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江戸時代以前の庶民も苗字を持っていた

 これまで江戸時代以前の複雑な、現代とは異なる日本人の名前の慣習について様々な角度から解説してきました。しかし、あまりにも概念が多すぎて混乱しているかもしれません。まずはどの話が名前のどの部分のことだったのか、改めて各トピックと関連付けて整理してみましょう。


伝統的な日本人の名前についてまとめ

 上杉謙信を例として取り上げます。

江戸時代以前の名前の要素

 位階は名前の要素ではありませんが、通称として使われる官途受領名と関係し、公文書でも使われるためここに含めています。これらをすべて繋げたフルネームという概念は存在せず、名字+通称は日常生活で使われ、氏姓+諱は対朝廷で使われるので、基本は混ぜて使われることはないです。
 現在の法律上の個人名に関する用語は氏名「しめい」で統一されています。これまでの解説で本姓や姓と同義語の氏名「うじめい」と漢字が同じなのでややこしいですね。
 伝統的な名前からどのような経緯で現代の氏名が誕生したのかを見ていきましょう。

 官名由来の通称については以下のリンクを参照してください。

 豪族の氏名については以下のリンクを参照してください。

 部民由来の氏名については以下のリンクを参照して下さい。

 位階については以下のリンクを参照してください。

 四姓については以下のリンクを参照してください。

 偏諱については以下のリンクを参照してください。

庶民も苗字を持っていた

 ここまで解説した江戸時代以前の日本人の名前の複雑な構造から現代の氏(名字、姓)+名というシンプルな構造への転換は、明治に入ってから起こりました。それまでは慣習として名前の構造が成立していましたが、明治の転換は明治政府が近代国家の確立、具体的には徴兵制と徴税のために強引に名前の構造を変えてしまったのです。その経緯は紆余曲折があり、それは公家の常識と武家の常識、その外にいる下級武士や庶民の常識の齟齬をすり合わせていく過程でした。
 意外なことに、百姓も町民もほとんどが名字を持っていました。かつて日本史の常識では庶民は名字を持っていなかったとされていましたが、実際には(それを「名字」と呼ぶべきかどうかは別として)名字に相当するものを持っており、ただ公称はしていなかったのです。
 庶民は神事や冠婚葬祭の際には名字を名乗っていました。庶民が名字を持っていたことは、墓石に刻まれた先祖の名前や神社仏閣への寄進状から確認されています。部民制まで遡れば、ほぼすべての国民が制度に組み込まれていたため、少なくとも部民としての氏名は持っていたことになります。
 以下、太政官布告で苗字という漢字が使われているので、名字は「苗字」の表記に統一いたします。

苗字の整理

 庶民が公的な場で苗字を使うことは差し控えられており、苗字を名乗ること自体に一種のステータスや許可が必要だと考えられていました。慣習は上流社会から降りてくるものなので、領地も持たない者が苗字を名乗るのは何事か、という風潮があったのです。
 このような慣習打破のため、明治3年(1870年)になると明治政府は平民の苗字公称の自由化を打ち出します。しかし、それまでの慣習の変更はそう簡単には進まず、平民の苗字公称はまったくと言ってよいほど浸透していませんでした。
 翌年、政府は公文書における氏姓(うじかばね)の使用を廃止するとともに、苗字+諱を使うべき旨の姓尸(せいし)(=氏姓)不称令を布告します。
 また、政府は全国民の個別把握のために戸籍の編纂にも取りかかります。明治4年(1871年)に戸籍法を制定し、翌年には壬申(じんしん)戸籍が編纂されました。しかし、この段階での記録は大混乱しており、親子間で苗字が違う、苗字なし、妻は実家の苗字を名乗るなどまちまちな内容となりました。

 さらに名前に関してもうひとつ問題がありました。江戸時代以前はどこかに一元的に登録されるものではなかった庶民の名前は、いとも簡単に改称することができたのです。そこで、政府は改称を禁止しました。国民の個人管理のためには、戸籍とその人とが一対一で対応しなければ管理ができず、むやみに改称を認めると事務が煩雑になるからです。これが現代まで続き、いつの間にか結婚を除いて出生時に決められた名前は生涯変わらないもの、というかつてとはまったく逆の常識が定着していきました。
 明治8年(1875年)には平民苗字公称義務令を布告し、苗字の公称差し控えの慣習を強制的に廃止しました。先祖からの苗字(または氏名)が分かる者はその苗字を名乗り、持っていた苗字を忘れてしまった者、聞かされていなかった者、本当に持っていなかった者など様々な理由で苗字がない者は、新たな苗字を設定しました。また、苗字の音しかわからない者は新たに漢字を設定し、漢字しかわからない者は新たな読みを設定しました。
 この一連の改革により、苗字は一族の家名を表示するものから、国民管理のための記号に変化していったのです。

名の整理

 名についても「通称」と「諱」という、個人名として似たような機能を果たす2つが併存し、その整理に迷走します。まず、官名を返上させ官名の通称使用を禁止したことで、官名を通称使用していた者の通称がなくなってしまい、強制的に百官名や一般名へと変更することになります。その後、位階を名乗らせたり、諱を名乗れと言ってみたり、諱を設定していない下級武士が仕方なく通称と諱を同じにしてみたところ通称と諱を職員表に書けと指示してみたり、混乱を極めます。
 通称と諱の併存はこのように大きな混乱を引き起こしていたので、似たような機能を持つ2つのものは不要ではないかという機運が生まれます。そこで政府は明治5年にこの2つを統合して「名」という一人一つのものにするべきことを布告します。名は、通称を活かしてもいいし、諱を活かしても、またはまったく別の名前でも構わない、という形での統合だったので、どちらか一つになったわけではありません。
 このように、苗字と名に関する2つの改革を以て、現代的な氏名の枠組みができたのです。

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