なぜスマホ習慣をミニマイズしたのか
2021年最後の週末。ゆっくりマックカフェを楽しんでいます。今日の記事では、今年1年をミニマリスト視点で振り返ってみようと思います ※書きすぎて原稿用紙10枚分くらいになりました。お時間ある方、お付き合いください。
プライベートの変化で振り返ると、習慣に大きな変化がありました。
ミニマリストを意識しだした頃を「モノを手放した」期間とすると、今年は「習慣を見直した」1年です。
ミニマリストというと、所有物を語る記事が多いです。パソコンは何を持つべきか?布団かベッドか?腕時計はやはりデジタルウォッチか。といった具合です。私も買ったもの、手放したものを記事にすることがよくあります。
しかし、自分を不自由にするのは目に見えるモノだけではありません。
「いちばん大切なものは目に見えない」とは星の王子様の言葉です。目に見えるモノだけではなく、行動、習慣、考え方にも意識を向けた。そんな年でした。
では、どういった習慣(依存)を手放したのか。皆さんの身近にあるものから順に3つお伝えします。
1 スマートフォンに使われる習慣
まずは皆さんの手元にある端末、スマートフォンです。これ自体は便利な道具に過ぎませんが、この過剰な便利さは私達の行動をコントロールしています。いまや人を動かすリーダーそのものです。
昨今出版された本ですと、「スマホ脳」「デジタルミニマリスト」といった本が詳しいですね。特に「スマホ脳」は新書として2021年ベストセラーになったそうです。テレビ番組にも著者のアンデシュ・ハンセンさん本人が出演されていましたね。
どちらの本でも共通して書かれている問題点は、集中力の欠如です。
数分ごとに着信や通知を気にしてしまい、1つのことに心を向けられなくなっている事実を、大規模な調査データを基に指摘しています。
自分の生活を振り返ってみると、当てはまることばかりでした。
仕事はもちろんのこと、プライベートでも気づけば右手にはいつも端末を手にしています。デスクワーク中、会議中も常にチェック。手放せるのは、商談中か映画館の中。あとは寝る時くらいです。
しかし、それも枕元まで同伴していたので、寝る直前までいっしょ。家の中で一番時間を共にしているのは、子供でも妻でもなく、大量生産されているIT端末でした。
長時間の利用による集中力の欠如、目の疲れ。画面を見ながらなんとなく過ごす、時間の浪費は明らかでした。
上記の本によると、国単位ではスマートフォンの普及とともに、うつ病の発生率が急上昇したそうです。自分がそこまでに至っていないのは、幸運だと言わざるおえません。
そういった訳で、スマートフォン依存症をまず手放しました。具体的な方法は様々ありますが、すぐに試みた改善は次の3つです。
(1) 画面を白黒にしました
鮮やかな画面は人の意識を反射的にひきつけます。見たくないものにも心が向いてしまいます。
ディスプレイから色彩をへらすことで、造られた鮮やかさよりも、目の前の実生活に意識を向けるようにしました。
(2) スマートフォン自体を最小にしました
端末を楽天ミニに変えました。
本当はスマートフォン自体を手放したい。しかし、昨今のIT化の流れの中では、困ったことになる事態が容易に想像できます。ですのでスマホ自体の断捨離は定年後までガマンです。
楽天ミニの良いところは「使い勝手が悪いところ」一見デメリットの部分が、かえって生活への集中力を高めるメリットになっています。
画面が小さいため、文字は読みづらい、打ちにくい。性能もよくないので、アプリゲームにも向きません。ですが、この不自由さがよかった。スマートフォンが生活のリーダーから、1つの道具に戻る結果になったのです。
長く使えない。性能が悪いから依存を誘うようなアプリも目を引かない(そもそも動かない)。それでいてスマートフォンならではの、最低限のインターネット検索や、電子マネーが使えるのです。
本当の意味でユーザビリティーを叶える端末だと言えるでしょう。
メーカーが「本音では」売りたいと思っているモノやサービスと、ユーザー一人一人にとって「本当に」必要なそれは一致するとは限りません。
さらにこの端末のサイトに飛んでみると、販売はすでに終了しているようです。この矛盾を自明しているよい事例ですね。
(3)通知をすべてオフにしました
スマートフォンが私の生活を邪魔しないように、通知を切りました。電話の着信を除き、自分でアプリを開くまでは新しい情報やお知らせが届かないようにしています。
自分の意識を1つのことに集中できること。これは、カンタンなようでいて、意外に難しい。スマートフォンの普及でほとんどの人が失っている習慣です。自由な時間を取り戻すために、本当に1人で没頭できる時間づくりが大切です。
2 毎日のニュースに流される習慣
次に手放したもの。それはニュースです。ネットニュースのブラウジングと、日刊紙の購読を極力ゼロにしています。なぜか?これもスマートフォンと理由は同じです。時間と意識を細切れにせず、集中力を高めたいからです。
ニュースは意識を分散させてしまう、というと疑問に思う方も多いはずです。別に5分ごとにニュースは見ていない。朝、昼、晩にテレビやスマホでニュースを見ている程度だよ、という反論です。
今の私の視点では、それは多すぎる。と思っています。自分にとって大事な情報は必ずしもニュースや新聞に載っているとは限らないからです。むしろ、見つけられる可能性の方が低いでしょう。
職場の同僚の心配事はなんだろうか?遠く離れている家族が今気にしていることはなにか?自分にはとても大事なニュースでも、それでいて他の人にとっては話題にならないことは、あげればキリがありません。
このことは以前一度記事にしましたので良かったらご一読ください。
もちろん、自分にとって大事なことは家族や同僚の話題だけではありません。政治経済、新たなITサービスといった話題も仕事に関係するときがあるでしょう。
ですが、その場合にはニュース・新聞では足りないのです。本当に仕事に活かしたいのであれば、
「何があったのか」(事実)だけではなくて、「なぜそれが起きたのか」(原因)や、「今後どのような影響があるのか」(発展)、「あの知識人はどのように捉えているのか」(意見)まで、より深い考察が必要です。
ニュースや新聞は、間を明けずに読者に情報を伝える必要があります。また、紙面も限られるため、本や雑誌に比べると考察部分が浅くなりがちです。
また、時間を空けないと、その真偽がわからないことも多いです。私より遥かに広範な知識をもったジャーナリストも、その日その場の判断だけでは、正確に未来を予知することは難しい。より正しい情報を得たいなら、ある程度時間をかけた情報程有用です。
このことで、私の経験を少しお話しさせてください。
5年ほど前、海外投資を斡旋する会社と投資契約を結んだことがあります。新たに始まったサービスで、その当時個人では契約できなかった海外の投資信託に直接拠出できるという画期的なものでした。ある新聞でも特集記事で話題になるほどです。
ところが、その会社が国内の金融法に抵触していると大問題になったのです。曰く、リスクを説明せずに「必ず掛け金が増える」と広告を出した誇大広告。海外の投資に関する国内法に抵触したといった内容です。
そして、このニュースを一面で目にしたのも、以前と同じ新聞でした。
自分たちで宣伝した新サービスを、同じ口でバッシングしている記事を読んだ時に、日刊ニュースに対する考え方は大きく変わりました。
そうか、ニュースは今その時を切り取る。けれど未来を語るには、時間も文字数も、責任も不足しているのだと。
自分が必要としているテーマが分かっているならば、比較的不確かなニュースに目を向ける時間を、より考察にすぐれた別のメディアを活用したい。これが今の考えです。
直近の例でいえば、コロナです。
「本日、岩手県のコロナ患者は0名です」という情報は、あまり必要でありません。0名が、今後どうなるのか?なぜ0名なのか?見通しはどうなのか?それを、門外漢ではなく、専門家の言葉で、端折られることなく読むことが誤解を避け、正しい判断を身につける上で大切です。
現状ですが、朝の余暇が読書、学習の時間にシフトしてきました。手に入れる情報も、無関係なニュースから自分に関係がある知識に近づいています。当然ですね。テーマを自分から選んでいるのですから。
ちなみにニュースを手放すという考え方は、こちらの本に多分に影響を受けました。
ニュース記事で生活を変えたことはありませんが、読書を通じて行動が改善されたことは人生で何度もあります。
これも、ニュース断捨離を決めた理由の1つとしてあげておきます。
3 新しいものに流される習慣
最後に、新しもの好きという性格を手放そうとしています。
昔からある言葉でいうと温故知新(古きを振り返ってから、新しいことを知る)という意味になるでしょうか。
30代までは、新しい商品、サービスにすぐに飛びつく習慣がありました。マーケティング用語でいうところの「アーリーアダプター」と呼ばれる客層です。
アーリーアダプターは、新商品が一般に普及する前に、まず手に入れたい人たちです。また、人によっては、その使い勝手をTwitterやInstagramに投稿したいと思っています。そして、彼らのテキストを読んで、これは良いものだとお墨付きがつくと、「マジョリティー(大多数)」の層が購入を始めます。
例えば、VR機器を率先して購入した人たちや、ナンバーレスクレジットカードを契約した人、電気自動車に買い替えた人たちはアーリーアダプターにあたるでしょう。
では、どうしてアーリーアダプターであることを手放そうとしているのでしょうか。
一番の理由は、私が勘違いをしていたことに気づいたからです。すなわち、
「新しければ新しいほど、自分にとって良いモノ、サービスである」
という間違いです。
日本に一億人以上が住んでいる中で、1つのモノ・サービスが生まれたとしても、一億人全員にとって良いモノとは限りません。
こう書くと、至極あたりまえのように思えます。しかし、過去の私はそう思ってはいませんでした。
今持っているパソコンよりも、今年出たモデルのほうが役立つに違いない。毎年使っていた手帳よりも、今年新たに発売された手帳のほうが使いやすいはずだ。10年前の新書よりも、今月出た新書のほうが真実に近い情報を教えてくれる。そんな思い込みをもっていました。
勘違いに気づかせてくれたのは、これも読書です。特定の一冊というよりも、古典と呼ばれる世界の名著の数々です。
命の短さについて、寛容論、中庸、大学、老子、カラマーゾフの兄弟・・・
どれも生き方の指針になる素晴らしい本ばかりです。しかもその半数は今から2,000年以上前、日本で水耕が始まる前に書かれている。こう考えると、新しいから受け入れる、古いものは古臭いからと毛嫌いする思考が、いかに偏ったものの見方だったか、恐縮してしまいます。
新旧を良し悪しと混同しない。むしろ、過去幾人もの評価を受けてきた古いモノとは違い、まだ良し悪しがわからない新しいモノは少し距離をとって受け入れていきたい。これが今の考えです。
先程の触れた商品を引用するならば、
パソコン、新しいモデルでどんな機能が追加されたのか。そして自分はその機能を必要としているのか?
手 帳、日々の予定をどんなフォーマットで管理したいのか?今の手帳はそれを叶えているか?叶えているなら、わざわざ変える必要はない。
新 書、10年前の本は、今読み返しても通じるほどモノゴトの本質を捉えているか?その時代の風俗に捕らわれていないなら、出版年は関係ない。逆に、時事ネタを浅く拾った本だとしたら、今年出た本だとしても読む価値は薄い。
モノゴトの良し悪しを決めるのは、新しい、古いという時間のものさしではなく、ニーズや価値観といった自分のものさしです。
この考えに基づいて生活していると、日々メディアから流れてくる、新機能を備えたパソコンのCMや、有名俳優を起用した、新車の広告記事。当社比200%効果を実現した洗剤の販促にも欲求が起きにくくなる。心が乱されなくなります。
その商品が本当に価値があるのか。決める権利が自分に取り戻されているからです。
以上、今年手放した習慣を3つお伝えしました。
スマートフォンに流される習慣
ニュースに流される習慣
新しいものに流される習慣
どれも、一見生活を豊かにするように見えて、その実、付き合い方によってはあなたの自由を奪ってしまう鎖です。
来年は見えない不自由に苦しまない、より良い1年をお過ごしください。
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