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「教養は人を幸せにするのか」問題

こんにちは。
先日、『マンガでやさしくわかる知識創造』の出版記念イベントがありました。

主宰されたのはSECIプレイス。
「片付けパパ」こと大村信夫さんが登壇者に質問をする形で、著者の西原文乃先生、マンガの主人公モデルの村上修司さん、不詳ワタクシメにインタビューをしていただきました。

イベントの様子(左が大村さん、中央が西原先生)

お話は本の内容に沿った説明で、詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、私が本を編集していて印象に残っていた内容が、イベントの中でも出たのでちょっとご紹介できればと思います。

知識の定義です。本の中では、

個人の全人的な信念や思いを真善美に向かって社会的に正当化するダイナミックなプロセス

『マンガでやさしくわかる知識創造』より

とされています。もともとは、「知識創造」について最初に研究を始められた野中郁次郎先生と竹内弘高先生の定義ですが、本書でもこの定義に則って話を進めています。

『マンガでやさしくわかる知識創造』

大事なポイントは、知識とは単にモノを知っているという固定化されたものではなく、良いことに向かっていく動的な営みだということ。しかも、それは個人から発するものの独善的ではなく、社会の中で位置づけられるのです。

この定義を学んだ時、知識について、とても倫理的な位置づけをしているという印象を持ちました。
そして、以前に読んだ別の本を連想しました。

野中先生、竹内先生と同じく、一橋大学教授でいらした阿部謹也先生の『「教養」とは何か』です。

本書の中では教養を以下のように定義しています。

「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」を「教養」があるというのである

阿部謹也著『「教養」とは何か』講談社現代新書、1997年より

この定義も、教養を倫理的、動的なものとして捉えています。たくさんモノを知っているから偉い、ということではなく、知ろうとするプロセスそのものを肯定的に捉え、しかもそれが社会にとってよい方向であってほしい、と。

しかし、ともすると「教養」というと、西洋や中国の古典に詳しいとか、哲学書をたくさん読んでいるとか、そういうイメージがついて回るのではないでしょうか。
もちろん、そうしたことに詳しいことそれ自体は素晴らしいことだと思いますし、そうしたことを知っている日本人が多かったことで、海外のビジネスパーソンから尊敬を集めた側面というのは確実にあったのだと思います。

しかし、ある時から、そうしたラベルとしての教養が権威主義的に見えてしまい、権力を手にした側が持っている、高い服やブランド品などと同じようなものに見えてきてしまったのかもしれません。
特に、旧制高校的な教養主義が、特権階級の象徴のようなものだと思われるようになってからは、前述の定義のような倫理的で動的なものではなくなってしまったのでしょう。

かつては教養があることがカッコいい、モテる要素の一つだったのが、かえってダサいものになってしまい、教養主義が没落していく。

この辺の社会的な背景は、竹内洋先生の『教養主義の没落』に詳しいです。

(ただ、最近では、教養がエリートの特権ではなく、自分の心を本気で豊かにしようと思って、貧しい人こそ教養を求めていた時代があったことなどにも注目が集まっています。その辺は福間良明先生の研究に詳しいです)

気が付いたら、大学時代に趣味が読書という人は、ちょっと変わった人というイメージができていたような気がします。
確かに、私も高校時代に人文書や教養書を読み始めた時は「人格の陶冶」みたいなものを目指して自分を高めるために読んでいましたが、次第に違和感を覚えてきました。
いわゆる読書人が、人格者とは言えなかったりする。また、仕事ができるとも限らない。小難しい本を読むより、上司が好きな本の話題に合わせられた方が覚えがよさそう。では、本を読む意味って何なのだろう?
そんなことを考えてしまいました。

今思うのは、本を読むというのは人格を高める唯一の手段ではないということです。
でも、一つの手段ではあると思います。

私は大学受験で一浪したのですが、浪人中に駿台の名物講師だった奥井潔先生が亡くなりました。
普段は代ゼミに通っていたものの、単科で駿台の授業もとっていたこともあり、奥井先生の代名詞、「駿台を巣立つ諸君へ」の録画を観る機会がありました。その中で奥井先生が、「教養は周囲の人を幸せにするためにあるんだよ」とおっしゃっていたことが忘れられません。
振り出しに戻りますが、やはり倫理的、動的な側面を無視してはいけないのだと思います。本を読むことも含めて、周囲の人たちを幸せにするために何ができるのかを考えて実践していくことこそが教養なんだろうな、とその時強く思いました。

「とりあえず今、何を学ぶか」はその時々、状況に応じて変わっていくにしても、そのことだけは忘れないようにしたい。
ともすると知識があることでマウントをとる手段になってしまいがちですが、そんな自分を外から見てみたときにカッコいいと思えるかどうか。そんな視点も持ちながら、日々を歩んでいきたいですね(途中から知識創造と全く関係ない話になってしまった💦)。

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