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うちの子は本が読めない

私は小さい頃から読書が大好きで、いつも本を手にしていた。親友も本で、恋人も本、困ったときの相談相手も本。とにかく生活のすべてが本だった。そのおかげか、国語の成績はずば抜けてよかったし、いまは文章を書くことを生業にできている。

だから、「子どもに本を読ませよう」とか「読書が豊かな心を育てる」といった、ここ最近の教育スローガン的なものにも納得していたし、「その通り! 読書こそ正義!」みたいな読書原理主義感覚を抱いていたほどだった。息子が、本を読めない子だと判明するまでは。

息子はADHD(注意欠陥多動性障害)と診断されていて、さらに先天的に文字を認識する能力が劣っているため、読み書きがとても苦手だ。だから本になんて興味がなく、「謎の記号が書かれている紙の束」と思っている節があった。

「本なんて意味がわからないし、面白くない」

息子からそう言われたときには、かなりショックだった。本が読めないことで、学校の勉強や社会生活において、かなりの困難が待ち受けていることが明らかだったからだ。

それに加えて、私の大部分を構成する要素である本を否定されたことで、自分自身にダメ出しされたような気分にもなった。しかも私は、息子が言うところの「意味がわからなくて面白くない」ものである本をつくっている立場でもある。

しかし、息子の言っていることは紛れもない「事実」なのだ。それは、「本の意味がわからず、面白くない人もいる」という事実。

そんな息子も、映画やドラマなどの映像作品は大好きで、ストーリーを味わい、登場人物の様子に一喜一憂している。音楽は日本語の歌詞のものは好まず、歌詞のないインストや外国語の歌を聴いて、「この部分の音がカッコいいよね」なんて言いながら楽しんでいる。……もしかしたら、これが読書が育てるものとされている「豊かな心」なんじゃないだろうか?

そんな息子の様子を見て、私の本や読書に対するスタンスがガラッと変わった。子どもに読書はさせるべきではあるけれど、義務じゃない。それに、豊かな心を育てるものは読書以外にもたくさんある。このことを編集者・ライターの心得として、頭と心にガリガリと刻んだ。

私のように読書が好きだったり文章を書いたりする人間は、どうしても本や文章に大きな価値を見出しがちだ。それこそ、「読書こそ正義!」みたいな感じで。だけど、この世には本や文章と同等、またはそれ以上の価値があるもので溢れている。

だからといって、その中で競ったり、「やっぱり本が一番だ!」と勝ち負けを決める必要はない。いろんな特性をもった人が、たくさんの価値あるものに出会えるように、よいものを多くのジャンルでつくることが大切なんだ、と思っている。だから私の役目は、謙虚な気持ちでよい本・文章をつくることなんだ、と。

ちなみに、息子はADHD改善薬の助けを得たおかげで、現在ではだいぶ抵抗なく文章を読めるようになっている(それでも読解力はまだまだ低いけど)。そんな彼が、「これ、すごくいいね。読みやすいし、はっきりとイメージが浮かぶ」とはじめて褒めた文章が、国語の教科書に載っていた『枕草子』だった。

『枕草子』は、至るところに色・音・触感が散りばめられている文章だ。しかも小手先の技巧を一切使わずに、あれだけの世界を表現しているのがすごい。本を読めない息子にも伝わる文章が、日本語による文章の最高峰だったってことは、「本当によい文章はどんな人にも伝わる」ということなんだろう。

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