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【ひっこし日和】7軒目:プロシード甲府

山梨にひっこして半年くらいは、熱帯魚屋のオーナーに用意してもらったマンションに住んでいたのだけれど、ちょっと狭かったのでひっこすことになった。相変わらず父が勝手に探してきて、知ったときはもう決まっていたという状況だったが、今度のマンションはすごかった。

なんと! 天然温泉つきの豪華マンション! 部屋とは別に大浴場とサウナがあり、25mプールとフィットネスジムもあった。テニスコートや卓球もあって、フロントには24時間管理人常駐の豪華っぷり。

そういうわけで、毎日夕飯を食べたら「お風呂行こう〜!」ってタオルを持って妹と一階の温泉に行き、サウナに入ったりジャクジーに浸かったりとのんびり過ごし、休みの日にはプールで泳ぐのが日課になった。人は他にも住んでいたはずだがいつも貸し切り状態で、嬉しいことに家賃は破格、今調べてみたら62平米で5万2千円! 当時は新しかったにしろ8万円くらいだったはず。今また借りて二拠点生活するのもいいなあ、ってちょっと計算してしまったよ。

ただ、遠い。
甲府駅からバスで15分、かよっていた中学まで徒歩40分。学区が変わってしまうから転校するよう言われたが、半年しか経っていないのにまた転校するのは避けたくて、かけあったけどダメだった。

40分も歩くなら転校しようかなとは思ったけどさ、制服から体操着からまたその学校に合わせて揃えなくてはならないというの。ちょっと今じゃ考えられない。山梨に転校したときも、上履きすら色の違うものではダメだと言われたんだよね。

結局、熱帯魚屋に住所を置いたままなら今の学校に通えると言われたのでそうしたんだけど、実際にはそこから来るわけじゃないんだから自転車通学の許可をしてくれてもいいのに、恐ろしいくらいの頑固さ。なんの融通もきかず、40分歩いて通うしかなかった。

それもただの40分じゃないの。野を越え山を越えの道のりで、まあ遠かった。しかも子どものころって異常に荷物が多い。教科書だけでも重いのに、習字道具とか絵の具とか体育館履きとか肩掛け鞄の他に何やら両手に持ってえっちらおっちら。

コンビニとかちょっと休憩できるスペースとかにはまったく出会えない。公園のベンチすら見つけられなくて、これねえ、人に言うことでもないけど、途中でトイレに行きたくなったときが最悪。一度、お腹痛くなって商店で聞いてみようと思ったのだけれど、お年頃の思春期だもの、トイレ借してくださいの一言がどうしても言えなくて、我慢して家まで帰ったなあ。

そんな40分の道のりのお供になったのは、当時まだカセットテープのウォークマンだった。お気に入りのポーチにカセットをガチャガチャいくつも持って、帰りがけに好きなテープをセットして聴きながら帰る。今となっては考えられないよね。携帯ひとつあれば何でも音楽が聴けるんだもの。って、なんかえらくおっさんくさい発言だけど。

そのときわたしが熱烈に好きだったのは、チェッカーズでした。解散までに彼らが何曲リリースしたのか知らないけれど、その相当な数のほとんどをこの道のりで聴いた。はじめて自分のお金で買ったCDもチェッカーズ、耳とイヤホンがくっついているのではと言われるくらい家に帰ってからもずっとチェッカーズで、聴きすぎてテープが擦り切れるほどだった。

そのうち、同じくチェッカーズ好きの雨宮さんが声をかけてくれ、やっと山梨で友だちができた。テープを交換したり写真集を一緒に見たりするようになり、今度は雨宮くんが昔チェッカーズが好きだったお姉ちゃんのテープをたくさんくれた(ちなみにふたりはきょうだいではなく、なぜか甲府には雨宮さんだらけ)。

そういえばそのころはじめて彼氏ができた。わっはっは。彼氏っていうよりただの仲いい男の子という感じだったのだけど、本人が「俺が最初の彼氏だよな!」と言ってたからそうしときたい。初彼は自分のお気に入りの曲をたくさん入れたテープをくれた。昔はこの自作テープの交換が流行ったのよねえ。なんだったかなあ。全然覚えてないけど、奥田民生が入っていた気がする。いや、チャゲアスだったかな。

ふたりで出かけたりした記憶はないが、畳屋のMちゃんやお米屋のEちゃんなんかとみんなで自転車に乗ってよく遊んだ。東京と違ってみんななにかしらの商売をしているおうちで、マンションに住んでいる子なんてほぼいなかったから、うちの温泉どころかオートロックやエレベーターにも感激していたのがおもしろかった。

でも、わたしには山梨で出会った子たちの方がずっと羨ましかった。みんなが持っている大切なものがわたしにはなかった。

強いて言えば、「ふつう」ってことだろうか。
「ふつう」は、持っていなかったから。

いつもの、日常の、ありきたりの、普遍的な、等身大、なんでもない、特別じゃない、変わらない、昔からある、そういう言葉に惹かれてしまうのは、今でもずうっとわたしがそれを追い求めてるからなのかもしれない。

ただ、山梨にいたときはみんながそれをあまりにたくさん持っていたから、自分もそこに混ぜてもらえたような感覚になれていたのは確か。自分の外側の皮と内側の内臓や気持ちがぴったりと同じサイズでおさまった感覚が、このときにはあった。生きるのってこんなにすとんと楽ちんな感覚でいいのかーって思ったんだけど、当時わたしはまだ中二。考えすぎ。


つづく

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