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【川の流れのように】

最近はコロナが明けたせいなのか、みんなで集まって食事が多くなったというのは自分だけではないだろう。そして、これは昔からなのだが、喧嘩などをして機嫌が悪くなると、そんな集まりの間にダンマリきめこんでしまうことがある。ダンマリしている時はちょっと申し訳なく思っているのだが、なかなか気分をいきなりハイに持っていくのは難しい。

血液型診断は今はあまり信じていないのだが、AB型は気分の浮き沈みが激しく、特に気分がよくない時は、よくムッツリしてしまうことがよくあり、しゃくれてしまうことがあると聞いたことがある。それはたしか松本人志さんと島田紳助さんの番組で言っていた記憶がある。ちなみに島田紳助さんはAB型である。

そして、最近、サンディエゴから遊びにきている、義姉とその長男がご飯に行く前に喧嘩をして、自分は気づかなかったのだが、その長男が義姉に対してダンマリ決め込んでしまっていたようで、その後、そのことについて日本語で話していて彼は日本語がわからないから何も聞いていなかった様子であった時があった。自分がダンマリ決め込んでいる時には、周りの人が自分のことを話しているまたは何か自分に言う時に、被害妄想で、何か悪く言っているのではないかと勘違いしてしまう時があり、それをこの長男についてその時話していた時に自分が彼の話をしている立場になって、その自分がダンマリしている時のその周りの人であると客観的にこの時、見れたのであった。その時、自分は彼がそういう態度をとっていたとしても全く気持ちもわかるし、ダンマリするのはしょうがないと思っていたのだが、彼のことを話していたこと自体が彼を傷つけていないか少し申し訳なく思ったのである。

要するに、ダンマリ決め込んでいる時は、被害妄想が大きくなり、本当は周りは何も悪く言っておらず、ただちょっと心配しているだけなのにそれを悪く捉えてしまいがちだということである。それは、ダンマリしている自分がちょっと申し訳なく思っており、幼いと思われているのではないか、低く見られているのではないかというその時の自己否定感が大きいと思う。

でも、最近はひろゆき氏が、場によって喋られること態度というのはそれ以上それ以下でもなく、それが自分の能力の範囲でそれ以上のパフォーマンスは出せないということを言っており、そうだなと思い、無理して気分を上げようとも思わなくなったとうのは実は成長であると思っている。気分悪くさせたものも悪いのだし、まぁそんな完璧な集まりばかりではないと。

加えて、心理学者アドラーについての本である「嫌われる勇気」という本の中では、本当に感情を出してはいけない人に対しては人間は実は抑えられるというようなことが書いてあった。例えば、夫婦で大声で喧嘩している最中、大事な人から電話がかかってきた時には実は声のトーンを抑えられるというようなことである。

だから、そのようにダンマリ決め込んでしまう相手というのは実は気を許している人たちであり、無理をして感情を上げるわけでもなく、川の流れのように、自然に自分の感情に任せるほうがいいのではと。そういった場所では気丈に振る舞うことが大人ということを言うのだけれども、それは誰かが決めたなんとなくの同調圧力であるとも思う。そういうように気分が上がらない時は、その場を離れるか、まぁ最低でも喧嘩にはならないように自分の感情にまかせてスマホでもいじっているのが一番いいのかもしれない。それが実は大人なのではと。

一概には言えないのだが、ダンマリ決め込んではいけない時には自然とダンマリ決め込まないし、自然体でいればいいということである。まぁこう見ると人間というのはズルいものであるなと思いつつ、自分で決められることは少ない自然な生き物であるのだなと思うのである。でも、やっぱりこうやって思えるのは他人の経験や知恵を借りられる本のおかげであるなとここでも思ったのである。


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