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公卿、公家、殿上人、堂上家はどう違うのか?

 位階は本来律令制に基づく格付けであり、冠位制度に代わるものです。この位階によりどの官職に就くことができるのかが決まり、官職が格式の高い通称になったのですから、位階と人名の間には深い関係があります。位階の仕組みと官職の関係、それに関連する公家の家格について見てみましょう。
 律令制の官職は、以下の記事を参照してください。


位階

 これまで律令制の官職名について解説してきましたが、それに付随して位階という制度も存在しています。朝廷が位階を授けることを叙位といいます。その位階はどの官職に就任することできるか、という官位相当に関するクロス表がつくられています。位「くらい」は座居(くらい)のことなので、どの順番で座るのかということです。
 位階と官職の関係は、資格と役職のようなもので、例えば人事評価がグレードAなら部長になることができる(実際に部長に任命されるかはまた別の話)、というように資格と役職を分けて考えます。
 位階は上から順に正一位(しょういちい)、従一位(じゅいちい)、正二位(しょうにい)、従二位(じゅにい)、正三位(しょうさんみ)、従三位(じゅさんみ)と続き、四位から正四位上(しょうしいじょう)、正四位下(しょうしいげ)と上下に分かれ従八位下まで続きます。その下はほぼ見ることはないし、重要性もないので省略します。上から下までで30の階層があります。
 官位相当表の一部をここに掲載します。今までに登場した官職の上下関係がおおよそ分かるのではないかと思います。

官位相当表

 もちろん、位階と任官が必ずしも一致するとは限らず、位階>官職、位階<官職というケースはありえます。位階>官職のときには「」、位階<官職のときには「」、兼官のときには「兼」と公文に書かれます。
 例えば、三條実美はある書において「従一位行右大臣藤原朝臣実美」のように表記されています。木戸孝允は「従三位守参議大江朝臣孝允」のように表記されています。従三位なら参議の正四位下より上だから「行」ではないかと思うでしょうが、明治初期において官位相当表が改定されており、参議は正三位相当でした。位階と官職が相当のときは、「大蔵卿(おおくらのかみ)正四位下藤原朝臣宗頼」のように官職名から先に表記されます。

公家の家格

 公家に関する様々な言葉の関係を整理してみましょう。
 公卿(くぎょう)という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、その正確な意味はあまり知られていないかもしれません。公卿は従三位以上の者及び参議のことです。公は摂政・関白、大臣のことであり、卿(きょう)は公以外の公卿を指します。
 殿上人(てんじょうびと)という言葉はどうでしょうか。「天上人」あるいは「天井人」と漢字を混同して認識している方がいるかも知れませんが、これは天皇の御殿である清涼殿の殿上間(てんじょうのま)に昇ることができる人のことで、古くは個人ごと、天皇の代替わりごとに勅許されたものであり、公卿でも昇殿が許されないこともありました。昇殿できない者は地下(じげ)と呼ばれ、地下の公卿などと呼ばれました。後に公卿はすべて昇殿できることになったので、公卿を除き昇殿を許された四位、五位の人を指す言葉になりました。
 時代が下って平安中期頃から家格が定まると、個人ごとではなく、家ごとに紫宸殿(ししんでん)や清涼殿に昇殿できるかどうかが決まっていきました。公卿になることができる家格を堂上家(とうしょうけ)といいます。堂上家はさらに5つの家格に分類され、摂関家、清華家(せいがけ)、大臣家、羽林家(うりんけ)、名家(めいけ)、半家(はんけ)に分けられます。表で整理してみましょう。

堂上家

 堂上家に対し家格としての地下家があります。地下家は廷臣ではありますが、正七位下から正四位下までしか叙位されず、堂上家と同じく家格によって初叙から(六位から五位のように)1階層上がるのがせいぜいでした。地下家は決して公卿にはなれないし、昇殿も許されないという厳然とした壁があったのです。つまり、堂上家以外の殿上人はいないことになります。
 公家とは、広くは堂上家と地下家を合わせた意味ですが、一般的には堂上家のみを指す言葉です。したがって、(一般用語としての)殿上人と堂上家と公家は同じ範囲を指す言葉になります。

敬称

 公、卿は敬称としても使われます。例えば徳川(源)家康公、菅原道真公などと呼ばれるのを聞いたことがあると思いますが、適当に「公」がつけられているのでなく、右大臣という官職を持っていたことによります。摂政、関白の場合は「殿下」です。
 同じく、公以外の従三位以上の者及び参議は「卿(けい)」をつけて呼ばれます。例えば西大路隆枝卿のように諱の下につけて使われます。
 姓の「朝臣」とは別に、敬称としての「名乗り朝臣(あそん)」というものもあり、これは四位の者(参議を除く)が対象でした。例えば、公文書で在原業平朝臣のように諱の下につけて使われます。
 なお、「諱は人に知られてはならない名前なのではないのか?」と疑問に思うかもしれませんが、朝廷内ではお互いの諱は知っており、日常で使われていました。

堂上家

 堂上家135家の氏名(うじめい)を列挙すると、藤原氏、源氏、菅原氏、清原氏、大中臣氏、大江氏、卜部氏、丹波氏、阿部氏、平氏と僅かに10氏です。その7割ほどの堂上家は藤原房前の子孫、藤原北家から派生しました。
 摂関家はすべて藤原北家であり、藤原道長の後裔である藤原忠通(ただみち)から派生しています。
 藤原忠通の長男藤原基実(もとざね)の子孫から近衛家、鷹司(たかつかさ)家が派生し、三男藤原兼実(かねざね)の子孫から一條家、九條家、二條家が派生しています。摂関家筆頭は近衛家であり、首相だった近衛文麿はこの高貴な血統の出身でした。家格の序列は近衛>一條、九條>鷹司、二條とされています。
 摂政とは、幼少の天皇に代わって万機の政を統べ掌る代行職であり、摂は摂行「総なり、兼なり、代なり」を意味します。関白とは、漢書「宣帝記」にある「諸事皆まず光に関わり白(もう)し然る後に天子に奉御す」に由来し、天皇の相談役です。
 羽林とは、近衛大将(こんえのだいしょう)、中将、少将の唐名です。北辰=天皇を守護する星の名前「羽林天軍」に由来し、羽のごとく速く、林のごとく多いという意味です。

公家の名字(称号)

 公家社会において名字に相当するものは、称号と呼ばれています。公家の氏名はほとんど藤原氏だったので、氏名はお互いを区別する印として役に立たなくなっていました。そこで、住居の所在地名を称号として呼び合う慣習が広まりました。
 当初公家社会においては、夫が妻の家に通う妻問婚だったため、夫と子は一緒に住んでおらず、称号は個人ごとにどこに住んでいるかで変遷していたものが、鎌倉中期頃に夫が邸宅を相続し妻を迎える嫁取婚に移行することで、称号が家名として機能するようになりました。
 藤原基実の嫡流は、かつての近衛天皇の住居であった近衛殿に住んでいたため、近衛家になりました。藤原兼平からの系統は鷹司殿に住んでいたため、鷹司家になりました。
 藤原兼実の嫡流は、九條殿に住んで九條家になりました。同じく一條室町に住んだのが一條家、東二條殿に住んだのが二條家になりました。

爵位

 位階に関連してついでに爵位についても見ておきましょう。爵位は、明治2年に公卿諸侯を廃止し、華族制度に移行したことに伴い授与されるようになりました。爵位の序列は、公爵>侯爵>伯爵>子爵>男爵です。
公爵は、旧摂関家、徳川宗家、国家に偉勲ある者が対象です。
侯爵は、旧清華家や徳川御三家、大藩知事、旧琉球藩王が対象です。
伯爵は従二位相当、すなわち大臣家、羽林家、名家、御三卿、中藩知事が対象です。
子爵は正従三位相当、すなわち羽林家、名家、半家、小藩知事が対象です。
男爵は、御一新後に華族となった者が対象です。
 いずれも国家に勲功ある者は個別に叙爵されました。
 明治政府の中枢で活躍した岩倉具視と三條実美は、堂上家の序列を無視して叙位されました。岩倉具視は羽林家、三條実美は清華家の出身なので、本来の家格に従えば両家の爵位はそれぞれ子爵、侯爵相当のはずですが、明治維新における活躍のお陰で両家ともに公爵に叙されています。
 公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵はもともと周の時代の諸侯の階級です。「爵」は周の時代の酒器のことであり、身分に応じて爵が与えられたことに由来します。


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