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【連載】「こころの処方箋」を読む~2 ふたつよいことさてないものよ 

「ふたつよいことさてないものよ」は、河合隼雄を代表する言葉といってもいいだろう。河合はどうやらこの言葉を気に入っていたようで、河合隼雄ファンの間でも印象的な言葉として知られている。

端的に言ってしまえば、禍福のバランスの話なのだが、そこにどのような世界観を見出すかがおもしろいところである。


私が親しんでいるエピソードに、塞翁が馬の話がある。「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」ということわざにもなっている。

もとは漢文で書かれたもので、塞(国境際の砦の町)に住む翁の話である。この翁は「術」をよくし、いろんなものを見通していたようである。そのためか、一見わざわいのように見えるものも、良いことにつながることもあるし、一見良いことのように見えるものも、わざわいに転じることもあることを、翁は知っていた。

このエピソードの肝をどこに見出すかもまたおもしろいところである。「禍が福に転じることもある」「福が禍に転じることもある」と捉えるもよし。「何が禍で何が福かは安易に判断できない」と捉えることもできる。または、「世界は禍と福とのバランスによってできている」と捉えることもできるだろう。


漢文の出典は「淮南子(えなんじ)」である。道家思想の影響を受けた書物なので、どこか巨視的な捉え方をしているようにも思える。この世界が禍福の微妙な取り合わせで成り立っているのではないか。

禍福を一本の縄に例えたのは滝沢馬琴だったか。ともかく、この世界を巨視的にみたときに、禍福というのはそのどちらもがバランスよく存在している、もしくは表裏一体、もしくは分別不可能なものなのではないか。そんな世界観を感じさせる。

この話は後に、日本の「十訓抄(じっきんしょう)」でも採用されている。しかし、こちらでは教訓を伝えるエピソードとして用いられており、この翁のような姿勢を推奨している。つまりは、深く物事を見通して、ジタバタと騒ぐな、という姿勢である。世界の仕組みという巨視的な視点よりも、個人のたたずまいに焦点が当たっている。

このように、塞翁が馬のエピソードは、この世界の禍福のバランスを論じたり、それを踏まえた個人のたたずまいを論じるのに使われている。


「ふたつよいことさてないものよ」という言葉もまた、このエピソードに通じるものがある。

しかし河合は、さらにこの言葉の「さてないものよ」に注目する。「さてない」ということは、「絶対にない」ということではないというのである。

この世界には、「ふたつよいこと」もまた、時折訪れる。または、「ふたつわるいこと」も訪れるというのである。この世界の禍福がちょうど半分ずつ、バランス良く訪れるということもまた、考えにくいものだ。そもそも、ちょうど半分ずつというのが「バランスの良い」という状態と捉えること自体が、この世界を単純化していることにもなりかねない。

それでも、河合の思考はバランスを意識することに進んでいく。このバランスを心に留めておけば、過度に禍福に右往左往せずとも良いというのだ。これは、十訓抄の教えに通じる。


このような世界観を表すときに、「人間万事塞翁が馬」とか「禍福はあざなえる縄のごとし」とかいろんな言い方がある中で、河合が「ふたつよいことさてないものよ」を選んだことが興味深い。

言葉は、同じものを表現するのにも違った言い方をすることがある。違った言い方をするということは、そこに違いがあるということでもある。

「リンゴ」と「アップル」は違うのだ。「大判焼き」と「今川焼き」と「回転焼き」と「御座候」と「おやき」と「あじまん」は違うのだ。

その世界観には共感するところが多いものの、もはや「ふたつよいことさてないものよ」は河合の専売特許のような気がして、とても自分の座右の銘にはできそうにない。





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