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No.66「誰に向けての記事なのか」noteで大切なことは何か

目につく記事内容

最近はスキマ時間があれば、自然とnoterさんの記事を読んでしまう習慣が身についてしまって、自分自身で「こりゃーアブナイ」と感じている今日この頃。

noteを始めてから早2か月経過。
自分で黙々と記事を書くとともに、他のnoterさんの記事を沢山読んできたが、最近よく目に付くのが、

ネタがない
書いても満足のいくスキの数がもらえない
フォロワー増えているのに比例してスキの数が増えない

のようなお悩みのnoterさんがちらほら見受けられる。

自分はまだまだひよっこの身なので「note攻略!」的なテクニックなんてないし、そのあたりのことはカリスマnoterさんたちが山ほどいらっしゃるわけで、駆け出しの自分が言うのもおこがましいが・・・その点についてあえて書いてみようと思う。


記事の「先」にあるモノが見えているか

まず、自分のことで考えてみると、始めは「自分」のための記事、その後は「読者」のための記事に考え方をシフトしており、自分の中では、「まず自分の記事を読者に届けたい。スキやコメント、フォローは後から付いてくれば良い」と考えており、仮にスキやコメントがなくても落胆しない(さすがに0なら泣くかも)。
その記事に対して共感するかどうか、興味が湧くかどうかは「読者」に委ねられており、「自分」がその結果を見て一喜一憂するものではないからと考えが根底にある。

一方、悩みとして「ネタがない」「書いても満足の行くスキの数がもらえない」「フォロワー増えているのに比例してスキの数が増えない」のうち、今回は「書いても満足のいくスキの数がもらえない」に焦点を当てようと思うが、これまで書いてきた記事について、

記事の先にあるモノがしっかり見えているか

ということを意識しているだろうか。
書いても書いてもスキやコメント、フォローばかりに気になってしまって、疲れ切ってしまってはいないだろうか。

その記事は「誰に対しての」記事なのか

記事内容について、自分がとやかく言うつもりはないし、むしろ自由に表現でき、自身が思っていることをつらつらと書けるのがこのnoteの最大の利点だろう。自分を奮い立たせる記事、世の中等に対する怒りの記事、悲しみを乗り越えるための記事・・・多種多様な記事が集まっているnoteという世界は本当に素晴らしいと思う。

しかし、「記事を書いたこと」と「読者から共感や興味を得られること」は別と考えた方が良い。

例えば、「悲しみを乗り越えるために書いた記事」について、書いて心の中の悲しみを吐き出すことにより自身がとてもスッキリし満足を得ることになる、それはとても良いことだが、さらにそれを他人である「読者」からの「共感」(=沢山のスキやコメント、フォロー)を期待することは、自分が果たして「自分」に対する記事を書いたのか、「読者」に対する記事を書いたのか、その線引きが曖昧にはならないだろうか。

この場合は、弱さを吐露した記事を書いた時点で、そのnoterさんの目的は達成したと思った方が良く、さらに読者へ「共感(同情)」としてスキ数まで求めることについては、いささか「?」と思わざるを得ない。

この傾向は、スキ数・フォロワー数を気にしすぎるnoterさんが陥りやすい罠だと考えるが如何だろうか。


その記事が「誰目線」で書いたか、今一度考えてみてほしい

結局長々と書くだけでまとまりがなくなってしまったが、記事を書いて掲載する前に、記事の先にあるモノが明確になっているかどうか、特にスキやコメント、フォローを気にしているnoterさんは一度立ち止まって考えてみては如何だろうか。

本人が時間を割いてまで書いた記事について、単に数だけで記事の価値を判断するのは非常に勿体ないと思う。「それだけ書いたんだから求めて当たり前」かもしれないが、まずは記事を書き切った自分自身を褒めてあげて欲しい。

そして、数に囚われて方向性を見失わないよう自信を持って皆の前で公表してほしいと願っている。

(「あなた最後まで何様のつもり?」と自分でも思っているが書き切った)


今日のイチマイ
妻の写真を生成AIアプリで
家族間で一番物議を醸した似顔絵 「誰?」笑


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