【ひっこし日和】1軒目:ハウス太田
のっけからあれだが、ハウス太田のことはちっとも憶えていない。ハウス太田に住みはじめたわたしはまだ豆鯵のようにちいさくて、母の腹のなかを泳いでいた。
猫がいたの。にゃあという名前をつけた野良で、いつの間にか住みつくようになってね、と母が言った。にゃあって鳴くからにゃあにしたのよ、と。
名前から想像できるとおり昭和を象徴するような二階建てアパートの一角で、父と母はにゃあと暮らしていた。日当たりがよくて、畳にはきらきらと陽がこぼれている。ままごとみたいなキッチンと、たぶん父が好きなレコードや、母の持ち物のなかでいちばん高価なミシンが置かれた六畳間。そこにふたりが転がるようにして住みはじめたのが早かったのか、わたしが粒として存在するほうが早かったのかは聞いていない。
京王線の踏切がアパートを出てすぐのところにあり、なぜだかわたしはベビーカーに乗ってその踏切が閉まるのを見ていたのを憶えている。踏切灯が赤くまわり、激しい音が鳴って黄色い遮断機が落ちてくる、と思った瞬間、ぶつかる、と、目を閉じた。暗くなり、おそるおそる目を開けると、踏切の向こうにベビーカーを握りしめている母とベビーカーに乗っている自分が見えた。
母の、パーマがかかったふわふわの綿菓子のような髪には夕焼けがあたり、赤茶色に光っている。枝のように細い腕は白く、でも強くベビーカーの持ち手を引いているからか筋張っている。カンカンカンカンという乱暴な音に負けじと立つ母の影で、ベビーカーのなかのわたしの顔は見えない。
わたしにとってのハウス太田はそれだけだ。
にゃあはいなくなったの、と母がつづけた。あかんぼが生まれたのを知ると、もうそれから一度も顔を見せなかったわ。泣き言もいわず、さよならもなしに、すたすたと出ていったんだそうだ。
男と同棲していて家を出なくてはならなくなったとき、ふとわたしはにゃあのことを思いだした。思いだした気がする。あんなふうに出ていけたら格好よかったと思う。会社を辞めるときとか友だちと絶交したときとか誰かともう会えなくなるときとか、すたすたとそこから離れられたらどんなに美しいことかと思うのに、わたしはどのときもぐずぐずとうだうだと、ほんとうに思いがあるものと別れるときは格好わるくなるものだとか格言めいたことを口走ってのろのろし、そのあとさんざん泣いてまわりに八つ当たりして飲んで電柱に抱きついて眠って吐いて、にゃあなど及びもつかないそういう人生が、ここからはじまった。
つづく
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