパターンだけなのです。

ですので、他人からは「妄想」と受け止められますが、本人にとっては「現実」であり、実際に起きている「事実」なのです。


私なりの対処方法


「変わらなければ行けないのは、母ではなく、私達の方なのです」

母の「常識」を、自分達の共通する「社会の世界観」に当てはめようとする思考が、とても暴力的であり、理不尽な事だと考えています。

極端な例ですが、盲目の人に対して「色」や「視感」でのコミニュケーションはしないはずです。
ペットに対して、人の「言葉」でコミニュケーションをし、思いが伝わらないと言って、ペットを病気扱いにはしないはずです。

人とのコミュニティが上手く測れない人は、「病気」や「病人」なのでしょうか?

もしそうであるならば、母との世界観が相違している私の方が、「病気」や「病人」であり、独裁的な人間であると、母からは認識されるはずです。

「被害妄想」とは、起きている現実が、自分達の共通する社会とは違う「時間軸」を進んでいるために、他人との「コミュニティが上手く取れない」症状なだけであり、その人格や肉体を否定するものではありません。

また、残念ながら、この「歪んでしまった時間軸」を修正する方法(処置)は、現在の科学や医学では解明されていません。

私は、母と接している時は、「母の常識」に自分を合わせ、第三者を交える時には、どちらかに偏らずに、「母の世界観」と「社会の世界観」の「通訳」のようなポジションを取るようにしています。

(社会の目が、もう少しこのポジションを理解してくれると有り難いのですが…)

残り少ない母の人生を、少しでも母が満足出来るように近づけて行く事が、本人への「敬意」であり「愛情」であり、私の「使命」だと考えています。

あなたは、誰の「満足」の為に行動をしていますか?

状況に合わせて「自分を変える」
必要な場面では「自分の意思」を伝える

これが、「否定も肯定もしない」、「敬意」と「愛情」のあるコミニュケーションだと、私は考えながら日々接しています。

大切なことは、母(本人)の世界観を、自分が認めながら接して行く事であり、認められることは、本人にとっても満足に繋がると思っています。

そして、これは特別なことではなく、人とのコミュニケーションに於いて、興味のある相手には、誰もしている接し方ではないでしょうか?

「病気」扱いして良いのは、職業としている「研究者」や「専門家」の方々であり、私達ではありません。
コミュニティの「私感」が乏しい為に、病名に頼っているだけではないでしょうか?

妄想被害の対応に困っているのは、本人ではなく、自分ではないでしょうか?

それであるならば、
変わらなければいけないのは、母ではなく、私の方なのです。

あなたからのサポートをお待ちしております…そのサポートにより、わたしは一人でも多くの人に「勇気や元気」を与え、そして「何かのきっかけ」になれる事を目指します。共鳴共振出来る人たちと、お互いに協力しながら歩んで生きたいです…あなたからのサポートをお待ちしております。