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光と影(エッセイ)

光を浴びることだけがすべてではない。
光と影が合わさって、この世は世界は地球は宇宙は成立してしている。


私は小さい頃から歌が大好きで、夢は歌手になることだった。
しかし、大人になった今現在も夢は夢のままになっている。
今も「歌手になりたいか」と聞かれれば、「NO」という答えは嘘になる。
それは、自分が歌手になれなかった理由を今では理解できているから、なれなかった理由をクリアできるまでは、諦めたくないとも感じているからだ。

あの頃の私は純粋に歌を歌うことが大好きだからという動機もあったけれど、テレビや人前で可愛くカッコよく歌って、「光を浴びたい」、「私という人間をこの世に認めさせたい」、「すごい人だと思わせたい」という理由も同じくらい大きかった。
しかし、これは不純な動機だと今では思っている。
なぜなら、実際にアーティストとして歌っている人は、そのような理由で歌を歌ってはいないと気がついたからだ。
むしろ、自分のために歌うとか、自己顕示欲を満たしたいから歌うのではなく、アーティスト自らが生み出す歌詞には確かな愛が存在しているのだ。
その愛は、歌を聴く人へのラブレターのように沢山の愛が詰まっていて、人々の幸せを願うような愛が歌詞にぎっしりと込められている。
そしてそれはまるで、愛は愛で返ってくるかのように、まずはアーティストが愛を持って歌っていることで、聴いている人から「応援する」という形で愛が返ってくるという、愛の循環がアーティストとファンの間にはあるのだ。

私が歌手になれなかった理由はここだ。
つまり、愛を持って夢を追えなかった。
誰かのため、世のためではない。
ただ、自分のためだけのエゴという名の悲しい夢。
これでは、歌手になれたとしても聴いてくれる人は1人も現れない。
愛のない歌を歌っても、誰にも私の言葉など届くはずも響くはずもないからだ。
私が人々、この世、地球、宇宙に本当の愛を持てるまでは、歌手として存在することはできないと悟った。

じゃあ、「私はなんのために生まれてきたの?」
「なにを使命に持って誰かのため、世のためになるのだろう?」と考えた。
たどり着いた答えは「文章を書くこと」だった。
歌手と同様、文章を書くことでも「プロ」と呼べるわけではない。
多くの人に認知されているわけでも、愛されているわけでもない。
しかし、負け犬の遠吠えに聞こえるかもしれないが、「表に出て、光を浴びることだけが全てではないのだな」と気がついたことが最近あった。

私は数ヶ月前に心を通わせ合えるお友達を作りたくて、文通サイトで文通交換をしてくれる人を募集し探した。
そこで知り合った人に、まず手紙で自己紹介を書いた。
文章を書くことが好きだから、エッセイを書いていることや、歌うことが好きだからカラオケのDAMとも動画で歌を投稿していること、とにかく表現をすることが好きだから色々やっていると手紙に書いた。
すると、お相手から返ってきた手紙にはとても嬉しいことが書いてあった。
「自分の好きなことをされていて、とても刺激を受けました!」とか「(私の手紙を見て)私も自分の好きなことをやってみたい気持ちが大きくなり、○○の仕事をはじめました!」と書いてあったのだ。
私は自分の自己紹介を書いただけなのに、誰かの生活を人生を良い意味に変えられたことが、すごく嬉しかった。
「あぁ、人って人生って生きているだけで誰かの役に立てるんだ」と、なんだか今までは遠くに見えていた、自分の存在意味とか使命とか役割みたいなものが、急にすぐそこに、もうあったのだと気がついた。

プロと呼べるアーティストや作家は、表に出て多くの人に認知され愛され、確かに光を浴びることはできるけれど、表に出られない影である私も愛がないわけじゃない。
数は少なくても、それがたった1人だけだったとしても誰かの希望になることはできる。
そう、誰もが誰かの役に立ち、“誰かにとって”の光にはなれる。
それならば、光と影は同じ意味を持ち、表裏一体のように合わさって、同じ役割を持って成り立っていると言える。
この世に必要じゃない、意味のない存在はいない。
光にいる人も影にいる人も、みんな意味があって誰かのためになにかのために、ここにいるんだ。
そう思えたら、影にいる私の目の前も明るく見えるような気がした。





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