見出し画像

【第1〜4章 〜俳優 / ハリウッド / 鬱 / 画家 / バンコク / 世界一周 / セレブ / パトロン 〜】

※本一冊分の分量(約77000文字)ありますので、
【前半(1〜4章)】と【後半(5〜8章)】に分けています。

出版企画書はこちら



第一章 希望の種を見つける 

 僕の母方の父(祖父)は警察官だった。
 祖父は多忙を極め、人付き合いも多く、家に帰ってこなかった。そんな祖父に育てられた母は「私は家庭を大事にする家族を築きたい」と子供ながらに思うようになった。裕福な生活だった反面、厳しく不自由な家庭環境で僕の母は育った。
 お見合いで父と出会い、結婚し、僕が生まれた。
 母自身が厳しい環境で育った反動で、ある家庭内契約が父母の間で結ばれた。
 母「会社で昇格しなくていい。給料も上がらなくていい。
   だから早く家に帰ってきて。仕事よりも家庭を大事にして」
 父「わかった」
 母の教育テーマは2つ
 「自由」(不自由のない生活を送ってほしい)
 「世界」(世界で活躍できる人になってほしい)
 母の教育哲学に賛同した父は、社内の昇格の話を全て断り、仕事と家庭の両立に奮闘した。そんな父母の元で僕と妹は育った。
 そして時は進み、僕が12歳、中学生になる所から物語は始まる。


 中学生初めての創造

 母 「小学校の友達がいる中学校に行くか、友達が誰もいない中学校に行くか、
    どちらか選べるけど、どうする?」
 僕 「新しい中学校に行くよ」(心の声:新しい人間関係と環境を体験できるなんて
    最高やん! 新しい世界みたい!) 
 小学校の時は自分に無理をして友達と付き合っていたので、そんな自分を変えれるかもと思い、友達がいない中学校に入学した。
 3年間同じ場所と人間関係で暮らすというのは一大イベントであり、集団行動も規則正しい生活も好きではない僕が、学校を嫌になるのは簡単だった。でも一度嫌いになってしまうと、3年間がキツイものになりそうだし、親にも心配かけてしまうと思ったので、僕は自分に誓いを立てた。
 「学校を嫌いにならない」
 そこで、毎日ルンルンで学校に向かいたくなる目標を考え、絞り出した答えは「友達」「恋」「自分磨き」。
 まず最初に得るべきものは「友達」である。


 友達を作る

 「一人になりたくない」
 「いじめられたくない」

 この2つの想いをいつも心に抱えたまま学生生活を送っていた。
 楽しい学生生活を送るためには、一人にならず、いじめられないことが大事だと思い、そのために最初にやるべきことは、勉強よりも先に「友達を作ること」が求められた。

 でも、シャイで人見知りな僕がどうやって? 
 ポジティブで陽気なキャラにならないといけないと思い、自分を変えた。必死でネタを披露し、みんなを楽しませていた。
 いよいよ新学期が始まり、僕は2つの方法で友達探しをスタートすることにした。
 1 同級生みんなをしっかり観察し、友達になりたいと思う人を見つける
 2 他人から声をかけてもらえるように準備をしておく
 まず、準備したのは3つのフック。
 1 カバンにキティーちゃんの大きな人形キーホルダーをつける
 2 斜めがけカバンの紐を長くする
 3 髪型を変える
 まずはわかりやすい見た目から入り、覚えてもらう作戦である。
 さまざまな陰口が聞こえてきた。
 「キモい」「変わってる人だね」「キティーちゃんさえ付けなければいいのにね」
 そんな時、一人の男性が半笑いで話しかけてきた。
 「なんでそんなにカバンの紐長いの?(半笑)」
 変な僕のことを見て見ぬフリをする人がほとんどの中、彼は初対面でサラッと話しかけてくれた。初対面なのに人のことを半笑いで小バカにできる彼の佇まいの背景に「自信」を感じた。
 「僕もその自信が欲しい! あの自信の源を知りたい! この人と友達になりたい」
と思った。
 彼の名は「まーちゃん」、学年のボスだった。まーちゃんがいるクラスでは、学生が先生をカラカいまくり、学級崩壊寸前になっていて、その先頭を切っていたのもまーちゃんだった。大人や現実に対する反逆精神が素晴らしく、統率力もあり、頭もよく、器用なまーちゃんの周りには、いつも五人の男性と三人の女性メンバーがたむろしていて、「あのグループに混じりたいなあ」と僕は遠目から眺めるようになった。
 そんな時に、まーちゃんが中学2年から野球部に入るという噂を聞きつけたので、僕も同じ時期に野球部に入部した。2年生から部活を始める人はまーちゃんと僕だけだったので、そこで二人の距離が縮まり、僕は晴れて学年で一番イケてるまーちゃんグループに入ることができ、「一人にならない」中学時代を過ごすことができた。
 夜中にプールに忍び込んで警察沙汰になったり、クラブに行ったり、流行りのB系ファッションになったり、お酒とタバコを覚えたり、良いことも悪いこともみんなでしてきた。僕はそれが楽しかった。大人やルールにとってはダメだろうが、人間としては正しい青春を送っている自覚はあった。大人が怒り、理解できないことをやっていかないと世界は広がらないこともここで知った。


 恋をする

 「友達」を作ることができたら、次は「恋」と「自分磨き」。
 「恋」は実らなかったものも含めて中学3年間のあいだに4回あった。
 ・違う中学校の一つ年上の女性(翻弄され、泣いた)
 ・「好きです」と自分から言えなかったクラスメイト(甘酸っぱい思い出)
 ・学年で一番キレイな女性(自分の不甲斐さなを痛感した)
 ・のちにモデルになる女性(切なく綺麗な青春の一ページ)
 流行りの髪型に変えたり、腰パンしたり、眉毛を剃ったり、モテるために外見でできることは全部やった。幸い、高身長でちょっとイケメンで運動神経もあるので、少なからず女性から注目されていたことが嬉しかったし、そのおかげで学校に行くのが楽しみになった。外見のギフトをできるだけ洗練させることに努めた。
 外見の次は中身、人間力を磨きたい。これは実践あるのみ。
 勘違いされる行動をしてしまう、素直に自分の気持ちを表現できない、女性をリードできない、相手を楽しませることができないなど、僕は自身の男としての不甲斐なさと人間力の弱さを痛感し、このままではいけないと彼女たちに教えられた。

 恋に関しては恵まれていたと思う。だからこそ僕が大人になったとき、母に感謝を伝えたことがある。
 「僕をイケメンと高身長と運動神経のある男に育ててくれてありがとう」
 「それは私が意識して育てとったけんよ。男には欠かせない3アイテムやろ? 見るものが人を作るけん、できるだけいい服を着せて、いい作品を見せて、いい本を見せるようにしとったもん。スポーツクラブにも入れとったしね」
 親の意識は子供の外見も変えるようだ。


 自分磨きをする

 「友達」「恋」と続き、最後は「自分磨き」。
 学校を「自分の稽古場」に見立て、5つのことを道場ルールにした。
 1 人間力をたくさん盗む
   良い所、悪い所、カッコイイ所、ダサい所、美しい所など、多角的に見て、
   良いと思ったものはすぐ真似をしていた。
   (例)仕草、言い回し、ファッション、態度、考え、など。
 2 「カッコいい!」と思ったものを真似る
   心惹かれたものはとにかくなんでもすぐ真似てやってみる。
   (例)友達の一人がB系ファッションになり、カッコイイ! と思ったので
      すぐ真似した。
 3 どこでも行ってみる なんでもやってみる 
   自分の世界を広げてくれることは全てやってみる。
   (例)新しいお店に行く、誘いには全て乗る、新しい道を通って帰る、など。
 4 無意味なことをする
   (例)先生に反対意見を質問する、寄り道して帰る、など。
 5 映画を見る
   世界観と想像力を広げるため。
 この5つを意識しながら自分に磨きをかけ、3年間の学生生活を無事終えることができた。
 たくさん失敗し、悔しい思いもし、恥をかき、負けてきたけど、限られた環境の中でできる限りのことは挑戦できた。目の前の現実を最大限利用し、人生を楽しむために一生懸命挑戦した自分を誇りに思った。それをやり抜けた自分を褒めてあげた。そう思うことで自分の正当性を保っていた。


 光の陰

 「友達」「恋」「自分磨き」をクリアし、一人になることもなく、いじめられることもなく、学校が嫌になることもなく、順風満帆で輝かしい中学生を送れたように見えるかもしれないが、実は裏ではずっと苦悩していた。

 「僕はみんなに嫌われないために、自分を殺して生きてきた。でもそれでいいのか? 嫌だ! 自分が思うことを素直に言ったり、感じることを表現したりできる人間になりたい!」

 イジメられないように、言いたいことは奥歯でグッと殺し、嫌なことをされてもヘラヘラした顔でやり過ごし、みんなの空気を読みながら、誰も怒らせないように気をつけながら生きる毎日が、狭く、キツかった。かといって、そんな自分を変える勇気もなかった。
 その悶々とした怒りから解放される時がある。
 それが家で映画を見ている時だった。


 怒りのやり場「映画」

 父の映画好きがキッカケで僕も映画を見るようになり、「TSUTAYAに行けば陽介に会える」と噂されるほどに、映画をたくさん見るようになった。
 自転車で通える範囲内が世界の全てだった僕にとって、映画のスクリーンの中には無限に輝く素晴らしい世界が広がっていた。
 時はハリウッド映画全盛期、トムクルーズ、トムハンクス、ジャッキーチェン、スピルバーグ、ジェームズキャメロン、俳優たちは最高にカッコよく、ストーリーも最高に面白い。
 窮屈な現実と、日々の憤りをすっかり忘れ、別世界の冒険に没頭させてくれる映画に惚れ込み、「映画って素晴らしい!」と感動したのがキッカケで、「いつか映画に関わる仕事できないかな~」なんてぼんやり考えるようになっていった。 
 映画を作るのなら一番目立つ俳優か監督がいい。俳優は顔が整っていないとなれないが、幸い僕はそのハードルをクリアできるかもしれないという淡い期待があった。
 演技とスター性はこれから育てていけばいい。そんな想像が膨らみ始め、俳優になりたいという夢がぼんやりと見え始めるようになっていった。
 「どうせ無理」「できっこない」否定して諦めるのは容易い。
 でも自分を信じたい。挑戦してみたい。失敗してもいいから挑戦してみたい。挑戦しなかったら後で絶対後悔する。挑戦できたらその勇気はずっと僕の背中を押してくれる。そう自分で結論づけていった。


 「自由」見つけた!

 俳優になるなら何よりも先に「演技」である。まずは体験してみようと思い、ネットで「演技 体験 学生」で検索してみた。そして「500円で参加できる中高生向け演劇体験ワークショップ」を見つけ、それに応募してみた。
 主催者は演技に定評がある地元福岡で有名な実力派男優さんだった。ワークショップでは「役になってみる」「感情込めてセリフを言ってみる」「自分で舞台を作ってみる」など、簡単に演技の楽しさを感じれるレッスンを体験させてもらったのだが、僕はここで「演技」というものの素晴らしさに感動した。
 学校ではみんなに気を使い、家では親に気を使い、自己表現を抑えて生きていたので、自分を100%解放できる場所がなかった。
 しかし演技は違った。役になって舞台に立てば、その先には無限の表現の世界が広がっていたのだ。セリフを言っている間は、今までの自分を捨てることができ、新しい自分になれる。今まで溜まっていたウップンを、演技を通せば、全て放出できるような気がした。演技をするたびに自由を実感できる。その楽しさ。
 「現実の中にもこんなに自由な世界があったじゃないか、ここをずっと探してたんだよ。やった! 自由の世界あった!(泣)」
 自由な表現を許された空間が現実世界にあったことに驚き、感動と感謝の念でいっぱいになった。心も体も軽くなり、自分の歩き方が変わっていることに気がついた。誰とでも友達になれるような気になり、肩で風を斬り、堂々と、僕は街を歩けるようになっていった。
 「人間にはこの自由が必要だ」
 僕は強くそう思った。この感覚さえ掴んでおけば、人生ずっと楽しいじゃないか。
 他人から見ると、それはあまりにもはかない光かもしれない。だけど僕にとってそれはとんでもなく大きな光だった。この光は絶対捨てちゃいけない。一生大事に育てていこうと誓った。
 ワークショップの最終日、主催者は僕に声をかけてくれた。
 「陽介君、あなたには素晴らしい才能がある。ぜひ演技を続けてほしい」


 劇団に入団

 ワークショップ終了後、僕はもっと演技をやりたいと思ったので、すぐにネットで劇団を検索し始めた。自転車で通える福岡市天神エリアで探し、面白そうな劇団を発見するも、18歳以下お断りの劇団だった。でも会えば許してもらえるかもしれないと思い、とりあえずメールをしてみた。数回の劇団長とのメールのやり取りの後、体験入学をさせてもらえることになった。
 10人の劇団員がいた。市民センターの一室を借り、2時間の演技レッスンがスタートした。みんなで輪になって準備体操をしていた時に劇団長が遅れて入ってきた。
 (劇団長)「お疲れ様です~」
 (みんな)「お疲れ様です!」
 (劇団長)「・・・あ、君が陽介君だね。なんだかもう劇団員たちの空気に馴染んでたから一瞬気が付かなかったよ(笑)」
 (みんな)「ですよね~」
 既存のグループに参加させてもらう立場である以上、みんなに合わせることと、劇団長に気に入ってもらうことが僕のまずやるべきことである。
 グループに溶け込んでいく佇まいは、中学生の時の経験が役に立った。その場の空気と流れに身を任せ、風のようにスルッと爽やかに入っていく。準備体操の時点でこの課題はクリアできた。
 次は劇団長の心を掴むことだが、誠実な対応をすることと、「演技を学びたい」という情熱を見せることの2つで挑むことにした。
 レッスンの中盤で、ワンシーンをみんなで演じるレッスンになった。一人休んでいる劇団員がいたのでその代わりに僕が飛び入り参加することになった。3行ほどの短いセリフだが、演技ができる絶好のチャンス到来。少し被せぎみにセリフを発したり、感情を込めてセリフを言ったりして、3行に想いを込めた。
 そしてレッスンが終わり、劇団長が開口一番コメントをしてくれた。
 「陽介君、演技は本当に初めて? それにしては上手すぎるよ」
 「ありがとうございます!」
 嬉しかった。そしてレッスンが終わった後、劇団長からメールが届いた。
 「これほど熱いものを持っている高校生に初めて会ったので入団を許可します」
 それは「18歳以下お断り」という大人のルールをすり抜けた瞬間で、16歳の僕にとって快感だった。情熱、誠実さ、義理人情、人間力、夢、愛嬌、行動力などはルールをすり抜けることができることを知った。そしてチャンスが来た時のための準備が大事だということを知った体験にもなった。
 ルールを守ることも大事だが、同時にルールを疑い、すり抜けることも大事である。ルールの外にも世界があることを忘れてはならない。ルールも時代と共に変わる。新時代のルールは今を生きる僕たちが作るのだ。


 劇団員と高校生

 晴れて劇団に入団でき、高校生と劇団員の二重生活が始まった。
 週2回、放課後に市民センターで演技のレッスンがスタート。レッスンの日は、朝からルンルン、そして学校が終わると一目散に自転車で市民センターに向かった。自転車を漕ぎながら感じる風は爽快で、顔もニヤついていた。それくらいに全身全霊が喜んでいた。
 なぜならようやく自分の足で人生を歩み始めたことを自覚したからである。
 今までは親が与えてくれたレールの中で生きてきたが、今ようやく自分の足で歩み始めることができた気がして、ワクワクドキドキしていた。
 自分にしか開けない新世界をどんどん開拓しているような気分になり、
 自分が先駆者であり、
 世界最先端であり、
 改革者であり、
 創造神になっているような気分だった。
 それはなんとも爽快な最高の気分で、
 「俺、生きてるな~! 生きるってのはこれだよ!」
 と自分で納得していた。
 それは同時に、「いい大学→いい就職→家購入→家族幸せ→老後安泰」というレールから降りた瞬間でもあった。不安もあったが「僕なら大丈夫だ。そっちの方が絶対面白い」と自分に言い聞かせて、新しいレールをどんどん進み続けた。
 劇団に入る前は、学年700人中1位になるほど勉強していたが、劇団に入ってからは勉強をしなくなり、成績はみるみる下がっていったが、気にならなかった。
 学校の先生から「陽介も変わってしまったなー」と嘆かれたが、それも気にならなかった。
 劇団に入り、台本を読む楽しさを知ったので、高校3年生の夏に理系から文系に変えた。友達や先生からは「ありえないだろ」と言われたが、気にならなかった。
 演技レッスンに夢中になり、帰宅時間が遅くなって親に心配をかけたが、気にならなかった。だってようやく楽しくて好きなことを見つけたのだから。


 面白い大人に出会う

 劇団に入ったことで新たな感動があった。それは劇団員たちとの出会いである。

  •  長崎・五島列島から上京してきて「東京行って役者で成功します!」
     と情熱を燃やす大学生

  •  演劇を通じて、暗い性格が明るくなった女性

  •  過去に3回子供を降ろした経験がある演技の才能が溢れる渋い男優さん

  •  彼の浮気がバレて、マジ喧嘩をするカップル劇団員

  •  友達がいない内気な男性

  •  陽気な演技ができるけど、実は寂しがり屋のトラック運転手

  •  逮捕歴があるも、器用に演技をこなせる男優さん

 みんな自分と真摯に向き合い、自分の気持ちに正直で、弱さと不器用さを持ちながらも魂は熱く燃えている。それぞれが波瀾万丈の人生物語を紡いでいる面白い人間ばかりだっだ。
 「人間ってスゴイ! 大人ってスゴイ! みんな天才やん!」
 家と学校の往復だけでは出会えない大人たちに出会えたことは、僕の世界を大きく広げてくれた。
 人間いろんな生き方があるじゃないか。
 自由に生きていいんだ。
 好きに生きていいんだ。
 サラリーマンにならなくても、人間は豊かに生きていけることを知れたのは素晴らしい発見だった。それを教えてくれた劇団員たちをカッコイイと思った。
 たくさんの面白い大人に出逢おう。そのたびに世界が広がり、ルールの外の世界を見せてくれる。
 そんな天才たちと、10代の多感な時期を一緒に過ごせたことは本当に幸せだった。みんなで中洲の路上でゲリラライブをしたり、有名人の結婚式で余興劇をしたり、大舞台で作り込んだ劇をしたり、人生論を語り合ったりした。
 そのほかにも、

  •  新人団員の女性がエッチ好きで、劇団員と片っ端から寝ていく事件が起きた

  •  浮気がバレて劇団員同士のマジ喧嘩が起きた

  •  綺麗な女優さんが妊娠した

  •  気合を入れるためにお酒を飲んでオーディションに挑んだ

 など、映画のワンシーンのようなドラマを目の当たりにし、僕は毎回驚きを隠すことができなかった。現実は面白い。高校生にとって最も大事な授業が目の前で現実で繰り広げられているような気分になっていた。
 劇団員たちはみんな芸術家だったのだ。それぞれのドラマを経て演技に出会い、好きになり、社会の中にうまく溶け込み、同時に反抗しながら、もがき、苦しみ、挑戦し続けている彼らをみて、僕は「カッコイイ」と思ったし、何より人間として「美しい」と思った。芸術家たちの魂の美しさに僕は感動して震えていた。そんな大人に僕もなりたいと思った。
 そんな天才たちからの「陽介は才能あるから大丈夫だよ」というリップサービスは未だに大事に心に保存しているし、「良かったです!」と目をキラキラさせて声をかけてくれる観客たちとの出会いや言葉が、僕を大きく勇気づけてくれた。
 「大人って楽しそう!」 
 「自分の人生を歩んでいる今、最高!」
 そう思えたのは、僕にとって大きな喜びだった。
 それは僕の希望と自信になった。
 挑戦できた自分を誇りに思った。
 今回挑戦できたから、次もなんでもできるだろうという「やる気」にもなった。
 根拠のない自信に見えるかも知れないが、本人から見ると根拠はあるのだ。そのために行動と挑戦を繰り返してきたからこその自信である。
 それは、大きくて、暖かくて、僕にとっては最高の「希望」になった。
 やってみないことが最大の失敗。
 やってみた先はすべて成功。
 今いる現場に飽きたら、他の世界へ冒険にいこう。


 俳優になりたい

 高校生と劇団員の二足のわらじ生活が2年経った頃、大学進学が迫ってきた。
 俳優という夢と演技の素晴らしさに気づけたことはよかったが、18年間福岡市に住んでいたので早く東京に上京したかった。なので、東京の私立大学5校を受験するも全滅し、東京に行く道が断たれてしまった。唯一受験に受かったのは滑り止めで受けた山口大学のみだったが、東京の大都会に憧れていた僕は、行かないことにした。
 かといって大学に行かずに演劇で食っていこうと思えるほどの勇気もなかった。
 どうしようかと悩んでいる時、父がパンフレットを持ってきてくれた。それは留学のための英語学校(NIC International school)の紹介冊子だった。
 「海外の大学はどうだい?」
 真っ暗闇が一瞬にして希望の光に包まれた。
 「・・・行きたい!」
 ソファに座って男前の笑顔を見せる父と僕は見つめあっていた。僕の目はキラキラと輝きを放ち始めた。その姿を見て、母は泣いていた。
 海外に行けるなら、それにふさわしいビックドリームが必要である。「世界一の俳優になってやる!」と覚悟を決めた瞬間だった。本物の俳優になるためには、本場ハリウッドに行かないといけないということで、ロサンゼルスに留学することを決めた。
「なれるわけねーじゃん」ともう一人の自分が囁くが、可能性が0%じゃないのなら挑戦した方が後悔しない。一度きりの人生を懸けて大博打を打ちたい。せっかくならテッペン行きたい。
 夢と想像がどんどん広がっていったのがとても嬉しかった。しかしそのせいで親はサラ金に手を出し、自己破産してしまった。そこまでして子供のために身を投げ打ってくれた親には心から感謝をしている。これは言わないでと親から言われていたが僕はあえて約束を破る。なぜならみんな知るべきだと思うからだ。自己破産しても元気に暮らしていけることを。お金がなくて借金だらけだから生きていけないというのは幻想だということを目の当たりにできたことは、僕にとって希望の光だった。
 親に習い、僕は息子に留学させてあげられるだけの貯金を今から始めている。


 同志の出会い

 英語学校のために東京に上京でき、その後海外に留学できるという夢のような選択肢を親が与えてくれたおかげで、高校卒業後、憧れの東京に上京した。初めての一人暮らし、新しい学校生活、憧れの東京生活、胸の興奮を抑えるのは不可能だった。
 希望しか見えていなかった。ハリウッド俳優になって最高の人生を送るために、英語の勉強をしっかりして、演技に磨きをかけて、東京ライフも楽しんで、できること全部やってやる! と、情熱が爆発していた。
 「先生、情熱が抑えられずに爆発しそうなんですけど、大丈夫ですかね? どうしたらいいんでしょう?」 
 と先生に真剣に相談するほどに身体の奥から燃えていた。
 「んん~そのままでいいんじゃない?」
 先生の冷静な返答に僕は救われ、どんどん情熱を膨らませていった。
 ・どんな小さな役も引き受けた(演技の経験のため)
 ・友達と自主制作映画を作り、映画祭で受賞(自信になった)
 ・英語の勉強
 ・ディズニーランドと映画館でアルバイト(エンタテイメントを勉強するため)
 ・喫茶店でアルバイト(社会を知るため)
 ・お酒を飲んでクラブで気絶(自分の身体を知るため)
 なんでも全てが芸の肥やしになると思い、1年間精一杯東京生活を楽しんだ。
 海外に行きたがっている同世代が全国から集結する英語学校だったので、個性豊かな同級生ばかりだった。
 ブロードウェイに立ちたい、映画監督になりたい、カメラマンになりたい、マジシャンになりたい、大富豪と結婚したい、成功者になりたい、宇宙に行ってみたい、みんなそれぞれが素敵な夢を持ち、目をキラキラ輝かせる同世代の仲間たちがたくさんいたことが新たな希望の光だった。
 「バカみたいに大きな夢を持つ人は僕だけじゃなかった。僕は間違っていなかった。よかったあ」
 日本もまだまだ捨てたもんじゃないと思えたことで僕は救われた。18年間誰からも理解されなかったので、同志にたくさん出会えたことが嬉しくてたまらなかった。

 そして激動の1年間をくぐり抜け、夢と希望に溢れたまま、映画の都・ハリウッドがあるロサンゼルス行きの飛行機に乗り込んだ。この先にどん底が待っていることなどつゆ知らず・・。
 思い返せば、この飛行機に乗れたキッカケは、「映画って最高」という小さな感動と、演劇ワークショップへの1通のメール送信だった。なんて小さく儚いキッカケだろう。だけどそれを捨てずに育て続け、この飛行機に乗る所まで辿り着いた自分を褒めていた。機内は僕の席だけ読書灯で照らされていた。
 どんな天才も始めは素人だった。始めは小さく簡単でできることから。問題はやり続けられるかどうか。10年やればプロ、一生やれば仙人。一つでいいからそんなものを見つけたいと思い続け、ようやく見つかったような気がしていた。
 見つけるためにはやってみるしかない。一人の時間を作り、自分ととことん向き合い、好きなこと、楽しいことを探す冒険に出なくてはならない。子供の頃に好きだったものの中にヒントが隠れていることも。
 そしてやってみた後は、挑戦できた自分を毎回褒めてあげてほしい。勇気ある行動を自分の誇りにしてあげてほしい。一ミリの一歩でいい、それが重なると自信になる。勇気になる。やる気になる。希望になる。



第二章 希望の芽を育てる


 いざ、ハリウッドへ!

 まずはロサンゼルスという街に溶け込むために、街の全貌を散策することから始めた。
 ダウンタウンからサンタモニカビーチまで自転車で2時間半かけて走ってみたり、トムハンクスの別荘がマリブにあるということを聞きつけ2時間かけて自転車で行ってみたり、友達の車を借りてドライブしたり、近所の床屋さんで髪を切ってもらったり、現地の食材で料理をしたりして、ロサンゼルスに馴染むように努めた。
 ロサンゼルスは天候が素晴らしく、海もあり、広大な自然の国立公園もあり、ドライブも楽しい。そこで生活する人たちは、人の目を気にせず自分の人生を生きていて、こんなに広く、豊かに、自由に、のびのびと、生活できる場所が、同じ地球上にあったのかと思って衝撃を受けた。
 一番衝撃を受けたのは「デカさ」だった。
 市販のペットボトルの大きさ、アイスクリームの大きさ、鶏肉パックの大きさ、身体の大きさ、道路の大きさ、大自然の大きさ、家の大きさ、発言の大きさ、自信の大きさ、触れるもの全てがデカく、今まで日本で体験したことのないものばかりだった。
 アメリカの「デカさ」に呼応して僕の気持ちもデカくなり、「俺はトムクルーズになる!」と豪語していた。学校の演劇のクラスでは先生から高評価を受けていたので、「やっぱり俺才能あるわ。楽勝じゃね?」と調子に乗っていた。

 1年目はサンタモニカ・カレッジに通っていたが、日本人学生が多く、外国気分を味わえないことに不満を感じるようになった。
 「せっかく海外に来たんだから、日本人が全くいない世界に行きたい」と思うようになり、2年目からは日本人がほとんどおらず、演劇学科が有名なロサンゼルス・シティ・カレッジに転校することにした。
 それまでは日本人と三人でルームシェアだったが、転校を機にインド人俳優とルームシェアする物件に引っ越し、場所もサンタモニカからハリウッドへ移動した。
 そこはアカデミー賞が開催されるコダックシアターからほど近い場所にあり、スター俳優たちの名前が刻まれているwalk of fameを毎日歩いて通学し、アカデミー賞の時は、レッドカーペットと米粒サイズの映画スターたちを肉眼で見ることができる、そんな空間で生活するだけで僕の胸は高鳴っていた。


 ルームメイトは天才インド人

 ルームメイトのインド人・デシックは、アメリカの名門大学USC(University of Southern California)を卒業するも、俳優の夢を諦められず、ハリウッドにある有名な演劇学校(Stella Adler studio of acting)に通って演技を勉強している秀才だった。一緒に映画を見た後は、家で演技論を白熱させていた。
 「あのシーンは素晴らしかったね!」
 「俺ならあのシーンはこうゆう演技をするな」
 「あのシーンは顔の演技にもっと集中すべきだね」
 「陽介ならどう演じる? 今お互いやってみようじゃないか!」
 俳優を夢みる二人が、ハリウッドの麓にあるマンションの一室で、演技についてあーでもないこーでもないと激論する自分たちの姿を見て、僕は自分が誇らしくなった。この場所まで来れた自分を褒めてあげた。
 転校する決断を自分でし、家をネットで探し、大家さんとやりとりをし、友達に引っ越しの手伝いを頼み、自分の直感と夢に従って行動したからこそ、今この場所に辿り着けた。「よくやった俺!」と、小さなガッツポーズをした時の握力の強さが忘れられない。
 その気持ちをデシックに伝えると、彼は太陽のように輝く瞳で、真っ直ぐ見つめながら言った。
 "We are in right place and right thing."
 「僕たちは今正しい場所にいて、正しいことをしている」
 「YES」と僕は深く頷き、ハイタッチした後、お互いの部屋に戻っていった。僕は部屋で一人深く感動し、体が熱くなっていた。


 新しいと褒められる

 演技のクラスにて
 先生「今日のレッスンは、架空の川をパントマイムで渡ってください」
 1人目 浅い川をイメージして、スタスタ歩いていく
 2人目 深い川をイメージして、ズボンを巻き上げながらゆっくり歩く
 3人目 石の上をジャンプして川を渡る

 みんなそれぞれのイメージを働かせ、個性的な演技が繰り広げられていった。
 僕は12人目だった。前の11人を見ていて、全員が同じように川を渡ることに飽きたので、空を飛んで渡ってみることにした。
 僕  ポケットから風船を出し、膨らませ始める
 観客 ザワザワ(え?) クスクス(マジ笑?) ヒソヒソ(まさか飛ばないよね?笑)
 僕  ゆっくりと空を飛びながら川を渡り始める
 観客 (会場爆笑)Hahaha  Yes!
 僕  川の上で風船が割れてしまい、全身びしょ濡れになりながら渡り切る
 観客 FUUUU!! パチパチ(拍手喝采)
 先生 「私は40年演技の先生をしているけど、風船で川を渡る人は初めて見たわよ。素晴らしかったわ。ありがとう」
 席に戻ると、周りにいたクラスメイトが
 「やられたぜ!」「面白かったよ」「最高だったぜ!」
 とハイタッチを求めにきてくれた。僕は嬉しかった。自分の才能が認められたような気がして、自分のことがさらに好きになった。ここなら僕は輝けると思った。
 それ以降、クラスメイトの僕を見る目が変わり、あからさまに態度が変わった人たちがいた。それほどに才能に対して純粋な興味と尊敬があるからこそなせる態度であり、アメリカで生きていくためにはこれがないとダメだということも分かった。
 新しいアイディアを生み出すところに価値を置く場所なら、僕は輝けるということが分かった。芸術である。創造である。芸術家である。アーティストである。
 アメリカではとにかく新しさを常に求められる。新しいことをやってみて、冷めた目で見られるよりも、賞賛されることの方が多い。だから新しいことに挑戦したくなる気持ちにさせてくれる。そんな環境で生活するのはとても心地がよかった。


 意志と決意

 自分がアーティストだと宣言した時からその人はアーティストになる。
 黒人のクラスメイトと短編映画を撮った時、「俺は監督だから任せろ」とやたら口うるさく言ってきたので、イラッとして質問を返した。
 「いつから監督なの?」
 「昨日からだよ」
 「え?(半笑) マジ?」
 彼の目はまっすぐ僕を見つめていた。彼の真剣な目を見てハッとさせられた。キャリアを積んで結果を出さないとその肩書きは名乗れないものだと思っていた。
 でも人間は意志さえできれば今日からなにものにもなれるのだ。決意して宣言した瞬間から、その人はそれになっていく。
 必要なのは意志だった。足りないものは決意だった。
 自分の意志と決意の弱さを目の当たりにさせられ、僕は何も言い返すことができず、その夜は家で一人凹んだ。


 夢を追う人の背中

 ハリウッドのメインストリートを歩いていた時のこと。
 ヘッドフォンを持った黒人が突然話しかけてきた。
 「これ俺が作った音楽なんだけどちょっと聞いてくれない?」
 「いいね~、聞かせてよ!」
 「♪♪♪」
 「歌詞の意味は聞き取れなかったけどノリはいいね。頑張ってね♪」
 「オーケー、ありがとうブラザー」
 そして彼はすぐ次の人に声をかけ始めた。
 夢を掴むための彼の実直な行動力に僕は感動した。デビュー前のユーミンも音楽プロデューサーが通う喫茶店に出入りし、自作のテープを渡していたというが、夢を叶えたいのなら、作品の良さと同じく身軽な行動力も身につけないといけないと、彼に教えてもらった。
 最短で、簡単な方法で、夢を叶えようとする自分が恥ずかしくなった。たとえ可能性が1%でも成功のためにできることは全部やる。その真っ直ぐな素直さが美しかった。

 ◆ 俳優を夢みるアメリカ人のクラスメイトがいた。マッチョ、イケメン、金髪、という出立ちで、ザ・アメリカ人俳優の美貌を持っていた。
 会うたびに笑顔で「Hi, What's new?(ヘイ元気? なんか新しいことあった?)」と聞かれ、新しいことを何もしておらず、No と答える自分が情けなかった。
 ◆ 僕と同じようにハリウッド俳優を夢見る日本人俳優もたくさんいた。いつでもチャンスを掴めるように、剣道、空手、英語のレッスンを受け、オーディションを受け続ける同志たちの背中がカッコよかった。
 ◆ 映像作家のカズちゃんは、眼をキラキラさせて自慢してくれた。
 「今日、学校の映画のクラスで作品発表した時、クラスメイト数人が俺に近づいてきて、『あれは映画だった。敬意を評して払いたい』と言って10ドルとか5ドルとかお金くれたんだよ。めっちゃ嬉しかったわ」
 この体験は15年経った今でもカズちゃんの背中を押し続けている。
 ◆ 映画監督の裕太は、初めて会った時は映画オタク丸出しで、モテる感じではなかった。しかしそんな彼が、名門大学に入学すると共に自作の映画も高く評価され、綺麗な白人と黒人と恋をし、華々しい大学デビューを果たしていった。
 ◆映画カメラマンになりたくてロサンゼルスに行ったが挫折し山口県で介護の仕事をしているマコっちゃん
 ◆有名大学を卒業し、東京で英語の先生として大活躍しているサトシさん
 ◆女優を目指してハリウッドに上京し、18年目にしてアップルtv のドラマの主役ができたシオリ
 みんなそれぞれの物語がある。人間はなんて美しんだろうと感動した。
 友人でも、路上でも、学校でも、オーディション会場でも、バイト先でも、夢で眼を輝かせている人たちが周りにたくさんいたおかげで、僕も夢を捨てれずに済んだ。
 彼らに負けじと僕もたくさんのオーディションを受け、演技の発表会ではカマして会場を沸かせ、少しずつ自信をつけていった。人生を楽しくするためには自分のことを評価してくれる環境に積極的に入っていくことが大事である。
 演技学校の名門・アクターズスタジオのオーディションも受けてみた。友達の日本人俳優と二人でコンビを組み、4分間の芝居を作って猛練習した。結果はダメだったが、挑戦できた自分たちを褒めて慰めた。
 ジョージルーカスなど有名映画監督を多数輩出しているUSC 大学の学生映画に出演させてもらえる機会があった。その完成作をみた90歳の映画評論家の教授が、「彼の演技はいいね」と僕の演技を褒めていたことを間接的に聞いた時は最高に嬉しかった。僕はイケると思った。
 映画の都・ハリウッドで外国人に演技を評価され、その度胸もある。このままいけば本当にハリウッド俳優も夢じゃないと思い始めた矢先に鬱になり、人生のどん底に落ち俳優を諦めてしまう。


 人生のどん底 

 ロサンゼルスにきて2年目で僕は鬱になった。人生で一番苦しい時だった。鬱になったのには2つの理由がある。
 ①「孤独」
 生まれて初めて孤独と直面した。日本人がいない環境に自ら飛び込んだのだから自業自得だが、ここまでキツイものだとは思いもしなかった。
 学校のことを相談できる人もおらず、プライベートで遊ぶ人もいない。
 学校でモンモンとしたまま家に帰り、家の中でもモンモンとする日々の繰り返し。
 オーディションも受からず、通い始めたジムも3日坊主で終了、なにもかもうまくいかなくなった。部屋の壁全面に画用紙を貼り、自分の思考を書き殴った。暴飲暴食を繰り返し、10円ハゲができ、部屋にドクロの製品が増えていき、タバコを吸い始め、白髪が増え、眉間のシワが濃くなっていった。
 いい天気なのに、それが嬉しくない。毎日起きる意味が分からない。一人がこんなに辛いなんて。。 日本人と日本語が恋しかった。友達が欲しかった。なんでも話せる相手が欲しかった。
 年末年始、街は新年で盛り上がっている中、僕は一人で部屋の窓から星を眺めていた。
 ②「狭さ」
 僕が自由を感じれる現実世界は、オーディションの時と撮影本番の時の数分しかなかった。本当は「100%」自由を体験したいのに、「2%」くらいしか体験できていないような気がしてその狭さに窮屈さを感じるようになった。
 伝えたいこと、表現したいこと、アウトプットしたいことが、体内に溜まりすぎてモンモンとしていた。でもどうやってそれを発散すれば良いのか分からない。その苛立ちが自身の精神を追い込んでいった。
 「孤独」「狭さ」このダブルパンチが僕の精神をズタボロにした。
 「俺ならなんでも乗り越えていける。どこ行っても楽勝っしょ」などと思っていた自分が恥ずかしい。僕は弱い。こんなに情けない。威勢だけのちっぽけな人間。大好きだった自分が大嫌いになった。オーディションを受ける気力もなくなり、せっかく合格したオーディションもリハーサルをすっぽかして首になった。お先真っ暗、何をすればいいのか、どうすればこの苦しみから抜け出せるのか分からない時期が2年続いた。
 才能のある役者は周りにいる。自分の肌荒れや英語力などのコンプレックスに打ち勝つこともできず、自身の心のケアもできない。「ハリウッドスターになってくる」と、地元の友達に豪語した自分が情けなくなった。
 意気揚々とハリウッドに乗り込んだはいいものの、そこでコテンパンにやられ、僕は俳優の夢を諦めてしまった。
 いてもたってもいられなくなって、友達のジロウの家に転がり込み、8畳の一室に男2人で生活をするようになった。ハリウッドの家の家賃は払い続けながら、半年ほど居候させてもらった。
 「人間そんな時もあるさ。だから気の済むまで居ていいよ」
 ジロウの優しさと大きな器に僕は救われた。
 持つべきものは友達である。自分と合う人、一緒に居て楽な人、感動した人、そんな人に出会ったら、積極的に話しかけ、どんどん友達になろう。長い人生、老人になった時に宝になるのは友情である。友達を作るために全力を尽くそう。


 孤独になれ

 孤独は人をはるか高みへ連れて行ってくれる。確かに辛いしキツい。それでも僕はみんなに孤独を経験してほしい。一人でゆっくりと集中できる時間を作り、どんな人生を送りたいのか、どんな生活をしたいのか、ノートを片手に、たっぷり考えてほしい。自分の内側にある深海にどんどんダイブしていき、そこで希望も夢も欲しいものはなんでも自分の中で獲得してほしい。
 しかし孤独は誰しも持つものであるなら、逆にこれで世界中の人と繋がることが出来たということでもある。なんてロマンチックだろう。そう思えるようになった時、道歩く人がみんな友達に見え、孤独が和らいでいった。
 今、孤独なあなたへ。
 「この苦しみの先には良いこと尽くしの最高の未来が待っているから、今は辛いだろうけど、なんとか耐え抜いてほしい。
 ピンチはチャンス。この苦しみが全て好転し、全部がポジティブに活きる時が必ずくるから安心してほしい。
 だからしっかり今を味わってください。
 しっかり考えてください。集中してください。
 自分はどんな生き方をしたいのか、
 どんな生活を送りたいのか、
 何をしたいのか、
 何が欲しいのか、
 好きなことはなんなのか、
 楽しいことはなんなのか、
 どうすればそれを実現できるのか、
 そのために毎日できることはなんなのか、
 なぜ怖いのか、
 なぜコンプレックスなのか、
 なぜ孤独なのか、
 どうすれば解決できるのか、
 深く、深く、自分の海の中にダイブし、彷徨ってみてください。
 その先に希望の光があるから」


 師匠の出会い

 運命の出会いはいつも突然やってくる。
 そんな人生どん底の時、フラッと立ち寄った本屋で、1970年大阪万博の「太陽の塔」で有名な芸術家・岡本太郎が書いたベストセラー本「今日の芸術」(光文社)が平積みになっていた。
 この本との出会いが、長かった鬱から夜明けへと導いてくれることになり、さらに僕の人生を大きく変えることになる。

 「芸術ねえ、まあ確かに学校の図工の時間とかは好きだったけど、真剣に向き合ってこなかったなー。今暇だし、ちょっと勉強がてら読んでみるか」
 それくらいの軽い気持ちで本を購入した。そして家で読み始めて2ページ目という早さで、巨大なハンマーで脳天を強打されるほどの衝撃を受けた。
 芸術は人間のよろこびそのものであり、それを表現したのが作品である。みんなが今、この瞬間に生きがいや自信を持たないといけない、そのために芸術があるのだ、という著者の芸術哲学に震えるほど感動した。
 喜びも生きがいも自信も、喉から手が出るほど欲しい。
 読み進めていくうちに、希望と勇気が溢れてきて、何かやりたくてウズウズし始めた。
 本を読むのを中断し、押し入れから画用紙を引っ張り出し、手に直接アクリル絵の具をつけて絵を描き始めた。
 子供が絵の具で遊ぶように、何も考えずに手で絵を描いていると、顔が浮かびあがってきた。これは自分の顔だと思い、その顔にイラッとしたので、画用紙を勢いのまま握りつぶした。そして画用紙を再び広げたとき、その絵は完成した。(写真追加)


 6畳1間の10分ほどの小さな出来事だが、濃厚なひとときだった。画用紙に描かれた顔を握り潰すことで、今までの自分を殺し、新しい自分に生まれ変わった瞬間だった。
 俳優から芸術家へ転身した瞬間だった。
 長い鬱が明ける瞬間だった。
 魂の炎が爆発した瞬間だった。
 「そうだ、思い返せば、僕は幼い頃から絵を描くのが大好きだった。図工や美術の時間が好きだった。アートで食っていくのは大変だと思っていたけど、勝手にそう思い込んでいただけだったんだ。好きなことあったのに、なんで今まで真剣に向き合ってこなかったんだろう。なんで諦めていたんだろう。
 やってもいないのに、あきらめたくない。
 やらなかったら絶対後で後悔する。
 やってみなきゃ分からないじゃないか。僕ならできるかもしれない。
 『俳優』を捨てたら何も残ってないと思ってた。
 だけど僕には『絵』があった、『創造』があった。
 毎日喜びを感じるために、どんどん平気で作ればいいんだ。
 好きなことあったじゃん! 
 やろう! 
 やり続けたら一生楽しいじゃん! 
 岡本太郎越えよう! ピカソ越えよう! ダヴィンチ越えよう! ガウディー越えよう! ビートルズ越えよう! ブッダ越えよう! キリスト越えよう! 創ろう!」
 真っ暗だった未来に、無限の光が放たれていった。


 画家になる

 赤い絵具の筆が、真っ白のキャンバスに最初に触れる瞬間に毎回大興奮する。
 「世界に一本しかない線を、今、僕が描いている、それはつまり誰も知らない未知の世界を僕が、今、この瞬間、この手で切り開いている~!」
 なんて思いながら描いていると、「生きるってこれだよなー」と、毎回生きている手応えをしっかり感じられることが、嬉しくてたまらなかった。 
 自分の想像を越える作品が、自分の手から生まれることに興奮していた。
 描く瞬間に、自分の人生をどんどん新しく切り開いているような気がして毎回ワクワクしていた。
 「今生きてる」という手応えを、描くたびに全身で感じられることがとにかく楽しかった。
 その喜びを原点に、毎日がグワっと燃え、毎日真っ白の画用紙に挑み、ひらく、その行為そのものが人間の妙(みょう)であり、美しいと思っていた。
 本を読み終えてからは毎日3枚ペースで絵を描き始めるようになった。
 「画家として食っていく!」というような大層な気持ちはなく、今まで溜まっていたウップンを絵で全部吐き出すことができ、それが楽しくてたまらなかった。
 描くことで、今までのネガティブが、全て傑作に変わっていく。
 マイナスが素晴らしいプラスにひっくり返っていく。
 この爽快さがたまらなくカッコよく、素晴らしく、美しい。
 絵なら何を描いてもいい。白紙のキャンバス中には無限の自由と可能性があった。俳優だと100のうち「2」くらいしか表現できなかったが、絵だと「70」くらいまで表現できた。 
 描きたいテーマやメッセージは泉の如く溢れ出て、手は自動書記のように動いた。焼き鳥屋でウェイターのアルバイトをしていたが、頂いたチップはすべて画材費に消えていた。

 4歳の時、絵画コンクールで最優秀賞をもらったことがある。その絵は公園の中に一際大きな黒い種が描かれていた。この種が17年を経て花開き始めたような気がしていた。どんな小さな種も捨てないで。それはベストのタイミングで花開くから。(写真追加)



 鬱が明けた

 絵を描くことで、鬱は晴れ、みるみる元気になっていった。
 鬱の時は「なんだこのクソ世界は。なんだ俺というクソ人間は」と思っていたが、鬱が明けてからは「なんて美しい世界なんだろう。なんて人間は素晴らしいんだろう」と思うようになった。ドンヨリとしていた景色が、キラキラ輝きに満ちた景色に変わった。見る世界が180度変わった。嫌なことがあっても、それも絵のためのネタになる。そう思うと、どんなことが起きても乗り越えていけるような気がした。
 全てのマイナスをプラスに変えていける「創造」という無敵のアイテムをゲットしたゲームの主人公になりきっていた。

 マイナスをプラスに、ネガティブをポジティブに転換する創造力の素晴らしさを身を持って体験し、これはとてつもなく大切なナニカに触れたような感触があった。
 これは一生捨ててはいけないものであり、磨き続けなくてはならないものであり、みんなこの力を使った方がいいと思うようになった。


 人生を納得した日

 「大人に対する不信感、社会に対する疑問、人と反対のことをやりたくなる性格、予想に反することをやりたくなる性格、映画が好きなこと、演劇をやってきたこと、海外に移住したこと、僕はずっと芸術を求めていたんだ。今までやってきたことは全部芸術だったんだ。僕はずっと芸術家だったんだ」
 芸術が訳の分からないものではなく、喜びそのものだと知った時、僕はずっと生きる喜びを探していたことに気がついた。
 ・初海外で広い世界があることを知った時の喜び 
 ・映画を見る喜び 
 ・演技をして自由を感じる喜び
 ・ロサンゼルスに住んで、広い生き方を知る喜び
 さらに芸術には新しさが必要で、そのために僕の天邪鬼の性格はむしろ好都合だった。
 大人に対する不信感、社会に対する疑問、予想に反することをやりたくなる自分の性格が嫌になる時も多かった。そのせいでオーディションに落ちたこともあるし、怒られたこともある。ひねくれている自分が悪いと思っていたが、芸術のためと思えば、その性格も全てが好転してくれる。これほどありがたい話はない。
 性格的にも経験的にも芸術が僕にはピッタリではないか。今までの22年間で宇宙遊泳していた点たちが、「芸術」という線で串刺しになり、ズドンと地面に落ちる音がした。その時、僕は芸術家になった。自己発見の瞬間だった。気分が晴れた。嬉しくて部屋で一人で涙した。

 「僕は毎日新しい人生を創造している。石を蹴っても、鼻歌を歌っても、そこに辿り着くことができているのは宇宙の中で僕ひとり。つまり僕は人類史上最先端を生きている。
 それは僕だけではなく、人間みなそれぞれが勇ましき勇者であり、開拓者であり、革命家であり、先駆者であり、芸術家である。過去の芸術家たちも素晴らしく偉大であるが、今を生きる僕たちには及ばない。
 僕たちこそが巨匠であり、天才であり、世界で最も偉大な芸術家である。どんな落書きや下手な絵でも、それは世界最高傑作であるなら、どんどん自由に作って、発信して、表現していけばいいじゃないか。みんなの自由が解き放たれ、共感できる者同士が繋がり、世界が豊かになり、みんなでハッピーになっていけば、最高の未来になるじゃないか!」
 「芸術(創造)」という希望の光が見えた瞬間だった。


 創造の凄さ

 創造こそ、人間が持つ力の中で最も美しく、強く、素晴らしい希望である。その確信は、絵を描く月日が経つごとに強固なものになっていった。
 作るのは、
 •  楽しい

  • 気持ちいい

  • 自由

  • マイナスをプラスに変えれる

  • 作るたびに人類史上最先端&最高傑作

  • 人を傷つけない(平和を作れる)

  • 愛がある

  • 正しい

  • 美しい

  • 人間の持つ力の中で最高の力

  • 未来の希望であり夢

 こんなにたくさん、かつ濃い内容の特典が詰まっているのが「創造」である。
 その中でも、
 ネガティブをポジティブに変え、
 鬱を希望に変え、
 陰を陽に変え、
 短所を長所に変え、
 戦争を平和に変え、
 分裂を統合に変え、
 嫌いを好きに変え、
 マイナスをプラスに変えることができる「創造」が最高に美しい。
 それでこそ人間じゃないか。
 それができるから人間は素晴らしいじゃないですか。
 それこそ人間が最優先でやるべきことじゃないか。
 挑む人間の姿は美しい。
 人間は「創造力」というこんなに素晴らしいギフトを持っている。
 これを使えば、
 それぞれの人生と才能が開き、
 みんながハッピーになっていく。
 そんな世界にしたいという夢が僕の希望になった。


 絵の威力

 例えば、僕が辛い出来事があったとする。その気持ちを内に秘めたままではしんどいので、絵を描くことでその気持ちを外に投げる。その気持ちを絵という芸術作品に変換する。
 すると辛い気持ちが体内から消えスッキリする。
 辛い出来事のおかげで、傑作をまたひとつ生み出すことができた。歴史を作った。
 その姿は開拓者であり、先駆者であり、革命児ではないか。
 それは僕だ。だから僕は凄い。天才なんだ。世界最高なんだ。
 宇宙史上最高傑作なんだ。人類史上最高傑作なんだ。
 絵を描くたびにそう思うようになった。
 すると辛かった気持ちがどこかへ消え、元気とやる気と勇気がモリモリ湧いてくるようになった。
 マイナス1がプラス100に転換された。
 この気持ちよさと、お得感と、かっこよさと、美しさと、素晴らしさの虜になってしまった僕は、10年間で3万点の絵を描いた。
 それほどに創造の威力は素晴らしい。絵、彫刻、音楽、ダンス、文章など、自分に合うものを見つけるだけでいい。それは永遠のパートナーとなってくれる。僕は絵というパートナーに21歳で出会うことがなければおそらく死んでいただろう。
 これからどんなに辛いことがあっても、それを新たな歴史の一ページである芸術作品に変えることで、全てをポジティブに変えてみせる。それができるのが「創造」であり、人間ならではの崇高で神聖で最高な営みであり、豊かに、美しく生きるためには創造という作法は必需品である。
 まずやってみる、それだけ。そこからどんどん希望も自信も夢も出てくる。


 芸術家のカッコよさ

 僕は10歳の頃から図書館で偉人たちの伝記の漫画本が好きになった。野口英世、南方熊楠、ベートーベン、ファーブル、エジソン、リンカーン、ライト兄弟、宮沢賢治、ダヴィンチ、キリスト、ブッダなど、彼らの人生を追体験しては心をときめかせていた。人生という作品が一番面白く、説得力があるということを本から学び、ひとつの人間のライフで、果たしてどれほどの偉業を成し遂げることができるのかという可能性を感じさせてくれる伝記本の素晴らしさに感動した。そして思った、
 「僕ができることは小さいかもしれない。だけどできることはある。僕はなんでもできる、なんにでもなれる、僕は自由だ」
 何に人生を賭けるかの選択は自分でできるということを知れたのは嬉しい発見だった。その選択肢を伝記本で探していた。
 そして岡本太郎という偉人に出会って僕は心底ホッとした。ようやく会いたい人に出会えたからである。
 素晴らしい仕事をしている人で、カッコよくて、やりたい! と思うような人生を送っている師匠を探していた。
 せっかくの一度きりのこの人生、一か八かの無謀なことに命を賭けたい。
 成功できるかどうかわからない。
 でも僕ならできるという根拠のない自信はある。
 まず自分が自分を信じてあげなくてはどんな夢も叶わない。自分を信じるためには行動が一番効果的面である。やってみることが自信への第一歩。
 たとえ夢が叶わなかったとしても、挑戦できた勇気に誇りを持ち、堂々と生きていく。
 素晴らしい芸術家は、たくましい勇気と英知で、いつも前進し、新しい創造をしている。今も彼らは挑戦している。それは強い意志を持って、世間の評価や矛盾に耐えて乗り越え、未知の世界に自分を賭けて歩み続けてくれている偉大な歩みである。彼らの行先には大きな光が差している。
 人類に希望の光を灯し、素晴らしい世界にしようとする勇者であり、先駆者であり、天才であり、偉人であり、救世主である芸術家を心から尊敬し、憧れる。なんてカッコいいんだろう。僕もなりたい。世界が感動するような素晴らしい仕事をして、みんなを幸せにする傑作を作りたい。根拠のない人生の勝ち筋が見えた瞬間だった。


 スターになる時がきた

 偉業を達成しないと偉人になれないのではなく、僕たちは全員生まれた瞬間から完璧な偉人である。
 人間が作るものは全て宇宙史上最先端であり、最高傑作である。
 宇宙史上初めての絵を描いているから、僕は開拓者であり、革命家であり、先駆者であり、芸術家である。
 自分が世界の最先端にいることが実感できる、
 これが生きがいであり、生きる喜びだ! と飛び上がって喜んだ。
 新しい毎日が宇宙史上最高傑作である。
 宇宙の一つの頂点にいるのが僕である。
 他人のヒーローに憧れるのをやめ、自分がヒーローになる。
 岡本太郎に出会い、「創造力」を手にしたとき、僕はそんな大口を叩くほどに自分が最高になったような気持ちになっていた。
 ハリウッド俳優を夢みて、意気揚々とロサンゼルスに移住するも、コテンパンにやられ、人生どん底の時に「芸術」に出会い、人生が最高になり、それから15年経った今も絵を描いている。この体験が、5年間のロサンゼルス生活の中で一番の衝撃的な出来事になった。


 ロサンゼルスからバンコクへ

 そしてアメリカのビザ期限のリミットが近づいてきた。
 アメリカに残るか、日本に帰るか、他国に行くか、という選択を迫られていたとき、当時お付き合いしていたコっちゃんが素晴らしい提案をしてくれた。
 「コっちゃんも僕もアメリカのビザがそろそろ切れるね。その後どうする?」
 「私はタイのバンコクに興味があるんだけど、一緒に行かない?」
 「・・・それ最高だ、行こう!」
 コっちゃんはロサンゼルスに10年住んでた12歳年上お姉様で、彼女とはたまたまビザの有効期限が近かったので、二人でバンコクに移住することにした。
 ロサンゼルスで車を売った10万円だけを持って、バック2つ、アテもなければコネもないまま、ロサンゼルスからバンコクへダイレクト直行便で向かった。
「行ったらなんとかするだろうし、僕たちなら大丈夫だろう」
 と根拠のない自信があった。コッちゃんが居てくれたおかげで不安よりもワクワクが勝っていた。
 最初の2週間は安宿に泊まり、その間に家と仕事を探し、どちらもすんなり見つかり、トントン拍子でタイ移住がスタートした。


 翔べ

 木のように、大地に根を張り、同じ場所でずっと生きるか。
 鳥のように、自由に移動し、いろんな場所で生きるか。
 両方の性質を味わう人生を送りたいと思う。
 鳳凰のように美しく、自由に、光輝きながら世界を気ままに放浪し、
 降り着いた場所で樹齢1000年の偉大な樹木のように、雄大な木になりたい。
 現実が嫌になったら翔べ!  
 海外に逃げろ!
 辛いなら逃げろ!
 逃げたら変われる。
 逃げた先は良い事だらけだ。
 逃げ着いた場所に馴染み、まず自分が幸せになれ。



第三章 希望の花が開く


 サラリーマンと芸術家

 僕の父はサラリーマン一筋で家族4人を育て上げてくれた。僕の留学資金のためにサラ金に手を出し、自己破産したほど、子供を愛してくれる美しい人間性を持つ父と母を、僕は涙が出るほど感謝をしているのだが、僕が若い頃は、疲れた顔をして家に帰ってくる父の姿を見て、疑問を感じていた。パソコンの前でピコピコ指を動かす姿、毎日スーツを着る姿、家族と一緒に過ごせない姿を見て、自分は違う生き方をしようと子供ながらに思うようになった。
 そんな幼い頃の想いも重なり、「芸術家」の真逆は「サラリーマン」という図式が僕の中で出来上がっていた。
 そして23歳、本物の芸術家になるためには、真逆のことを知らないといけないし、タイでビザを取得するためにも仕事をしなくてはならないので、バンコクでサラリーマンデビューすることを決めた。


 女神との出会い

 人材派遣会社に複数登録し、履歴書を送り、面接をする日々を繰り返していたある日のこと。
 (こっちゃん)「今日面接してきた会社、私はダメだったんだけど、日本人の方も
         その他外人スタッフもみんないい人たちだったから、
         あなたも受けてみたら?」
 (僕)    「オッケー」
 僕はすぐに履歴書を送り、面接の日がきた。まさかこの日が運命の人に出会う日になるとはつゆ知らず。
 ガラス壁の会議室の中で、僕は背筋を伸ばし、緊張しながら面接官がくるのを待っていた。
 そして面接官が奥から歩いて近づいてくるその姿を見たとき、僕は一目惚れをした。
 「・・・ああ、ここにいたのか」
 理想の女性のタイプが目の前に現れたのである。彼女の名は「陽子」、僕の「陽介」と同じ「陽」の運命を名前に背負った者同士、「ようちゃん」と言われて育った者同士だったことで、僕は赤い糸を勝手に感じていた。
 (陽介の心の声)「なんて清く、正しく、美しく、強く、優しく、深く、素晴らしい
          女性なんだろう。
          仕事はなんでもするからこの人と一緒に時を過ごしたい」
 (陽子の心の声)「ペーペー丸出しだし、自分に敬語使っちゃったりしてるし、
          私の後任になれる即戦力にならないからお断りしよう」
 僕はなんとかこのチャンスを掴みたくて、必死に面接を乗り切った。

 (面接官)50代日本人男性
 「私はもともとHP (Hewlett-Packard) にいたんだけど、
  ご縁あってここにきたんだ。HPって知ってる?」
 「すみません、知りません」
 「あ、そう。。(苦笑)」

 40代台湾人女性
 「あなたは陽子と合う気がするわ」
 60代タイ人男性 
 「履歴書にお寿司握りができると書いてあったけど、今度作ってください。」
 「喜んで!」
 20代タイ人女性
 「面接なのに赤い靴下履いてくるなんて信じられない。絶対やめた方がいい」
 面接後、様々な意見が社内で飛び交ったそうだが、決め手はタイ人と台湾人の上司2人がオッケーサインを出したからだった。
 彼らは人事に一切口出ししないのだが、コっちゃんと僕の時だけは珍しく意見したという。
 (コっちゃんとの面接後)
 「彼女は弊社ではなく、他に合う会社が必ずある」
 (僕との面接後)
 「彼は陽子さんと合うと思うからイイよ」
 「えー、あの若造入れるの? 嫌なんだけど」と陽子は内心は思っていたが、上司が推薦するからという理由で、僕は面接に通過することができた。
 恋心が理由で面接に通過するというやや不純な理由だが、晴れてサラリーマンになり、ビザを取ってもらい、バンコクでの生活が始まっていった。


 チャンス到来

 タイ上場企業、社員1000人、日本人6人、月収5万5千バーツ(約17万円)、タイ進出を狙う日本企業にレンタル工場を案内する営業職に従事した。
 仕事はちゃんとしながらも、僕の本当の目的は陽子さんとお近づきになること。上司と部下の関係で陽子と毎日会話を重ねることで、距離を縮めていき、僕はお酒が飲めないのに、仕事後に毎回「今晩飲みに行きませんか?」と誘っていた。
 はじめは断られていたが、「会社の新人がこれほど誘ってくれるのに行かないのは失礼だから」という理由で、初めて仕事後に陽子行きつけのバーに連れて行ってもらった。
 今まで行ったことのないような大人の雰囲気の薄暗いバーで、ワイン片手に話し合う環境に25歳の僕は酔いしれてしまった。こんなチャンスは2度とない、嫌われても仕方ないとタカを括り、少しでも楽しんでもらえるように、自分の大好きな話を全力投球した。芸術、映画、トトロ、哲学、宗教、演技論、人生論など、ほとんどの人は興醒めするような内容だった。
 「しまった・・・千載一遇のチャンスを逃してしまったあ・・(汗)」と思っていたが、陽子の反応は意外なものだった。
 「こんなにクソつまらない話を真剣にできるこの人って面白い~」
 なんと彼女にとってはそれが好印象だったのである。この彼女の知性の豊かさの背景には生い立ちが関係していた。


 天才発見

 陽子は、セレブ一家の一人娘として生まれ育ち、父の仕事の都合でフランスに幼い頃に3年間移住した。アジア人がいないフランスの田舎町に移住したので、石を投げられたり、牧師に差別されたりした経験を乗り越えてきた。
 その後日本にあるフランス学校を経て、パリ大学院を飛び級し3年で卒業、ニューヨーク、パリ、東京の三大都市で楽しく仕事をしながら、人生を楽しんできた経験をもつ秀才だった。
 「お金は大事よ」と母に言い聞かされて育ち、父の勧めで大手銀行に就職した。「合コンの女王」と言われる程に合コンを繰り返すも、銀行関係で出会う男たちはろくでもない男たちしかおらず、そこでお金や肩書きに惑わされない男を見る目を養うことができたという。
 決断したら即行動でき、不屈の精神力を持ち、自分で考えれる力を持ち、仕事は一流、味覚も一流、料理も一流、そして優しさも一流の女性。いろんな男と世界を見てきたからこそ、彼女の豊かな知性は育まれていった。
 僕にはもったいないほどの高嶺の花だが、一目惚れした気持ちに迷いはなかった。
 何度かデートを重ねた後、仕事のランチ中に僕は告白をした。
 「好きです。付き合ってください」
 「今の彼女との関係を綺麗にしてからでないと付き合えませんよ」

 僕は当時お付き合いしていたコっちゃんに真相を率直に話した上でお別れをし、陽子とお付き合いすることになった。
 ここからまた新たな物語が始まっていく。


 セレブ体験

 陽子はご両親と一緒にバンコクで生活していたので、陽子と親しくなるためには、ご両親の懐に入る必要があった。
 ご両親は二人とも人生でお金の心配をしたことが一度もないという生粋のお坊っちゃまとお嬢さま。こんなに恵まれた人が世の中にいるのかと当初は驚いたが、そんな二人だからこそ、心に壁を持っていた。潔癖症、一見さんお断り、友達はおらず、信用するのは家族だけ。そんなご両親の心の壁をすり抜けて、彼らの懐に入っていかなければならない試練が待ち構えていた。

 僕のような市民が急にセレブ気取りして飾ったところですぐにボロが出てしまう、となれば正直に素直に敬意を持って付き合うのが一番の王道。
 僕の策は次の通り
 ・飾らない(カッコつけない、気取らない)
 ・清潔感を大事にする(潔癖症の家族だったので手洗いをこまめにする、服のチョイスやシワなどに気を使う、整髪料をつける、髭を剃る、など)
 ・若さを売りにする(荷物を率先して持つ、機敏に動く)
 ・バカになる(難しい話はせず、おっちょこちょいな部分を隠さない)
 ・そとづら(外面)を大事にする(人目がある所に一緒に行く時は身だしなみを整える)
 ・陽子のことが大好きだということをたくさん表現する(言葉、表情、スキンシップなど)
 ご両親にとって都合のいい人になり、邪魔にならない人になり、ほどよく新しい刺激を与えられる人になり、大事な一人娘を大切にする人になることで、陽子一家と頻繁に食事を重ね、一緒に生活することで、彼らの懐に入ることができた。
 そのおかげで僕はセレブ体験をさせて頂けるようになった。
 たくさんの一流レストランで食事をさせてもらったので、本物の味覚になった。
 世界中の一流ホテルに宿泊させて頂いたので、一流の接客とサービスを経験させてもらえた。
 運転手付きのセンチュリーとアルファードで送迎して頂き、ポルシェ・カイエンをプレゼントして頂いた。
 飛行機はいつもファーストかビジネスクラスで、空港もファストパスで待ち時間なく乗り降りしていた。
 港区の億ションやホテル暮らしを体験させて頂いた。
 そのようなお金持ちの人たちの優雅な生活を10年体験させて頂いた。


 セレブ体験できた理由

 お金に苦しんでいる人は僕だけじゃないのに、なぜ僕がセレブ体験をさせてもらえたんだろう? と考えていたら、自分が心の中に撒いていた種があったことを思い出した。
 (種)「僕もいつかセレブ生活してみたい。パトロンが欲しい」
 この種を捨てずに、水を与え、大事に守り続け、純粋に信じ続けてきたからこそ、僕のところにこの現実がやってきた。
 “Everything you can imagine is real.” by Walt Disney
 「想像できることは全て現実にできる」 ウォルト・ディズニー
 想像を大切にすれば、それはベストのタイミングで現実になってくれるという世界の法則を一つ掴んだ感触がした。なんて素直だろう、なんてシンプルだろう、なんて世界は凄いんだろう、この非現実的なセレブ体験を通じて、世界の素晴らしさと美しさを再確認していた。
 想像するだけでいい。その種を捨てずに育てるだけでいい。自分にとって最高な種を蒔きまくり、育て続けよう。


 お金持ちの人に好かれる作法

 相手に応じて臨機応変に対応すること大事だが、お金持ちの人の懐に入りたい時は次のこと留意してみてほしい。
 ・素直に正直に(嘘は壁を作る)
 ・挨拶、ありがとうございます、ごめんなさい、は会話の基本
 ・飾らない(カッコつけない、気取らない)
 ・清潔感を大事にする(手洗い、服のシワ、髪型、洗車、など)
 ・若さを売りにする(重い荷物を率先して持つ、すぐウェイターを呼びにいく、など)
 ・スキを見せる(最初に抜けてるところがあるということを初期設定にしておくことで、ミスをしても許されるし、長い目で見ると徳)
 ・そとづら(外面)を大事にする(人目がある時は、身だしなみや佇まいを整える)
 ・余計なことは言わない(「はい」「すいません」「ありがとうございます」多めで。脳ある鷹は爪隠す)
 ・品を持つ(大きな声で喋らない。ガチャガチャしない。丁寧な挨拶、など)
 ・返事、返信は早めに(二人の間に心地よい風を作る。忠誠心も表現できる)
 ・嫌がること、面倒くさいことを率先してやる(タクシーを呼ぶ、車を涼しくしておく、など)
 ・相手のルールに寄り添う(相手に合わせる。反対するのは心の中で)

 お金が目的だと悟られてはいけないので、それ以外の理由でお近づきになった方が賢明である。本音と建前を使い分け、実践でトライ&エラーを繰り返し洗練させていこう。


 芸術家の宿題

 セレブ体験もいいことばかりではなかった。
 お金持ちの人たちの愚かさ、弱さ、狭さなども見させて頂いた。自分のことしか考えていない器の小ささ、見栄を張るダサさ、偏った情報だけを信じる知性の狭さ、多くの人がお金で苦しんでいる中、一握りのお金持ちだけが贅沢な暮らしをしている世の中の不条理さ、不平等さを知り、怒りが込み上げてきた。
 この不平等さはなんとかしなくてはならない。僕一人でできることは小さなことだが、できることはあるし、それが大きくなるかもしれない。この不条理な現実に対して一石を投じれるような傑作を作りたいという種を心に蒔いた。いつかその種が花開くことを信じて。


 好きな人を掴む秘訣

 「女性は、生理的に無理じゃない男に3ヶ月以上好きと言われ続けたら、『この人は私を幸せにしてくれるかもしれない』と思うようになって、その人を気にするようになる」
 というアドバイスを女友達からもらったことを思い出し、僕は「好きです」と何度も陽子に伝えた。
 一方、陽子はこれまでハイスペック男とばかり付き合ってきたので、僕のような年下のアーティストに出会ったことがなかった。物珍しさもあり、僕のことを面白いと評価してくれた。
 「今までで一番何も考えずに流れに任せてた」と、僕と出会った時のことを、陽子は振り返っている。
 全ては流れている。川の中の石ころがコロコロ転がって裏が表に変わるように、マイナスもプラスになり、ネガティブもポジティブになる。だから心配しすぎず、流れを感じたら、身も心も委ねよう。神秘を味わおう。
 僕はその神秘に感謝し、だからこそ全力で陽子を愛した。
 ・陽子が怒っている時は黙って真剣に聞く
 ・ちゃんと謝る
 ・いつも優しく
 ・やりたいことは事前報告して、怒られてもやる
 ・なんでも話す
 ・意見がぶつかるときは僕が折れる
 ・ボディータッチをできるだけする
 ・祝日はプレゼントと手紙を用意する
 ・ありがとう、大好きだよ、愛してるよ、をたくさん言う
 そんなことに気をつけながら3年間同棲し、お互いのノリとタイミングと相性が合ったので結婚した。
 その間は仕事もプライベートもずっと一緒にいたが、辛い想いは一度もなく、むしろそのおかげで四六時中楽しく過ごすことができた。
 現在は出会って12年目だが、今の所大喧嘩なども一度もなく、いまだに大好きで仲良しである。(怒らせてしまうことはよくあるが。。汗)
 陽子はいろんな経験を経て、「人間の優しさ」を見るようになった。
 「Love is everything. 愛は優しさ」
 これが彼女の信念である。
 (陽子の友達)「陽介君のどこがいいの?」
 (陽子)   「優しくて、私より大人なところ」
 そんな彼女が僕の優しさを認めてくれたのが嬉しかった。諦めずに、魂の美しさと純粋さを磨いてきてよかったー♪ と思えた瞬間だった。


 サラリーマンと芸術家の二足のわらじ

 バンコクに移住してから、恋愛と仕事を織り交ぜながら、アーティストとしての活動も始めていった。
 まずは作品を作り、それを発表することに慣れなくてはいけないと思い、自分にとってもドキドキするような挑戦しがいのある作品を作ることにした。


 「着る、動く、歩く絵画」(写真添付)
 キャンバス生地にアクリル絵の具で陰と陽の世界を前後に描き、それを着て街中を歩くというパフォーマンス。ドキドキしながら歩いていた。道行く人にイイね♪ と言われることが嬉しかった。できた自分がまた好きになり、自信になり、誇りになった。


 「アートデモ」(写真添付)
 “Wake up your art. Art is not for money, but for opening your new life. Challenge to your creation. Art love you. Art is waiting for you. Let’s do it! We are one.”
 「起きろ! あなたの芸術はお金のためではなく新しい扉を開くためにあるんだ。自分の創造に挑戦しよう。アートはあなたを愛している。芸術はあなたが使ってくれるのを待っている。やろう! 僕たちはひとつ」
 というプラカードを持って街中を歩くパフォーマンス。ビックリさせてしまった人、通じ合えた人もいて、楽しかった。できた自分を褒めた。


 「マスク散歩」(写真添付)
 自家製の仮面を被って街中を歩くパフォーマンス。「私にもやらせて!」と化粧品店員が言ってきてくれた。
 「路上で絵を描く」(写真添付)
 人前で絵を描いてみるパフォーマンス。「この絵いくら?」と観光客に聞かれたりして、楽しい体験だったが、部屋で一人で描く方が集中できて好きということがわかった。


 「個展」(写真添付)
 絵の個展を開催。絵も売れて黒字に終わり、場所決めからオープニングの軽食注文まで全て自分でやりきれた体験は、大きな自信と勇気になった。

 やってみて気づいたことは次の3つ
 ・若いうちにどんどん行動して、新しいことに挑戦することに慣れておかないと、大人になった時に動けなくなる
 ・恥ずかしがって、表現できない方が恥ずかしい
 ・カッコつけてる人が一番カッコ悪い
 恥ずかしがり屋で、カッコつけの僕にとってはどれも自分との戦いだった。
 なぜこんなことをするのかと言うと、やはりカッコイイ自分になりたいからである。
 今まではカッコつけていたからこそ、カッコつけずに、恥ずかしがらずに、自由に、両手を広げ、高らかに、勇ましく、誇らかに、無邪気に、美しい作品を作ることができるカッコイイ自分になりたかった。
 そのための準備運動のつもりでこのようなパフォーマンスを続けていた。僕のことを誰も知らない異国の地だからこそ、今までの自分の殻を捨てて、なんでもできる気がした。
 陽子のお父さんには「なんであんなことやるんだろうねえ」と不思議がられていたが、気にせずどんどんパフォーマンスを続け、絵を描き続け、作品を作り続けた。
 サラリーマンとして仕事をしながら、高嶺の花の女性と恋愛をしながら、セレブ一家の懐に入りながら、セレブ生活を満喫させてもらいながら、アーティストとして作品を作ることができる、自分の器用さをよく褒めた。そのおかげで充実したバンコク移住になった。


 純粋の美

 「世界は素晴らしい」
 「希望はある」
 「自分は最高だ」
 「愛が勝つ」
 こんな純粋な想いを信じ抜きたい。
 「純粋97%:不純3%」くらいに純粋で素直でまっすぐで美しい性格が好きなので、自分がそうなるために必要だと思う純粋な部分は守り抜きたい。
 誘惑が蔓延する現実を生きながら、純粋にやりたいことに集中できるかどうかが大事である。そのためには少しばかりコツがいる。
 純粋の守り方

  •  出来るだけ人の眼を気にしない

  •  自分の気持ちを大事にする

  •  名作や良作だけを観る

  •  好きな人に媚びる

  •  嫌なことを言われたら聞き流す

  •  笑ってやり過ごす

  •  自分を信じ抜く

  •  生理的に嫌なことから逃げる

 自分の純粋を、「石」ではなく「水」で想像してみることにした。
 「石」はぶつかった時に欠けてしまうが、
 「水」はぶつからずにすり抜け、自由に形を変えることができる。
 純粋性も、石ではなく水の佇まいなら、どんなこともすり抜けることができ、減ることもない。その柔軟性が純粋を守るためには必要である。
 アメリカでダンサーとして活躍していた女性としばらく喋った後、唐突に質問された。
 「陽介さんはなぜそんなに心が綺麗なんですか?」
 「その綺麗さを守るために、逃げて、磨いてきたから」
 「なるほど~!」
 と彼女は納得していた。

 ナヨナヨした水のような自分が嫌いになった時もあるが、今ではその器用な自分を褒めている。


 世界一周

 24歳の時、ロサンゼルスのショッピングモールの駐車場を歩いていた時に、フト夢が思いついた。
 「20代で世界一周しよう」
 その時は吹いたら消えるほどの淡い想いだった。だけど僕はその想いを捨てずに大事に持っていた。
 そして5年後のある日、それが正夢になる。
 会社からの帰り道、
 (僕) 「いつか世界一周したいんだよね~」
 (陽子)「じゃあ、ハネムーンは世界一周にする?」
 (僕) 「それだ! やろう。それしかない!」
 僕の頭上に巨大な雷が落ちてきた瞬間だった。
 そうと決まれば早い、二人ともボーナスをもらった3ヶ月後に会社を辞め、
 そこから1年間、22カ国38都市を巡る世界一周の旅が始まった。

【旅概要】
・1年間
・22カ国38都市
・飛行機はビジネスクラス
・ホテルはAirbnb
・移動距離:地球2周分
・荷物:104kg(2人で)
・行った美術館&博物館:81館
・撮影写真:6万枚
・描いた絵:168枚(週3枚)
・執筆  :26万字(A4半/日)
・スケッチノート:12冊
・予算:1000万円(2人で)
 世界は本当に美しかった。地球は本当に偉大で優しかった。僕たち人間が生きていることは素晴らしいことであり、奇跡だということがよくわかった。
 観光地を巡り、傑作を鑑賞し、美味しい食事を頂き、世界の広さと素晴らしさにたくさん出会うことができた最高の旅だった。
 ペルーで高山病になったり、アルゼンチンで食当たりしたり、ギリシャの地下鉄でスリに合いそうになったりもしたが、無事世界一周できたことも、自身を大きく勇気づけてくれた。
 「世界一周する」という想いの種を、5年間も捨てずによく想い続けたね、偉いぞ。そのために行動し、チャンスも見逃さなかった。素晴らしい」と自分を褒めた。
 どんなバカげた夢も捨てずに育てよう。


 恐怖との付き合い方 

 新しいことに挑戦するのは怖い。人と違うことをするのは怖い。
 震災、病気、飢饉など、人間はずっと恐怖と生きてきた。人類の歴史は恐怖を克服するための歴史とも言えるほどに。
 ゆとり世代の第一世代として日本で教育を受けた身としても、「恐怖を煽りすぎでは?」と学生の時から疑問を感じていた。学校では「大学いかないと就職できない」家では「良い子じゃないと親から怒られる」テレビをつけると「事故のために保険を」。
四方八方から恐怖を煽られながら育った。理解はしつつも心の奥底では抵抗していた「これは大人にとって都合のいい人間を作るための環境だ。テレビもマーケティングのために恐怖を煽り、学校も世間に反抗しない良い子ちゃんを育てるために恐怖を煽っている。だからこれを間に受けてはダメだ。適当に流さないと」
 そして恐怖をかえりみず、高校2年生の時に劇団に入団したことがキッカケで僕は恐怖から少しずつ離れることができるようになった。その後も恐怖をかえりみず自分の人生を歩んでいる人たちに海外でたくさん出会えたおかげで、「人間はこんなに自由に生きていいんだ」と思えたことで、さらに恐怖から離れることができるようになっていった。
 だからといって恐怖から離れることはできても削除することはできていないので、僕は恐怖から逃れることを諦め、共存の道を選んだ。人間が生き抜く上で恐怖も大事な要素である、「20%恐怖:80%創造」の割合で恐怖を創造のためのエネルギーに変換するのだ。
 大事なことは大体怖い。しかしその恐怖を乗り越えないと人生は開かない。
 恐怖に屈して、安心、安全、安定、快適、便利に走りすぎると、自分を見失ってしまい、どんどん恐怖に苦しめられてしまう。
 僕は恐怖と友達になり、都合よく恐怖からエネルギーをもらい、自分の人生を生きたい。


 路上ワーカーとの出会い

 せっかくの世界一周旅だからテーマを一つ決めることにした。
 「希望を見つける」
 自分にとって希望になるナニカを見つけるということを旅のテーマにした。
 本当にそんなものあるのだろうかと不安だった。その重圧に押しつぶされ、旅を始めて2日目で鬱になってしまった。
 せっかくの旅先なのに外に出たくない、人に会いたくない、何もしたくない、というインドアのスパイラルに飲み込まれ、自暴自棄になっていった。そして3ヶ月ほど経過した頃、ついにその希望の光を見つけたのである。
 それは路上で働く人たち「路上ワーカー」との出会いだった。食べ物を売る人、パフォーマンスをする人、お土産を売る人、いろんな人がいて、バラエティ豊かな働き方と生き方をしている彼らが輝いて見えた。
 彼らの肌の艶、元気な声、美味しそうな匂い、身に着ける色彩の豊かさ、人目を引くためのアイディア、生きる生命力、人間力、純粋さ、素直さ、彼らの「生気」に僕は深く感動した。
 「彼らの人間力の美しさこそ希望だ!」
 「未来に希望を持てない原因は、路上が殺風景だからだ!」
 彼らが路上に出ると、そこはたちまち活気に溢れる空間に変わる。人通りも増え、笑顔が増え、予期せぬ出会いやセレンディピティ(serendipity: 偶然素晴らしい幸運に巡り合う、素晴らしいものを発見する才能)のチャンスが増えていく。
 一方、彼らがいない都市の路上は、冷たく無機質になっていく。人々の作る活気は室内に閉じ込められ、室外の活気が失われているから、僕たちは未来に希望を見出せないのでは? と思うようになった。
 人間の創造力の豊かさを表現し、人間の仕事の可能性を体現し、路上に活気を生み出し、通行人にセレンディピティをもたらす彼らこそ人類の希望だと思った。
 そこで、僕は世界一周をしながら「面白い!」と思った150人の路上ワーカーに声をかけ、インタビューをしてみた。
 Q1 週何日働いてますか?(生活サイクルを知るため)
 Q2 どれくらい稼ぎますか?(数字を知るため)
 Q3 他に仕事はしていますか?(専業かどうかを知るため)
 Q4 なぜこの仕事を始めたの?(キッカケを探るため)
 Q5 サラリーマンや企業勤めについてはどう思いますか?(仕事の考えを知るため)
 Q6 将来に対して不安や心配はありますか?(今との向き合い方を知るため)
 Q7 お金より大切なものは?(突き動かしているものを探るため)
 Q8 信じているもの、愛しているもの、神様、信念などはなんですか?(人間性の核心に触れるため)
 これらの質問をノートに事前に現地語で書いておき、それをいつも持ち歩いていた。google翻訳アプリを使って彼らの解答を通訳してもらい会話をした。せっかくなので五人だけ紹介しよう。




1【月40万円稼ぐ路上バーガー屋(チリ・バルパライソ)】


 カラフルな街並みが有名な海沿いの街バルパライソへ行くために、サンティアゴ・デ・チリからバスに乗った。約1時間のドライブを終え、長距離専用のバス停に到着。外に出ると、カラフルな色のテーブルクロスときれいに並べられたハンバーガーが視界に飛び込んできた。小腹も空いていたので吸い寄せられるようにハンバーガーの前で足をとめた。
 それぞれ美しくラッピングされており、看板もカワイく、清潔感がある店だった。チキン、レタス、トマトが入ったチキンバーガーで、ソースは6種類から選べる。1個1000ペソ(約170円)とお手頃価格で、お札1枚だからついつい1つ注文してしまった。
 「毎日自分でつくってるの?」
 「そうよ、彼女と二人でね」
 1週間に6日間働き、1日100個ほどを売る。月の稼ぎでいうと約240万ペソ(約41万円)くらいだという。
 「他に仕事はしてる?」
 「してないわ」
 「なんでこの仕事はじめたの?」
 「なんでって、ん~生活のためよね。家賃払ったり、ご飯食べたりするためよ。この仕事ならはじめやすいとも思ったしね」
 「お金よりも大切なものはなに?」
 「私のガールフレンドね」

 想像以上の月収にビックリした。日本の新卒サラリーマンよりも稼ぎが多いなんて。毎日午前中に100個のハンバーガーを自分たちでつくり、午後から出勤する。完売すれば仕事は終了。2時間で終わる日もあれば8時間かかる日もある。小腹が空いているお客の需要に、適切な「商品」と「場所」と「値段」で応える。それができれば生きていくためのお金を稼げることを知った。


2【アボリジニー(オーストラリア・シドニー)】


 シドニーにあるオペラハウスを目指して海沿いを歩いていると、聞いたことのない重低音が遠くの方から聞こえてきた。目を凝らすと、身体中に白いペイントをした上半身裸の男達が、細長い棒に口を当てながら、ブーメランを叩いて音楽を演奏していた。
 オーストラリアの先住民アボリジニとの初めての出会いだった。細長い棒はディジュリドゥというアボリジニ独特の木の笛で、聞いたことのない音を奏でてている。もう一人はブーメランを持って西洋人と記念撮影をしている。絵、楽器、CD、を販売する小さなブースもある。異次元に迷い込んできたかのような光景に、僕は足を止めずにはいられなかった。
 話を伺ってみると、半年前からこの仕事を始め、週6日勤務で1日2~7ドル、多いときは100ドルほど稼ぐ時もあるという。
「なんでこの仕事始めたの?」
「アボリジニ文化を広めたくてさ」
「お金よりも大切なものってなに?」
「アボリジニ文化だよ」
「あなたにとって神って?」
「Baiame(注釈:アボリジニ神話に出てくる創造神)だよ」

 彼の物怖じしない凜とした態度と、自分の文化に誇りを持って仕事に取り組む姿が、カッコよかった。
 しかし同時に気にかかったのは、彼らの笑顔のなさだった。こちらがカメラを向けたときも演奏するときも笑顔がない。お客さんと記念撮影する時の営業スマイルのみ。とても楽しんでやっているようには見えなかった。
 ペイントされた表面の裏の体内に張り詰めたナニカを感じた。それがなんなのかは遠慮して直接聞けなかったが、そのナニカが僕の全身にピリピリ伝わってくる。彼らの背後に潜むナニカこそ、アボリジニの歴史のような気がしてならなかった。

 オーストラリアの豊かな自然と共に生きてきた原住民アボリジニたちは、いまや絶滅の危機に瀕するほど減少しているという。オーストラリア・ケアンズにあるジャプカイ・アボリジニ・カルチャーパークの壁面には
 「私たちの土地は取られました。私たちの文化は壊されました。私たちの子どもは奪われました。でも私たちはまだここで生きています。
 (Our land was taken. Our culture broken. Our children stolen. But we are still here.)」
 と書かれていた。
 彼らの歩んできた歴史の過酷さや痛みは想像を絶する。苦難を乗り越え、いまを生きるアボリジニーたちは、施設や路上パフォーマンスなどの見世物にさせられている現実があった。


3【プリント写真を売るヒロさん(アメリカ・ニューヨーク)】


 知人の画家が、ニューヨークで15年以上路上でプリント写真を売っているヒロさんを紹介してくれた。中国出身だが日本語がペラペラ。アメリカ人の旦那さんがいて、子どもはいない。

 「なんでそんなに日本語上手なの?」
 「1989年の天安門事件をキッカケに、中国にいたらマズイと思って日本に移住したのよ。日本の大学を卒業して貿易会社に7年間勤務してたんだけど、毎日の生活に飽きたし、私のオープンな性格と社内の閉塞的なムードが合わずに脱サラ。その後、ニューヨークに移住したのよ」
 「なぜこの仕事を始めたの?」
 「友達に勧められたのがキッカケね。はじめは自分で撮った写真を路上販売していたんだけど、売れ行きが伸びないから、いまのスタイルに変更したの。気がついたら15年経っているわね(笑)」
 「毎日ですか?」
 「ほぼ毎日ね。19時から3時までね」
 「場所はいつもここ?」
 「その都度変わるけど、主に64番街。タイムズスクエア周辺の路上が、土日の23時以降に開放されるから、その度に真下に移動しているわよ」
 「売上はどれくらい?」
 「1日の売上は最高で200ドル、最低で20ドル」
 (と答えたが、隣の絵描きが、最低でも毎日200ドルは稼いでると、コッソリ教えてくれた。単純に計算しても月六千ドル(約86万円)になる。)
 ヒロさんと話をしている間も、歩行者が絶えず足を止め写真を買っていく。2ドルという安さに加え、ニューヨークの土産としても邪魔にならない手頃な大きさの写真、15年の経験を元に、通行人が思わず買ってしまう商品をヒロさんは洗練させていた。
 「税金は払ってるんですか?」
 「納税者番号(タックスID)なしで働くことは違法だがら、年に一度払ってるわよ。私は一度逮捕されたことがあるけど(苦笑)」
 「副業はしてます?」
 「ニューヨークの路上ワーカーたちを支援する団体組織『Street Vendor Project』で月200ドルのパートタイムをしてるわ」
 「将来に対する不安や心配は?」
 「とくにないわね」
 「お金よりも大切なものは?」
 「LOVEでしょ!?」即答する表情が印象的だった。
 「人種、国籍、宗教などをめぐりいがみあったり、争うなんてバカげてる。寛大な心があれば平和になるじゃない? お互いに助け合って生きていけばそれでイイじゃない。お金があっても心がないと幸せになれないでしょう?」
 「どうしてそんな考え方になったの?」
 「昔から人を助けたり、人と協力し合うのが好きだった。困っている人を助けたらイイじゃない?」
 と、愛を信じて止まない彼女の潔さが美しかった。
 そんな会話をしていたら22時になった。ヒロさんは1時間後に開放されるタイムズスクエアに向かうため、おもむろに荷物を片づけはじめた。それにしてもなかなかの大荷物を、慣れた手つきで台車の上に器用に収めていく。洗練された動きが清々しい。
 そして23時から夜中3時まではタイムズスクエアで稼ぎ、仕事後は、月140ドルで借りている倉庫にこの荷物を預け、電車で家に帰り、仕事終了。
 優しく、強く、たくましい路上ワーカーに出会えて嬉しかった。


4【ハンドパン演奏者 Koku(フランス・パリ)】


 ルーブル美術館周辺を歩いていると、聞いたことのない優しい音色が響いてきた。
UFO のような形をした物を黙々と叩いている。 音色も見た目も珍しいから次々と人々が立ち止まる。楽器専用ケースの片方は投げ銭の場所で、もう片方には折り鶴が折られていた。
 ハンドパンという楽器らしく、この楽器で路上ワークしながら世界中を旅している日本人だった。
 出勤日数:週3~4日
 出勤日時:17~23時
 出勤場所:音色が届きやすい場所で演奏に入り込める場所
 1日の売り上げ:5千円~2万円
 「なぜこの楽器を始めたの?」
 「打楽器だけど音階があって面白そうだったし、ピースフルな音色なのも気に入ったんだ」
 「この楽器いくらくらいするの?」
 「20万円くらいしたよ。まだ大量生産できる楽器じゃないから高いんだ。でも路上ワークで買って2ヵ月で回収したけどね」
 「なんで折り鶴を折ってるの?」
 「子供たちがお金を入れてくれる時に、なにかお返しがしたいと思って、折り鶴を用意しているんだよ」
 「お金より大切なものは?」
 「楽しむという心持ち。楽しめばお金はなんとかなるよ」
 「将来に対する不安はある?」
 「特にない」
 「あなたにとって神ってなに?」
 「宇宙だ」
 宇宙の隅々まで響き渡るようなピースフルな音色を彼は黙々と奏でていた。子供がお金を入れてくれた。 彼は笑顔で折り鶴を子供に渡し、子供は笑顔になって親の元へ帰っていった。


5【ハラルフードトラック(アメリカ・ニューヨーク)】


 世界の有力企業がひしめき合うニューヨークのマンハッタン。昼食難民や飲食店を探す人々の需要に応えるため、路上販売するフードトラックによく出会う。赤信号で止まっている時、ふと視線をずらすと、「ウェルカム!」というハラルフード店の電子掲示板のメッセージが飛び込んできた。
 接客してくれたのはバングラデシュ出身の男性。9年目を迎え、週5日、朝8時から18時まで働いているという。
 「いくらくらい稼ぐの?」
 「うちにはオーナーが居てね、時給制で、時給11ドル。1日110ドル、月2千2百ドルにプラスチップだね」
 「なんでこの仕事を始めたんですか?」
 「他に選択肢がなかったからね。でもこの仕事が大好きだよ」と笑顔で答えた。
 「お金より大事なものは?」
 「自分の命だね」
 「あなたにとって神様ってなに?」
 「俺はヒンドゥー教だからクリシュア神を信じている」
 親切に対応してくれたお礼に注文しようとしたら、「なにが食べたい?」とあちらから聞いてきてくれた。カティ・ロール(注釈:具材を薄焼きのパンで巻いたベンガル地方の軽食)を注文すると「オッケー」と言って黙々と作り始めた。
 感謝の気持ちも込めてチップ込みでお金を払おうとすると、
 「いらない」と断られた。初め意味がわからなかった。
 「それはダメだ。僕はあなたの仕事を応援しているし、親切に僕の質問にも答えてくれた。だから払わせてくれ」
 「いらない」と店主は断り続ける。
 「なんで!?」
 「僕もあなたの活動を応援している。俺たちはもうブラザーだから協力しあっていこうぜ。だからいらないよ」
 「……わかった。ありがとう。僕は今とっても嬉しいよ」
 「あなたが幸せなら僕も幸せだよ」
 また会おうと別れを告げ、僕は店を去った。彼らは何事もなかったかのように黙々と仕事を再開した。
 ここは巨額なお金が動き続けている世界一の金融街を有するマンハッタンのド真ん中。それとは真逆の、資本主義をまるで無視したコミュニケーションが生まれたことに僕は感動し、しばらく放心していた。
 「これいくらくらいするんだろ?」と、現代っ子の僕はすぐにお金に置き換えてしまうが、この時だけは金勘定の思考がストップした。手の中にある温かい4ドルのカティ・ロールがとんでもなく価値があるモノのように思えた。
 頭を冷やすためにタイムズスクエア近辺を放浪していても、手の中にはカティ・ロールの温もりが残っている。この温かさを血肉にしなければいけないと思い、タイムズスクエアの足元で世界一美味いカティ・ロールを食べながら、僕は泣いた。
 ↑※(前本からの引用なので要確認)

 世界一周の旅は、いつの間にか路上ワーカーたちのフィールドワークの旅になっていた。彼らの素晴らしさを伝えたい。どうやって? 本だ!
 世界一周の後にやりたいことが決まった、出版である。原稿を書いたことも出版もしたことはないが、この企画は絶対に通ると言う根拠のない自信は芽生えていた。
 そして35カ国を巡り旅最後の国、日本の東京に着いた時、その自信は確信に変わった。なぜなら、東京の路上がどの国の路上よりも活気がなかったからである。

 これはなんとかしないといけない。日本の路上に活気を取り戻さないといけない。
 時間制限を設けて路上を生活者に解放し、お祭りをどんどんしなくては。
 そんな熱い想いは550ページ分の原稿を生んだ。そしてここから初出版を巡る新たな冒険が始まっていく。


初めての出版

 旅を終え、バンコクの家の机に座って考え始めた。
 「さて、どうやって出版しよう・・やったこともない、知り合いもいない」
 新参者が、企画持ち込みで勝負しても門前払いだろう。編集者の心をグッと魅了するインパクトが必要だ。アイディアのインパクトもさることながら、一目でやる気が感じられるもの、、そうだ、サンプル本を自分で作ってみよう。
 自費で一冊だけサンプル本を作ることにした。全てのページをillustratorや photoshop で編集し、印刷屋に6000円で製本を頼んだ。
 バックにはいつもこのサンプル本を忍ばせておき、いつでもどこでもプレゼンできるようにしておいた。これでインパクトの準備完了。
 次は、編集者に見てもらうという壁をすり抜けなければならない。直接会いに行こうかと考えたが、突然知らない人に話しかけられるとびっくりして引いてしまうだろうと思い、電話とメールで挑戦することにした。まず大きな本屋に行き、自分の本と似たようなテイストの本を探す。見つけたら最後のページにある出版社の社名、電話番号(編集部)、メールアドレスをメモし、100社の出版社リストをエクセルで制作した。
 ターゲットは「編集者」。作品に感動してくれる編集者を一人見つけたら、その方が社内で企画を通してくれるから出版できる、という仕組みであることを先輩作家がツイートしているのを見て、決定的な一人の編集者を探すことに目標を定めた。
 編集部の電話番号に直接電話するのがベストだが、わからない時は、受付からのスタートになるので通過しなくてはならない門は2枚になる。できるだけ壁の枚数は少なくなるように工夫する。
 電話の開口30秒が勝負になる。
 (ダメな例)
 「はい、こちら〇〇出版社です」
 「突然すみません、私、中野陽介と申します。新人作家で企画持ち込みでご連絡させて頂いたんですけど、ぜひ新作を読んでもらえないでしょうか?」
 これではインパクトに欠け、断られるのがオチである。
 そこで僕はこう切り出した。
 「はい、こちら〇〇出版社です」
 「突然すみません、僕さっき世界一周旅から帰ってきた所なんですが、旅中に路上で働く人たちに感動して、100人に写真とインタビューさせてもらってきて、それを一冊にまとめたサンプル本を作ってるので、5分でいいです、見てもらえないでしょうか?」

 カラクリはこうである。
 「突然すみません、僕さっき世界一周旅から帰ってきた所なんですが(ホットで新鮮さを演出する)、旅中に路上で働く人たちに感動して、100人に写真とインタビューさせてもらってきて(具体的な数字を出すことで実績を示す)、それを一冊にまとめたサンプル本を作ってるので(やる気を見せる)、5分でいいです(相手の苦労をわずらわせず、気軽に「じゃあきて」と言ってもらいやすくするため)、見てもらえないでしょうか?」
 このセリフのおかげで、100社のうち25社が会ってくれた。
 「今どき企画持ち込みで予算が通ることはほぼないし、そもそも会ってくれただけでも奇跡ですよ」
 と出版業界の人が驚いていた。それを聞いて僕は嬉しかった。
  この奇跡を生み出せたのには実は裏がある。それはロサンゼルス時代に出会った黒人俳優ボブとのなにげない会話がキッカケだった。
 アメリカで俳優として活動するためには SAG (Screen Actors Guild) という俳優組合に入る必要があるため、夢みる若手俳優たちは、みんなあの手この手を使って組合に入ろうとしている。SAGの幹部メンバー御用達のホテル、レストラン、公園などで声を掛けて仲良くなり、メンバーにしてもらうことも実際にあった。僕もメンバーになりたかったので、既にSAGメンバーだったクラスメイトの黒人俳優ボブに相談してみた。
 「僕もSAGに入りたいんだけど、どうしたらいいの?」
 「電話をしろ。大事なのは第一声だ。"Hello, my name is Yosuke, ~" だと、コイツは素人だと思われてすぐ電話を切られてしまう。だから "Hello, this is Yosuke, ~" にしろ。それだけで相手はこの人はメンバーかもしれないと思って電話を切れなくなる。そして事前にSAGで働いている人の名前を調べておいて、「〇〇さんいますか?」と聞けば、次に繋がり、第一関門を通過できる」

 ボブの解答に僕は深く感動した。
 なぜなら言い方ひとつでルールをすり抜けることができると知れたからである。ルールも大事だが相手は人間。ものは言いよう。自分が高校生の時に18歳以下お断りの劇団に16歳で入団した時のことを思い出していた。
 そしてもうひとつ感動した理由は、夢のためになんでもできる人のかっこよさに痺れたからである。人目を気にしてカッコつけたり、恥ずかしがって小さな一歩も踏み出せないようでは夢は叶わないということを知れた。カッコつけていた自分を恥じ、夢を掴むための大事な佇まいを知れたのは大きな発見だった。掴みたい夢があるなら、わずかな可能性であっても思いついたことは全部やる、そのシンプルな思考とそれを行動し続けることが鍵になる。
 このボブとの出会いがあったからこそ、出版社に100社電話ができ、25社会ってくれる奇跡を起こすことができた。

 (編集者たちの反応)
 「200万円一緒に持ってきてくれたら即出版します」
 「もっと有名になってからきて」
 「このプレゼンでは弱いね~」
 「弊社からは無理ですね」
  儲かっている会社、古風な会社、ノリノリの会社、真面目な人、イケイケの人、冷静な人、いろんな社風と編集者を見れて、出版業界を肌で知ることができたことも大きな収穫だった。
 色々言われて凹んだりもしたが、感動してくれる一人を見つければいいと思っていたので、そこまで落ち込むことはなかった。やるべきことが明確だったので、何もしない方が気持ちが悪く、次々と出版社に電話とメールを繰り返していた。
 結果、100社のうち2社で企画会議が通り、最終的にCCCメディアハウスさんから出版して頂けることになった。
 その後無事に全国出版され、出版日に紀伊國屋新宿本店に行ってみると、周りがそうそうたるスター作家の中、自分の本が平積みになって置かれているのを見た時は感動で震えた。
 「俺はなんてクールな作品を作ったんだろう。小さな感動から始まり、そこから3年後の今日に至るまで、よく諦めずに頑張ってきたよ、お前スゴいよ! 最高だよ! よくやった! 天才!」
 と、自分で自分を最大級に褒めてあげた。本屋から出て、新宿の街を歩きながら喜びの余韻に浸っていると、この喜びを誰かとシェアしたいと思って、お世話になっている母校の校長先生に電話をした。とても喜んでくれて、後日お祝いのために高級ホテルでディナーをご馳走して頂いた。
 とある編集者にこうも言われた。
 「この出版不況時代に、企画持ち込みで全国出版なんて1%以下の世界ですよ」
 1%の狭き門を通れた自分を誇らしく思った。この体験は僕に大きな自信と勇気をくれた。「信じ抜いて行動すれば叶う」ということを身を持って知れた体験になった。


奇跡の作り方

 出版できたこと、世界一周できたこと、セレブ体験できたこと、素晴らしい妻に出会えたこと、芸術に出会えたこと、35カ国旅できたこと、劇団に入れたこと、仲間に出会えたこと、振り返ればどれもこれも奇跡のようだった。
 なぜ奇跡が起きるのか? 奇跡が大好きという僕の性分もあるだろうが、自分なりに分析すると5つの理由が浮かび上がってくる。

 1 信じ抜く
 「この企画は絶対に出版できる」「僕は必ず世界一周できる」「僕はいつかセレブになる」「僕は素晴らしい女性に出会う」「素晴らしい友達にたくさん出会う」「素晴らしい仕事をする」現実になるまで信じ抜けたからこそ奇跡を起こせた。
 信じ抜き、諦めず、行動し続けることができれば、夢は叶うし奇跡も起きる。大事なのは、最初の小さな想いの種を捨てず持ち続けること。たまに水をあげて、心の中でゆっくり育てると、奇跡の花は開く。
 想像するだけでワクワクするような種を蒔き、育て続けよう。種は「感動」の中に潜んでいる。だから積極的に感動しにいこう。カッコイイ! やりたい! なりたい! ステキ! キレイ! 楽しそう! スゴイ! ワオ! 人それぞれいろんな感動がある。どんなに小さな感動も捨てずに心の引き出しにしまっておこう。なぜそれに感動したのか、分析しよう。

 2 やることを明確にする
 諦めずに編集者に会い続けることができた理由は、「決定的なひとりを見つける」というやるべきことが明確だったから。だから感情や他人の意見に振り回されず、どんどん行動できた。その体験は、自分に無限の可能性を感じさせてくれる。

 3 全部やってみる
 「自分には無理。自分にはできない」と言って諦めるのは簡単。それを正当化するのも簡単。でもそれでは人生は開かない。
 黒人俳優ボブのアドバイスを思い出し、まず出版社に電話をしてみた。最初は緊張してうまくいかなかった。それでいい。本番で練習し、洗練させていく。やってみるということが最優先事項。回数を重ねるといつの間にか緊張せずに電話できるようになっていた。
 やってみた先に失敗は1秒もない。
 失敗してもそれは成功への一歩。
 「やらなかったこと」が人間最大の失敗である。
 人生に無駄は1秒もない。
 全てに意味があり繋がっている。 
 どんどん次に進もう。ハリウッドの路上で自作の音楽を通行人に聴かせようとする黒人ラッパーのように、思いつくことは全部やってみよう。

 4 好転させる
 目の前にやってくる現実をどう選択するかで人生は変わる。
 「1%しか」と思うか、「1%も」と思うか。
 どんなに辛いことや苦しいことも、それをどう美しく、軽やかに、勇ましく、ポジティブに転換できるかが、人間味の見せ所である。
 僕はせっかくなら最高にカッコつけてクールに好転させていきたい。

 5 奇跡を好きになる
 奇跡を作りたければ、そもそも奇跡が好きでなければならない。そんなミラクルが自分の人生に起きていいの? と疑うのではなく、奇跡よ俺の元にこい! と奇跡を愛し、奇跡を呼ぶのだ。僕は奇跡が大好きである。奇跡を起こすことが生きることだとも思うし、奇跡のような人生を送りたいと思っている。今自分がこうして生きていることの奇跡も理解しているからこそ奇跡に感謝している。そう思うと、奇跡に対する素直な愛情が奇跡を生むのかもしれない。


東京でサラリーマンになる

 初出版のために奮闘しながらも、東京での生活は待ったなしである。
 僕は生きるために選択を迫られた。
 1 港区の億ションに妻両親と生活し、仕事をせず、作品を作り続ける
 2 下町に引越し、妻と二人で生活し、仕事をしながら、作品を作り続ける
 制作の時間が1秒でも長く欲しい僕にとって、困難な道は2なので2を選んだ。困難な道を選ぶ60%、楽な道を選ぶ40%の割合が僕には心地がいい。
 次はどんな仕事かの選択である。
 1 アルバイト
 2 サラリーマン
 どうせ日本で働くなら困難な仕事をしてやると決意し、2を選んだ。理由は、
 1 日本の実態を体感するため
 2 本物の日本人の芸術家として、本当の自由を知るには、
   現状の日本の「不自由」を知らなくてはならないため
 最初で最後のつもりで、大都会東京で正社員として就職することにした。早速リクルート会社に登録し、周りの友人に求職中だと伝えた。ここまで来ればあとは流れに身を任せる。
 「親切な人材派遣会社あったから紹介するよ」
 友人から返信がきた。流れに身を任せ、その通りに動いていく。これが人生の面白さ。お天道さまの計らい(天候、運、出会い、タイミングなど)は疑わない。
 そして出会った会社は月収35万円の内装業社だった。デパート内の化粧品会社の店舗を設営する仕事を任され、時は東京オリンピック直前ということもあり多忙を極めた。
 夜中2時まで残業の日が続いたり、昼と夜の生活が逆転したり、今日東京 → 明日沖縄 → 明後日北海道 というスケジュールの時があったり、四六時中仕事をしないといけない仕事量だった。芸術なんて考える暇もなかった。絵を描く体力も残っていなかった。芸術家としては最大の「不自由」だった。
 あまりに多忙で、自分で決めたことなのに「なんでこんな仕事ばかりしなきゃいけないんだ!」と自暴自棄にもなったが、大都会東京でサラリーマンとしてバリバリ働けている自分に惚れ惚れすることで精神のバランスを保っていた。
 ニューヨークで買ってきたYシャツと、バンコクでオーダーで作ってもらったスーツを着こなし、1年間で全国12店舗の改築を任され、それを全て完璧に納品し、辛口コメントの上司に「優秀だね」と褒め言葉を頂いた。そのお褒めの言葉を長く噛み締め、仕事を器用にこなす自分を自画自賛することで、心のバランスを保っていた。
 同時に、心の中では社会や働き方に対する疑問や不満は大きくなるばかりだった。

 仕事の出張で全国を飛び回っていたおかげで、全国の本屋で自分の本が陳列されているのを見れたことも時の運が味方してくれた。本屋の店員に話しかけたり、ポップやサイン本を書かせてもらったりしたのも、作家の一歩を踏み出したような気になって楽しかった。「こうやってみんな作家のステージを上がっていくんだなあ」とニヤニヤしながら本屋を後にしていた。この作家体験も、僕の自信と勇気になった。


パトロンに出会う

 サラリーマンと出版に奮闘している時、千葉でレストランを経営する桜木社長に出会った。桜木社長は僕を気に入ってくれ、食事をしながらある提案をしてくれた。
 「俺は陽介が気に入った! パトロンになってやる。
  月20万円あげるから、好きに思いっきり生きてみろ」
 「YES! お願いします!」
 と即答したが、食事後「一旦家に持ち帰って考えます」と伝えて、冷静に考えてみることにした。
 「35万円の不自由サラリーマン」か「20万円の自由アーティスト」という選択がやってきた。
 「20万円だと生活キツイけど、そっちの方が面白そうだからやってみよう」ということで、今回は困難さよりも楽しさ優先で選択をした。
 アーティストとしてパトロンが現れてくれるなんて夢のようだった。でもなぜ僕に?
その意味を冷静に分析していると、3年前からある種を心の中で育てていたことを思い出した。

 (3年前)
 「芸術はどうしたってお金がかかる。僕が仕事をして稼ぐお金では足りない。そもそもお金のために80%の時間を取られるのはもったいない。芸術家にはパトロンがいる。パトロンいないかな~、誰かいないかな~、そんな出会いしたいな~」
 この種が花開いた瞬間だった。
 種をまき、花を咲かせるのが人生の醍醐味。想像するだけでワクワクする種をたくさんまこう。田んぼに種をまくように、自分の希望の種をどんどん心の中にまこう。
 「また理想の現実を紡ぐことができた、ヨッシャ! さすが俺!」
 自分の全てに感謝をし、ガッツポーズした瞬間だった。
 「1自信ポイント」ゲット。
 想いが現実になった時は自分を最高に褒めてあげよう。
 仕事の区切りがいいところで会社に辞表を出し、夢のパトロン生活がスタートした。
 好きな時間に起き、公園で瞑想をし、執筆と絵画制作に専念し、妻の美味しい料理を頂く。理想の生活が始まっていった。
 その生活のおかげで作品を量産することができるようになり、都内で過去最大規模の絵画展覧会を開催することができた。過去10年間でできた220作を一挙に展示し、皆さんに楽しんで頂いてとても嬉しかった。その体験は自信になった。
 そんなパトロン生活をしばらくしていたある夜、酔っ払った社長から電話がかかってきた。
 「恥ずかしい話なんだが、妻が鬱で心身疲れている。
  妻の代わりに神楽坂にあるジェラート屋の店長を陽介がやってくれないか?」
 「・・・分かりました、やります。明日からやるので奥様をすぐに休ませてあげてください」
 「感動するな・・・ありがとう」
 社長は電話越しで泣いていた。


ジェラート屋店長

 さて、今度は「ジェラート屋の店長」という出番がやってきた。
 自問自答中
 「どうする?」
 「そりゃオメー、役割を完璧にこなして、最高にクールな男になるだけっしょ!」
 ということで、全力を出した。
 名刺の肩書きは「海外事業部 Art Director」
 会社のロゴ、メニューデザイン、ホームページ、写真撮影、SNS宣伝などを制作。
 僕が独学でやっていたパソコンスキルとアートスキルが、お金に変わり、社会と繋がれた体験で、それはとても気持ちがよくて、嬉しい経験だった。
 そして店長をやってみた。
 「陽キャの人苦手なんです」「言い方が怖いです」などと、従業員に言われたりしながらも、アルバイトの面接をしたり、従業員にアメとムチの付き合いをしたり、スケジュールを作成したり、店長としてもやっていける自分にまた惚れ惚れしていた。1自信ポイントゲット。
 ある日、社長から電話が。
 「バンコクとニューヨークにジェラート屋を出したい。
  まずはバンコク店のオープンを手伝ってくれないか?」
 「喜んで!」
 ビジネスクラスでバンコクに行かせてもらい、一流ホテルに滞在し、バンコク店のオープンを手伝ったり、有名デパート内でポップアップストアを出したり、どれも素晴らしい思い出となった。
 過去バンコクに3年住んでいたおかげで、タイ人とのコミュニケーションもスムーズにでき、「陽介さんは忙しいのに、みんなに気を配ることができて素晴らしいです」と、タイ人スタッフの声を聞いた時は嬉しかった。1自信ポイントゲット。
 さまざまな方面で今回のジェラート屋タイ店オープンに貢献できた。
 そしてバンコク店が軌道に乗り始めたので、次はニューヨーク店。
 現地の視察を兼ねて、2週間ニューヨークに行かせてもらうことになった。この出張が、大きな感動に出会う旅になるとはつゆ知らず。
 ビジネスクラスで優雅な空の旅をし、マンハッタンの有名なジェラート屋を食べ歩き、毎晩有名なレストランで食事をし、お店の場所を決めるために街中を歩いたり、空き物件を見つけては不動産屋に電話をして家賃を聞いたりという、半分仕事で半分旅行の楽しい旅だった。
 ジェラート屋店長としての仕事はちゃんとやりつつ、実は社長には内緒のニューヨーク出張のもう一つの目的があった。
 それが、『路上で絵をプレゼントする「無料絵画」という活動をニューヨークでやってみたい!』 という種を花咲かせることだった。



続きはこちら




出版企画書はこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?