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徳川「秀」忠は豊臣秀吉からの偏諱
受験勉強としての日本史が嫌いになる理由に、同時代に出てくる人物が似たような名前ばかりで、混乱して覚えられなくなることにあるのではないかと思います。そのようになっている理由は誰からも教えてもらえず、日本史が苦手という思いを抱えて離脱してしまいます。
しかし、同時代の人たちが似た名前ばかりになることには理由があります。今回の記事を読むことでなぜそうなっているのか理解することができます。
誰が誰だかわからない
世界史の教科書はカタカナだらけで訳が分かりませんが、日本史の教科書も似たような名前がいっぱい出てきて、誰が誰だかよく分かりません。なんでこんなに似た名前ばかりが登場するのでしょうか?
歴史の授業ではほぼ言及されることはないと思いますが、実はこれには理由があって、名前をややこしくする江戸時代以前の慣習があったのです。今回は、教科書に出てくる人物は似たような名前が多くなってしまう理由について解説したいと思います。また、人物の名前の組み合わせはいちいち断りませんが、一般に認知されている名字+諱がほとんどです。
代々受け継がれる通字
一族単位で字を共有する慣習について見ていきましょう。
系字
兄弟間で諱に同じ字を共有する「系字(けいじ)」という慣習が仁明(にんみょう)天皇のころから定着し始め、9世紀、10世紀と続きます。例えば仁明天皇の諱(いみな)は正良で、兄弟は秀良親王、業良(なりよし)親王、基良(もとよし)親王、忠良親王でした。
兄弟間で共有された「良」が系字と呼ばれます。同じく仁明天皇の皇子の文徳天皇の代では「康」、孫の清和天皇の代では「惟(これ)」が系字であることを確認できます。
通字
11世紀中頃から血統を同じくする一族で諱に一字を相続する「通字(つうじ)」という慣習が始まりました。後三條天皇の諱は尊仁ですが、その「仁」の字が代々相続され今上天皇の「徳仁(なるひと)」陛下まで続いています。
この規則性は武家の諱でも確認することができます。河内源氏の嫡流家では
源頼信(よりのぶ)-源頼義(よりよし)-源義家(よしいえ)-源義親(よしちか)-源義朝-源頼朝-源頼家
のように「頼」と「義」が通字になっています。
鎌倉幕府の歴代執権を並べると
北条時政-北条義時-北条泰時-北条時頼-北条経時(つねとき)-北条長時-北条政村(まさむら)-北条時宗-北条貞時-北条師時(もろとき)(以下略)
のように「時」が通字です。政村は宗家ではないので「時」の字がありませんが、時政の「政」が受け継がれています。
室町幕府の歴代将軍を並べると
足利尊氏-足利義詮(よしあき)-足利義満-足利義持-足利義量(よしかず)-足利義教(よしのり)-足利義勝-足利義政-足利義尚(よしひさ)-足利義稙(よしたね)-足利義澄(よしずみ)-足利義晴-足利義輝-足利義栄(よしひで)-足利義昭(よしあき)
のように尊氏を除いて「義」が通字になっています。これは源氏長者(げんじのちょうじゃ)を足利家が相続したということです。足利の名字は下野国足利郡足利より起こりました。
織田家では信秀、信長、信勝、信治、信忠、信雄(のぶかつ)、信孝と「信」が通字であり、豊臣家では秀吉、秀長、秀次、秀頼、秀勝、秀康と「秀」が通字です。このように一文字が決まっているので、これだけでも名前の多様性は限られて来ます。しかも名前の限定はこれだけではありません。もっとややこしくなる要素として、偏諱(へんき)という慣習があります。
主従関係を表す偏諱
公家社会及び武家社会において、一族や家臣の忠誠を得るために、統領たる自身の諱のうち一字を与えることを偏諱(へんき)といいます。偏諱は書き出す行為から一字書出(かきだし)、もらう側からは一字拝領(はいりょう)とも言います。一族や家臣は、生家の通字と与えられた偏諱を組み合わせて諱とします。
偏諱はとても栄誉のあることなので、誰でも彼でも与えられるわけではなく、褒章としてごく限られた人物に対してのみ行われました。しかし、歴史上の重要人物は偏諱されているケースが多いため、必然的に教科書に出てくる人物は通字+偏諱で似たような名前ばかりになってしまいます。
例えば、足利尊氏は後醍醐天皇の諱である尊治の「尊」を偏諱されたものです。
応仁の乱を争った東軍の大将細川勝元は将軍足利義勝の「勝」を偏諱されたものであり、対する西軍の大将山名持豊は将軍足利義持の「持」を偏諱されたものです。
戦国時代に目を向けると、周防国の大内義隆は将軍足利義稙の「義」を偏諱されたものです。
甲斐の武田晴信(信玄)や土佐の細川晴元は将軍足利義晴の「晴」を偏諱されたものであり、三河の今川義元は足利義晴の「義」を偏諱されたものです。
毛利輝元や上杉輝虎(謙信)は将軍足利義輝の「輝」を偏諱されたものです。島津義久や朝倉義景は将軍足利義輝の「義」を偏諱されたものです。
天皇、将軍から偏諱されるだけでなく、もっと小さな単位でも偏諱は行われており、長宗我部元親(もとちか)は細川晴元の「元」を偏諱されたものです。
龍造寺隆信は大内義隆の「隆」を偏諱されたものです。
徳川家康の長男松平信康は織田信長の「信」を偏諱されたものです。次男結城秀康と三男徳川秀忠は豊臣秀吉の「秀」を偏諱されたものです。また、四男の松平忠吉(ただよし)は豊臣秀吉の「吉」を偏諱されたものです。
このように、主従あるいは同盟関係で多くの偏諱が行われていたのです。どうりで似たような名前ばかりになるはずですね。
以下の後編に続きます。
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