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【ひっこし日和】15軒目:千歳烏山とcafe ease

結婚してなにがいちばん変わったかと言うと、カフェに行く、ということが日常に加わったことだ。それは夫が「カフェに行こう」と言うからそうなったのだが、わたしにはなぜカフェに行くのかよくわからなかった。

だって、カフェで何すんの?

ふたりで住んでいる家があるのに、わざわざカフェに行くのである。お茶ならここにあるしスイーツを食べたいなら買ってくればいいしランチしたいならわたしがつくるのに、どういうわけかカフェに行こうと言うので、わたしたちは休日になるとしょっちゅう徒歩10分ほどのカフェに出かけた。

そこは雑居ビルの3階だったかで、cafe easeという名前だった。“ease”には休息とか楽とか安らぎとかの意味があって、お客さんにゆっくりしてほしいという思いからつけたと、いつだったかお店の方に伺ったことがある。

店の中にはソファや椅子やローテーブルやアンティークのデスクが置いてあった。揃っているものはひとつもない。ふたりがけテーブルにある2脚の椅子だってひとつは皮張りなのにひとつは木製で、なんだかいろんなところからもらってきたものをただ置いたようなインテリアだ。

それなのになぜかちぐはぐ感がない。みんな意志を持って集ったかのような顔でそこにいる。

わたしたちはときにソファに横並びに座り、ふたりがけテーブルにしたり、天気のいい日はテラス席に陣取った。コーヒーだのカフェラテだのと甘いものを頼み、でも、だからといって何をするわけでもなかった。

カフェにあった雑誌をめくったり、ときおり話したり、持ってきた本を読んだり、ぼんやりしたり、夫が寝てしまったり。別にわざわざお金をかけてお茶やケーキを頼んでしなくてもできるようなことを、カフェでした。そしてeaseな居心地を満喫しただけなのに大きなことでもし終えたように満ち足りてそのまま夕飯の買い物へ行き、帰った。

ああ、それがカフェ。なんでしょうね。実態なき満足感。家で同じことしてたら休日を無駄にした感満載で落ち込むのに、カフェに行くと何か成し得た気すらしてしまう。食べるでも飲むでもない目的で訪れる不可思議空間。でもそのなんかよくわからない時間を夫は好きなようだったし、夫が好きならいいかとわたしも思っていた。

よくわからなかったのはカフェのことだけじゃない。夫のことのほとんどが、わたしにはよくわからなかった。15歳離れているからなのか男と女だからなのか育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めないってことなのかどうなのか、でも結婚したのはそのわからなさを楽しめたからだと思う。わたしにはたやすくできることが夫には難しくて、反対に夫には簡単なことがわたしにはできず、それを互いに咎めるのではなく助けあった、たぶん、わたし目線では(先方要確認)。

さて、そんなふうに結婚生活がはじまり、わたしは主になにをしていたかというと、仕事をせず家事もろくにせず、日がな好きなだけ小説を書いておりました。くる日もくる日もパソコンの前に座り、なにかしらの物語を打つ。それは今にはじまったことではなくて、実は我が家に書院というSHARPのワープロがやってきた9歳のころからの、趣味だった。

今でも小説とまではいかないが、思いついたアイデアを書きとめてしまう癖がある。通り過ぎる人を見ただけで物語が浮かんでしまうし、どこかの土地に出かけていくと物語ができる。生きている限り、唇の上のほくろのように物語はいつも存在していた。

いったん話がはじまると勝手に動いていき、頭の中はそういうちいさな物語で溢れているので、ちょうど読みかけの本がベッドサイドに何冊も積み重なっている感覚。改めてこのことを人に説明したことはなかったが、これがわたしのつまらない人生をいつも豊かにしてくれているように思う。

もっとも実際には、おもしろい物語を読みかけたりしない。ひらいてみておもしろかったらすべてのことを捨ててそれを優先するから最後まで読み終えるし、読み終えられる時間があるときしか本はひらかない、という先回りした行動ができるくらいはちゃんとしている。つまり読みかけの本とは、読み進めなくてはならないけれど気が乗らないものか、もう読まない本だった。

ちなみに夫は物語を読まない。彼のデスクの上には常に読みかけのものばかりで、それはたいてい仕事について書かれた本だった。タイトルからしてつまらなさそうだし、実際つまらないから読み終えられないでいつまでも栞が動かないまま置いてあるのだろうけれど、それでも同じような本を夫はまた買ってくる。夫のことは、やっぱりわたしにはよくわからない。

ただ、夫が買ってくる本のタイトルを読むと、夫がどうなりたいかだけはよくわかるのがおもしろかった。ああ、仕事の場で英語が話せるようになりたいんだろうなあとか、企画書がもっとじょうずに書けるようになりたいんだなあとか。そういう意味を持つ本ばかりだった。

いつだったか、わたしが書いたものを読みたくないのかと聞いたことがある。夫はまったく気乗りしない声で、そうだねえ、と言った。夫がわたしの書いたものに興味がないことがわかってホッとした。誰かに読ませたくて書いているわけじゃなく、誰にも読ませないから書けるのだった。

ところがひょんな出会いがあり、わたしが書いた物語が文庫本になった。烏山のマンションで文字校して、表紙の色校を見て、びっくりするほど細かく入った朱字を目をチカチカさせながら追いかけて、本という形になったときには嬉しかったけれど、とんでもないことをしてしまったという後悔もついてまわった。

時が経ってからは若気の至りだと自分の中でなかったことにしていたが、実はわりと最近になってから、この本を大切にしてくれる方たちがいることを知った。出版から長い時間が経っているのに、この本に新しい思い出がくっつくとは思わなかった。でも、ときを経てひらいてみると、その当時の自分を褒められるくらいには大人になっていた。

たぶん夫は未だに一度も読んだことがない。
それでいい。


つづく




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