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【ひっこし日和】8軒目:ジョナサン近くのマンション

山梨での日々は楽しくて、今まで考えていたことや背負ってしまったもののことについてきれいさっぱり忘れられるくらい解放的な時間を過ごしたのだけれど現実はそうもいかず、いろいろ考えた挙句、わたしと妹は東京の母のもとにひっこすことにした。

高校に行きたかった。習いごとをきちんとしたかった。
ただそれだけの願いだったけれど、貯金のない父がわたしを高校にやれるわけもなく、かいじ号に乗って習いごとに往復するのも限界だった。

そしてわたしのその決断でまたいろいろなことが変わった。
苗字が変わった。料理しなくてよくなった。お小遣いがもらえた。お金の心配がなくなった。朝起こしてくれる人ができた。洗濯してくれる人がいて、部屋を片づけてくれる人がいて、お腹が空いて困らないよう冷凍庫に肉まんを入れておいてくれる人がいる生活になった。

それふつう、なんだよね。

母というものがいる生活をあまりにひさしぶりにしたもんで、何もかもにうっかり感動してしまい、母がいるというのはなんて楽なのかと思った。母は急にわたしたちが来たもので、それはそれは朝から晩というか朝から朝まで働くような生活を送っていたけれど、自分しか見えていない中二のわたしにはそれがどういうことかわかっていなかった。

そんな母が用意してくれたのは分譲仕様のきれいなマンション。実はここからわたしは、あの中野区立中野富士見中学校にかようことになったのだった。

この学校の名前を聞いてピンとくる人がどのくらいいるのかわからない。今はもう閉校してしまったから名前を出すことにしたのだけど、ここは教師も参加した「葬式ごっこ」といういじめが起こり、1986年にターゲットにされた生徒が自殺するという最悪な結末を迎えた学校だった。わたしがひっこしてくる7年前のことだ。

転校してすぐにそのことを知り、わたしはその事件について調べた。と言ってもインターネットがあるわけじゃないから人に聞いただけなのだけど、誰もが「〜だったらしいよ」としか話さない。当事者は先生も含めてとうに学校にはいなくて、お兄ちゃんやお姉ちゃんがいる子の話も曖昧。先生たちはだれも事件についてきちんと説明してくれなかったが、その代わり腫れ物に触るようにやさしかった。どこかで死なれては困ると言われているような、そんなやさしさだった。

そういう妙に甘やかされた環境のなかで子どもたちはどんどん悪事をおかし、大人は子どもが怖くてうまく手がつけられない。いま振り返ってみると、あれはそういう空間だったのではないかと思う。もっともこの学校にはたった半年しかいなかったから何がどうだったのか、本当のところは何も知らないのだけど。

でもとにかく学校は荒れていたし、完全に山梨県民の心を持っていたわたしにとっては、口紅を塗って学校に来ている子を見ただけであまりの違いに卒倒しそうだった。いやいやだってかたや5メートル向こうからでも読めるほどでかでかと苗字の書かれたゼッケンつきのジャージで山道を歩いてるのよ。山梨以前に住んでいたのも東京都下だし、さすが23区は違う!!! と思ったよね。

そんななかでわたしはと言うと、ええ、完全に染まりました。なんかあんまよく覚えてないんだけど、どういうわけか仲良くなった男子数名がいて、毎晩のように夕飯を食べたあと20時ごろになると集まり、夜中ずうっと近所のジョナサンにいた。

どうしてそんな深夜に出かけてよかったのか、中学生がそんな時間になぜ入れたのか、ジョナサンで何をしていたのかさっぱり覚えていないが、その日お金を持っている子がフライドポテトを頼み、ほぼフライドポテトとドリンクバーだけで一晩いた気がする。酷い。感覚的には2時ごろまでいたんじゃないかなあと思うんだけど、あれほど毎日ジョナサンにいたのに、何をしたかまったく覚えていないなんてどういう記憶力なのわたしの大脳皮質。

でも、ただ「いた」んだと思う。何を話すでもなく何をするでもなく、なんとなく集ってなんとなく別れた。

みんなもそうだったのかは知らないけれど、わたしは家がつらかった。そのほとんどは、父を振り切るようにして置いてきた罪の意識。母が揚げたての手づくりコロッケや高い刺身を用意してくれるたび、こんなものずっと食べられなかったと思い、父は何を食べているだろうかと思った。自分ばかりいいものを食べて父は。そう考えると母に悪態つきたくなり、よくしてくれる母に角の立つ言い方をする自分にも腹が立って、ジョナサンにいた。

夜中こうこうと灯りのつくなかで油だらけのポテトを食べた。夜の公園をうろうろし、コンビニでチェリー味のチュッパチャプスを買い、学校を見に行った。夜の学校は静かで平穏で誰も殺さない。陽が照って明るくなると、紙で指を切ってしまったみたいに、薄く皮膚を剥ぐように、それはまるで偶然だというように、だれかがだれかを傷つけた。一触即発ということばがぴったりの、ひとりひとりの動きがちょっとでもずれたら何かが起こってしまいそうな緊張感のなかでみんな生きていた。

あの子は暗い学校を見に来たんだろうか、とわたしは何度も思った。もう無理だと思ったとき何を見たのか、この町でどう生きていたのか、夜の町をふらふらしながらその知らない子のことを追いかけていた。

実はそれからずいぶん時が流れて、わたしはこの生徒の最期を知ることになった。世田谷区長である保坂さんの子育て講演会で、保坂さんが中野富士見中について話したのだった。

その生徒が最期に持っていた持ち物のなかに、当時教育ジャーナリストだった保坂さんが書いた「やったね!元気くん」という本が入っていたそうだ。これは「明星」という雑誌で連載していたいじめや体罰についてのエッセイをまとめたもので、そのあとがきには、どんなにつらくても死なないでほしいと書かれていたという。保坂さんはそのとき「それをあの子が読んだかどうかはわからないけれど、自分の本を持っていたことが強く胸に響いた」というようなことを言っていた。

そのときひさしぶりにこの事件のことを改めて調べ、そして学校がとり壊されることを知った。友だちから連絡があり、2歳の娘を連れて学校のお別れ会に行った。

学校はなにも変わっていなかった。図工室の椅子、一箇所だけあったステンドグラスのような窓、教室の後ろの黒板、下駄箱、職員室前のちょっとした階段、時が止まっているみたいに変わらないのにわたしの腕のなかには2歳の赤んぼうがいて、急に怖くなった。この子が大きくなったときも世の中にいじめはあるんだろうか。

楽しかったことやかけがえない出会いもあったけれど、この町での記憶はやはりこのことにしたい。忘れないためにも。知ってもらうためにも。


つづく

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