見出し画像

【連載】「こころの処方箋」を読む~3 100%正しい忠告はまず役に立たない

酒飲みに「酒をやめろ」と言うことほど無茶なことはない。
酒を飲みすぎることが自分にとって良くないことはわかっている。
酒をやめるためにやったほうが良いこともわかっている。
それでもやめられないのだから、「酒をやめろ」と言われてもどうしようもない。


同じようなことはいくらでもあげられる。

「遅刻をするな」
「タバコをやめろ」
「ゲームをするな」
「宿題を忘れるな」
「運動しろ」
「本を読め」
「早起きしろ」
「勉強時間を増やせ」

しまいには、「恋人を作れ」「結婚しろ」という、自分だけでは明らかにどうしようもないことまで言うものもいるのだから、閉口してしまう。


私個人は、「遅刻をするな」にずっと困ってきた。
「遅刻をするな」と言われて遅刻をしないなら、遅刻していないのだ。
せめてその背景にあるものの一端でも説明させてもらえればと思うことが多々ある。
しょうがないから、「ちょっと車が混んでて」とかなんとか、あるようなないようなことを言ってごまかす。本当はもっと繊細でパーソナルな理由があってもだ。
そんな言い訳すらさせてもらえないとなると、もうひたすら「すみませんでした」と謝るしかない。


こうしたことは、それが「100%正しい」とその人が思っているときに成立する。だから、そこに「30%くらいは正しくないかも」が生じると、そこまでの無茶な物言いはしないものである。

例えば、遅刻してきた相手が明らかに体調がわるそうなら、そんなことは言わないものである。「もしかしたら体調がわるいのかもな」という気持ちが少しでもあれば、「遅刻するな」という言い方にはならないはずである。

つまりは、この「100%正しい」ということが、100%正しくないことが大きな原因なんじゃないか。

「酒をやめろ」には、どこかに「酒をやめるまではしなくてもいいんじゃないか」、「遅刻するな」には、どこかに「遅刻しても仕方がないこともあるんじゃないか」という部分があるんじゃないか。それなら、「100%正しい」なんてことはなくなる。


河合は「非行」「シンナー」「煙草」を例にあげているが、これらは今の教育や医療の感覚では、ただ「やめろ」と言うのはちょっと乱暴なケースだろう。

ある種の非行状態にある場合、その仲間関係が本人の生存に不可欠であったり、避難所になっているケースもある。もしくは、自分でもコントロールできないような暴力的な状況にあるのかもしれない。

薬物依存については、その薬物を即断つのではなく、少しずつ量を調整しつつ、その背景にある心理的な問題を支援していくことも大切である。

そんなふうに考えてみると、「100%正しい忠告」を言うことが無茶なことがよくわかる。

個人的には、友人に「ジブリ映画を観ていないのは良くない。絶対に観るべきだ。」と熱く諭したことを若干後悔している。「絶対に」なんてことはないのに、つい使ってしまった。結果その友人はジブリ映画にちゃんとはまってくれたのだが、我ながら無茶な物言いをしたと思っている。


河合は後半で、ある人に役立ったことが、他の人には役立たないこともあることを述べている。これもまた、わかっているのにやってしまうことの代表例だろう。

例えば受験指導をしていると、以前指導していた生徒に対してうまくいった方法が、目の前の生徒に対してもうまくいくと思い込んでしまうことがある。

以前同じような成績の推移をしていた生徒がいたことを思い出し、目の前の生徒も同じような結末になるんじゃないかと思ってしまう。

そんな雑な分析で合否を予言されてはたまったものではないが、けっこうこの経験値に頼った進路指導はやってしまいがちなのである。

それは、自分の価値観で進路指導をしてしまっているということでもある。これでは、目の前の生徒の可能性をつぶしてしまいかねない。


一方で、そのような経験によって、ある程度助言を考えていくことも臨床の場では役立つこともあるので、全く否定することもできないとは思う。

教育のプロはそのような経験と、具体的なデータや志望校を中心とした入試の傾向、流れなどをもとに指導していく。その際に、以前の生徒と安易に比べないようにすることは、留意点として専門家が気を付けているポイントでもある。

ところが、生徒や保護者は、ついつい自分の身の回りの「あの人はこうだったから」に引きずられがちだ。

親戚のお兄ちゃんがこの大学を目指していたときはこうだったから。
友達がこの大学を目指しててこの塾に通っているから。
姉がこの大学に通ってこうだったから。

そういった何千何万分の一のケースが、とても大きな影響を与えてしまっていることは多々ある。そのようなバイアスを踏まえて助言するのが、教師の専門性である。


今回の話の中で印象的なのが、「己を賭ける」という言葉である。「100%正しい忠告」も、「同じ方法の繰り返し」も、己を賭けていないという。

カウンセラーはうんうんと話を聴いているだけだと思っている人も未だにいるかもしれないが、心理の専門家というのは、己を賭けているのである。裏を返せば、己を賭けもせずに話をうんうんと聴いているような者は心理の専門家ではない。

「傾聴」という言葉がどんどん安っぽくなってしまっているが、かつてはもう少し己を賭けた行為を指していたのである。もはや、己を賭けもしない「聞く」行為すら失われているから、「傾聴」が安易に使われているのだろう。

そんな中、有象無象のカウンセラーや教師が跋扈するのである。





この記事が参加している募集

サポートしていただければ嬉しいです!