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舌のことを考えたら鼻にいきついた

 なんというか、とんでもないリレーが起こっている。

 ヱリさんの小説

 からの、青豆さんの記事

 からの、海人さんの記事

 からの、この記事。

 別に誰も、何も、打ち合わせなどはしていない。けれども、ヱリさんの小説が次々に人の心を揺り動かして、舌絡みの連想が繋がっているのだ。まるで数珠繋ぎに。

 私も舌について考えてしまったひとり。

 なにより、ヱリさんの小説がまずは衝撃だ。自分の身体の中にあるのに、まるで地球外生命体のように感じられてくる。すごい筆力だ。空恐ろしいほどの表現力に、引き込まれて虜になる。ぬめりとか弾力のリアルさにぞわぞわするような戦慄すら覚え、それがエロティックでもあり、気味が悪くもある。

 そして思う。
 舌、ってなんだっけ、と。

 これは「眠れないアル」案件(※)だ。
(※「眠れないアル」は銀魂アニメ153話「寝る子は育つ」に出てくるヒロイン神楽のセリフ。詳しくはこちらもどうぞ)。

 口の中にいるそれは、普段は何の主張もしない。でも、歯に挟まった異物を取り除こうとしたり、口内炎に恐る恐る触れる舌先はまるで目がついていたり手で触っているのと同じような感じですらある。歯のどのへんに挟まっているとか、痛みを刺激して口内炎が軽いか重症かさえもわかる。
 喋る時、笑う時、食べる時、無意識に動くそれを意識したとたん、危うい感覚に襲われてしまう。
 そう、青豆さんの覚えた「違和感」の感覚。
 神楽の「寝るって何だっけ」の感覚だ。

「なんか全然眠れないから、どうやったら眠れるか、いろいろ考えてたアル。そしたら段々、今までどうやって寝てたのか、わからなくなってきたアル。寝方を忘れてしまったアル。どうやったら眠れるアル。どうやったら眠りの中に入っていけるアル」

アニメ『銀魂』153話「寝る子は育つ」より

「だって銀ちゃん、よくよく考えるアル。寝るって一体何あるか?目をつぶっても結局私達まぶた閉じているだけで、眼球は中でゴロゴロしているアル。真っ暗だけど結局それは、まぶたの裏側見てるだけで、眠ってるわけじゃないアル。その証拠に昼間日向たで目をとじると真っ赤アル。眼球どうすれば眠れるアルか?まっすぐまぶたの裏見ていればいいアルか?それとも上の方見てればいいアルか」・・・

アニメ『銀魂』153話「寝る子は育つ」より

 ああなんか、ぐるぐるしてきた。

 そこから今度は海人さんの記事である。

中学生の時に生物の授業で教わりましたが、「舌を筒のように丸めることができるかどうか」は遺伝なんですよね。できる方が優性遺伝なので、できない勢は少数派ですが、それでもクラスでやってみて、三分の一ぐらいの生徒はできませんでした。そういう行為があることさえ理解できない! とK君が叫んでいたなぁ。
 青豆さんが読んだ小説の舌は、丸まる舌だったのか、丸まらない舌だったのか。

 あひゃーん。また一歩進んでしもた。もう駄目。完全に舌のことしか考えられない。私の舌は、丸まる舌か、丸まらない舌か・・・

 鏡、鏡。

 鏡に向かって、Reの付く単語の発音をしてみたり、舌を出してみたり丸めてみたり、完全にヤバい人である。

 とりあえず、丸まった。
 いやはや、まさか遺伝だとは。

 舌は筋肉で出来ており、舌根は背中や横隔膜にもつながる筋肉と繋がっていて、姿勢や呼吸にも密接に関係しているらしい。コロナ禍にマスクをしていて会話も少なく、舌を動かす機会が減ったために舌が上あごについていない「落ち舌」になっている人が少なくないらしい、と以前「あさイチ」でやっていた。
 50代からは舌の機能が衰えてくるので、変顔しながらでも舌の運動をして鍛えたほうがいいそうだ。

 それ以来、わりとひとりで運動の時変顔をしている。
 ヨガには目を見開き舌を突き出すというアーサナもあるし・・・

 ところで私が次にひっかかったのは、海人さんのコメントでゴーゴリの『鼻』の考察記事を読んだというところだった。
 私はゴーゴリの『鼻』は読んでいない。
 芥川龍之介はゴーゴリの『外套』の影響を受けて『芋粥』を書いたそうだが、同じ『鼻』というタイトルでありながら、芥川の『鼻』とゴーゴリの『鼻』は無関係らしい。

 なんてこった。今度は鼻だ。
 わたしはつい、青空文庫で『鼻』を読んでしまった。
 ついでに芥川の『鼻』も読んでしまった。

 ゴーゴリの『鼻』は、とんでもなくシュールな話だ。わりとぶっ飛んでいる。あるとき床屋のイワンの奥さんが焼いたパンに見慣れた鼻が入っている。それがとある客の鼻であることにイワンは気づく。客の方もある時突然鼻が無くなっていることに気づき、探しに行く。すると鼻は立派に服を着て街なかで生活しているのだ――その後あらゆることをして鼻を取り戻そうとするが、なんやかんやあって突然鼻は戻ってくる。そんな話。

 芥川の『鼻』は、禅智内供ぜんちないぐという僧侶が口に垂れ下がるほどの長い鼻の持ち主で、なんとかその鼻を短くすることに成功するのだが、短い鼻になったほうが他人の視線が気になって落ち着かず、結局もとの長い鼻に戻る、という話。

 人間の身体の一部というのは奇妙なものだ。
 普段はなんら意識しないのに、意識したとたんにまるで「寄生獣」みたいに自分とは別の生き物のように感じられる瞬間がある。

 ヱリさんの舌と、ゴーゴリの鼻はいったん切り離され、(いちおう)元に戻る。ヱリさんの小説では舌をクリーニングした後、ちゃんとくっついていないかもしれないがとりあえず使えている。ゴーゴリの鼻は、とにかく「ないと困る、道も歩けない」ということで、主に機能と言うより外見的なコンプレックスに通じるように感じる。芥川の鼻も、機能というより見た目だ。どうも、「舌」は機能重視、「鼻」は見た目重視という違いはあれど、人間にとって非常に重要なものらしい。

 良くスポーツの話などに出てくるマイケル・ポランニー博士が提唱した「暗黙知」は「身体知」と「経験知」の中にある。なんでだかどうしてだか言葉や図や数字で説明ができないけれど、使いこなしているものやこと(や身体)がある。どうして自転車に乗れるかを説明しようとしても、言葉では説明しきれない。

 舌が果たしてなんであるか、どんな動きをしているのか、とてもひと口では説明できないし、鼻がなんでなくてはならないかも説明しきれない。でも私たちは舌も鼻も必要としている。自分の一部であるのに無意識に使いこなしている。
 よーく考えると怖い。
 怖すぎて上記の記事を何度もループして読んでしまった。

 というかヱリさんのこの小説は、私の中ではもうゴーゴリ・芥川超えである。
 素晴らしい。
 ぜひ読んでいただきたい小説です。



 

 
 

 

 

 




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