スコットジョプリンとラグタイム
ラグタイムとその特徴
ラグタイム(Ragtime)という音楽を聴いたことがありますでしょうか。
おそらく聴いたことがない、という人が多数に及ぶと思うのですが、おそらくメロディを聞くと”これ知ってる”となる機会のが多いくらい浸透している音楽ではないかと思います。
19世紀初頭にできた音楽でブルースと並びジャズのルーツのひとつと言われている音楽です。
大元は軍隊で演奏されていたマーチであり、リズムの特徴もラグタイムの大きな特徴であるシンコペーションを除くとマーチである事がわかります。
当時はアメリカへ大量のドイツ移民が流入しブラス演奏の人口が増え、また南北戦争などによりミリタリー・バンドマーチは当時最もポピュラーな音楽でした。
17人前後による大編成のブラスバンドは2万組以上あったそうです。
現存する中でラグタイムの特徴が見える出版作品はベン・ハーニー (Ben Harney) の良いワゴンだったお前も壊れた(You've Been a Good Old Wagon)でした。
ハーニーは白人のミュージシャンでしたが自分がラグタイムの創始者だと言っていたそうです。
ラグタイムという言葉の語源はラグ(ボロ切れ、ゴミ拾い)などの意味やアフロ・アメリカンのスラングでダンスホールといった意味があり、またラグ「バラバラに(ラグ)された拍子(タイム)」という意味で言われていたり様々な諸説があります。
奴隷解放とキング・オブ・ラグタイム
スコット・ジョプリン(Scott Joplin)は1868年ごろテキサスに生まれ、父は元奴隷、母は自由人1863年に奴隷解放宣言をしていたリンカーン大統領の暗殺があり、その後就任したアンドルー・ジョンソン大統領は戦争と様々な要因で荒れた南部を立て直しのため、変わらずアフロ・アメリカンの人々を奴隷に近い立場に止めるための「ブラック・コード」と呼ばれる法案などを制定しました。これを見た連邦議会は反発し、1866年に人種や肌の色を超えた平等を保証する憲法修正14条が成立、その秋にジョンソン大統領は選挙で惨敗し、連邦議会は更に1870年に選挙権を認める憲法修正15条を成立しました。
元奴隷は市民になり、投票権を得る事ができたが識字率の低さが問題になりました。
しかし、それも開放民局、共和党推進派の政治結社ユニオンリーグ、黒人教会の努力で識字率はみるみる上がり、1869年から1876年までで14人の黒人下院議員と2人の黒人上院議員を当選させました。
このような急進的な再建政策は激しい反発を招き、奴隷に支配されると感じた白人たちは悪名高いKKK(クー・クラックス・クラン)を結成しテロ活動を行うなどしました。
1875年当時アフリカン・アメリカンの社会では激しい差別が行われており、その社会にとって教育こそが重要という考え方がありました。
スコット・ジョプリンの母は何かの助けになればとバンジョーを上手に弾いていた彼に音楽の教育を受けさせようと、生活費を削って教育を受けさせていました。
若かりしスコット・ジョプリンはそうした経緯があり、売春宿などでピアノを弾いていたようです。
このような状況下の中、ジョプリンの夢は偉大な芸術家として認められる事でした。
音楽によって人種や階級というハンディを克服し、社会の主流派の一員として認められるようになるはずだと信じていました。
このように、白人による迫害と奴隷解放にまつわる希望と絶望、このような状況におかれたアフロ・アメリカンがどのように行動するべきか、感情的な反応は反発を招き暴力の危険があり行き着くべきは品位を高め、白人社会に認められる事が大事という黒人指導者層の基本的な考え方でした。
ジョプリンはテキサスからセントルイスに移り住みプロフェッサーとして仕事をこなしていました。
セデーリアへの移住
ジョプリンは1894年、26歳の時に更なる仕事を求めセントルイスから同じミズーリ州のセデーリアに移住します。
ここにはメイプルリーフ・クラブ(Maple Leaf Club)と呼ばれるクラブがあり日々アフロ・アメリカンの人々が音楽を聴き、踊っていたダンスクラブでした。
ジョプリンの代表作にメイプルリーフ・ラグ(Maple Leaf Rag)という曲があります。このメイプルリーフ・クラブで弾いていたジョプリンがつけたとされていますし、クラブがこのジョプリンの曲の名前を使った、という説もあります。
ジョプリンはこのメイプルリーフ・クラブでの演奏の傍、ジョージ・R・スミス・カレッジ(George.R,Smith College)に入学し、話声と作曲の上級コースを学びました。
現在この大学は焼失し、記録も燃えてしまったようです。
ちなみにメイプルリーフ・クラブは黒人のクラブとはいえ上流階級の白人がたまにゲストとして招かれ、特別席からその様子を見物して楽しむようなこともあったそうです。
黒人のクラブではありますが不道徳な場所として忌避していたのは黒人教会でした。
メイプルリーフ・ラグを出版を担当していたジョン・スターク(John Stark)が出版したのは1899年。
このメイプルリーフ・ラグが出版されるとスコット・ジョプリンは売春宿のプロフェッサーではなく「アメリカ最高のピアニスト」「よく知られた作曲家」となりました。
これ以降ラグタイムダンス(Ragtime Dance)、スウィペシー(Swipesy)、サンフラワー・スロードラッグ(Sunflower Slowdrag)、オーガスタンクラブ・ワルツ (Augustan Club Waltz)など様々な曲をジョン・スタークとともに出版しました。
映画 スティング(Sting)でも有名なイージー・ウィナーズ(Easy Winners)、エンターテナー(The Entertainer)もこの時期の作品です。
セントルイス、ラグタイムとミュージカル
1901年にジョプリンはベル・ジョーンズ(Bell Jones)という未亡人と結婚します。
またセント・ルイス移っていた出版のジョン・スタークを追うようにしセントルイスへ移り住みます。
現在セントルイスにはスコット・ジョプリンハウス(Scott Joplin House)と呼ばれるミズーリ州の史跡があります。
ここはそのスコット・ジョプリンが当時の妻のベルと、ともに暮らした場所で当時そのままに再現されているそうです。
この、当時の時勢として高等教育を受けた黒人音楽家などが輩出されるようになります。
が、黒人の音楽家たちはミンストレル・ショーで音楽を作るようになります。
当時最先端をいっていた黒人音楽家だったウィル・マリオン・クック(Will Marion Cook)はヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim)にヴァイオリンを習い、作曲をドヴォルザーク(Antonín Leopold Dvořák)から習うという一流の音楽家でしたが、それでもコンサートホールから締め出されておりミンストレル・ショーで音楽を作るしかなかったということです。
後にニューヨークで活路を見出したウィル・マリオン・クックはクロリンディ(Clorindy)というミュージカルを後にヒットさせます。
このクロリンディに感化されスコット・ジョプリンはラグタイムのさらなる可能性として1902年にドラマカンパニーを結成しラグタイム・ダンスと呼ばれる作品を作っています。
セデーリアのウッズ・オペラハウスで初演され客の入りは悪かったそうですがダンスと歌は賞賛されました。
その経験を経た後、ウィル・マリオン・クックの成功、アルフレッド・アーネスト(Alfred Arnest)との会談で「タンホイザー」を知ったことによりワーグナーへの傾倒するようになり、音楽劇への制作意欲を更に上げゲスト・オブ・オナー(Guest of Honor)というラグタイム・オペラの制作をしています。
このゲスト・オブ・オナーはドレスリハーサル、セデーリアで5回公演した後、セントルイスからミズーリ州、イリノイ州、アイオワ州、ネブラスカ州、カンザス州を従業するツアーをする途中、代理人のバファイに収益を持ち逃げされてしまい途中から自腹負担でツアーを重ね、その後楽譜の入ったトランクを担保として奪われゲスト・オブ・オナーは再演不可能になってしまったという不幸に見舞われました。
ミュージカルのメッカ、ニューヨーク
20世紀初頭のニューヨークは今と変わらずエンタテイメントの首都であり成功者のためにある街でした。
ニューヨークでヒット作を作るというのは華々しい成功を意味します。
ニューヨークの音楽の中心地はブロードウェイと6番街の間、West 26thの一帯におびただしい数の音楽出版社が集まったティン・バン・アレイという場所がありました。
ラグタイムが普及した大きな理由に譜面の流通があります。
当時の出版社は「ソング・シート」「シート・ミュージック」と呼ばれるピアノの楽譜を商品にしていました。
1898年にウィル・マリオン・クックが手がけた黒人ミュージカルクロリンディの上演、1903年には同じくウィル・マリオン・クックが作曲しバート・ウィリアムズ、ジョージ・ウォーカーが主演したダホメにて(In Dahomey)が上演されヒットを飛ばしていました。
ニューヨークの黒人文化の中心地はハーレムだと言われていますが、ハーレムが活発になるのは1920年ごろです。
この当時の黒人文化の中心は、ブロードウェイ界隈の劇場街であり、テンダーロインと言われる歓楽街でした。
ラグ・タイムはから様々なヒット曲を出しました。
チャールズ・L・ジョンソン(Charles.L.Johnson)のディル・ピクルス(Dill Pickles)などは当時ミリオンセラーとなり、このジョンソンの曲は現在スリーオーバーフォー(Three over four)セカンダリラグタイム(Secondry Ragtime)と呼ばれる特徴がすでにありました。
ジョージ・ボツフォード(Goerge Botsford) ブラック&ホワイト(Black & White)、ユウディ・L・ボーマン(Euday.L.Bowman)12番街ラグ(12th Street Rag)などもこの当時ヒットました。
ハーレムのストライドピアノ
1920年ごろから隆盛したハーレムでは超絶技巧のストライド・ピアノという奏法があります。
このハーレムスタイルのストライド・ピアノの名手だったジェイムス・P・ジョンソン(James.P.Johnson)はニューヨークに素晴らしいミュージシャンがあふれた理由に
「ニューヨークのピアノはヨーロッパのメソッドが大きかった、ニューヨークの人々はコンサートやカフェでいいピアノ演奏に慣れていて、ラグタイムのプレイヤーもそれに見合う演奏をしないと行けなかった。
コンサートピアニストのオーケストラ的な効果や和製やコードのテクニックを学び豊かな響きと大きく広がった和声、重たいバスの音が大事でそれらを学ばなければならなかった」
と言っています。
ハーレム(Harlem)で隆盛したストライド・ピアノはジョプリンやその前に作られたラグタイムをもとに発展しています。
ベースと和音を行き来するそのスタイルの片鱗はラグタイムからもたらされたものでした。
それまでのシンコペーションを多用したアフリカのリズムとヨーロッパのこうしたメソッドが融合し花開いた場所がニューヨーク、ハーレムという場所でしょう。
1907年スコットジョプリンはニューヨークのブロードウェイに程近いWest 29thにあるアパートメントへ移り住みました。
1908年にスクール・オブ・ラグタイム(School of Ragtime)、フィグリーフ・ラグ(Fig leaf Rag)シュガー・ケイン(Sugar Cane)、パイナップル・ラグ(Pineapple Rag)
1909年にはサレス・メキシカンセレナーデ(Solace)、 プレザント・モーメンツ(Present Moments)、カントリー・クラブ(Country Club)、ユーフォニック・サウンズ(Euphonic sounds)、パラゴン・ラグ(Paragon Rag)などを立て続けに出版しました。
またこの時からオペラ「トゥリーモニシャ(Treemonisha)」を書き始めたそうです。
ラグタイムオペラの創作、トゥリーモニシャ
ジョプリンの晩年の目標はオペラの上映でした。
このオペラの舞台はアーカンソー州テキサカーナの市街地の北東、レッド・リヴァーから3.4マイルほどのどこかにあるプランテーションです。
そこに暮す奴隷が解放され、このプランテーションの主人である白人が去りその召使いだったネッドにこのプランテーションが任せられ、その妻モニシャとの間にできる子供との話になります。
1972年1月28日 ジョプリンの死後55年後アトランタ・メモリアル・アーツセンターで初日を迎えました。
1975年にはガンサー・シューラーのオーケストレーションを経て、ヒューストングランドオペラ一座で上演され、同年10月にはブロードウェイでも上演されました。
今きけるCDやDVDはこのヒューストン・グランド・オペラの物になります。
当時のプロフェッサー達やジェリーロールモートンなど、こうしたラグタイムの曲も当時流行っておりスコット・ジョプリンの曲はもちろん様々なラグタイムの曲を取り入れ、それがJazzへと発展していった模様です。
現在ではほとんど聞かれなくなったラグタイムですが、たまにテレビのCMなどで使われていたり、ふとした瞬間に聞くことができ、日本にも浸透しているのが伺えます。
Jazz番外編 Ragtimeについてでした。
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