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【ショートショート】ユイム

 しばらくの間、自分がどこを歩いているのか向井忍は分からなかった。麦畑という名の駄菓子屋にさしかかった所でやっと、そこが実家に続く道だと気がついた。子供の頃、母とよく訪れていたパン屋もあり確信を深めるとふと懐かしい気持ちが沸き起こった。
その角を曲がれば、もうすぐそこに実家がある。
 実家の前に若い女性が立っていた。忍の姿を見つけると彼女は手首だけを動かし小さく手を振った。なぜならその腕には赤ん坊が抱かれており、忍はその女性が母の照美だとすぐに分かった。
「待ってたよ。随分と印象が変わったね」
「母さんこそ。何でそんなに若いのよ」照美の容姿は二十代の忍と変わらなかった。
「もう年齢なんて自由なの。だったら母さんだって若い頃がいいわよ」そう言って忍のよく知る照美の快活な笑い声が響いた。
「じゃあその赤ん坊って…」「詳しい話はあと。立ち話もなんだから中に入って」そう言うと照美は開け放たれたままの玄関に入っていった。忍もそれに続き、玄関を閉める。たてつけが悪く、重いはずの引き戸の玄関扉はスッとスムーズに閉まった。忍が扉をじっと見つめていると、早く入ってと照美の声に我に返り、まだ新築の匂いが残る玄関を上がった。
庭の縁側に並んで腰を掛ける。「驚いたでしょ。ごめんね急にびっくりさせて」照美は赤ん坊の背中を優しくトントンする。
「母さんから突然これが送られてきた時は半信半疑だった」忍は鞄から桐の小箱を取り出した。「これってユイムで読み方あってるのかな」忍は箱の蓋を照美に向ける。そこには『遺夢』の文字が焼印で押されいた。
「そうそうユイム。遺言は手紙でしょ。ビデオレターなんて形もあるけど一方通行は変わらない。遺夢は宛先となる人の夢に訪れて会って話をすることができるの。だから私は今あなたの夢にお邪魔してることになるの」
目の前に広がる光景はあまりにも現実で、夢の中と言われても忍は信じられなかった。
「じゃあ父さんと姉さんにも会ってきたの」
「二人はまだよ。お通夜とかもろもろの準備が忙しくて落ち着いて眠れてないみたい。意外とあんたが最初。てっきりもう会ってくれないのかと思った」フフフと照美は悪戯に笑った。
「私、結局母さんのお見舞いに一度も行かなかった」照美の容体が急変したと連絡があった時も駆けつけたい気持ちはあったが怖気づいてしまった。
そして死目に立ち会えなかった。その事実を思い出し、あまりに自分勝手な後悔に忍はいたたまれなくなった。
「…ごめんなさい。今の私のこともちゃんと母さんに伝えなきゃいけなかったのに」
赤ん坊がぐずりだし照美は立ち上がりあやした。「ちょっとこの子お願い」赤ん坊を忍に手渡す。忍はこわごわ赤ん坊を抱っこした。
「薄々気づいてる通り、この子が生まれたばかりのあなたよ。私があなたに遺したものを今から伝えるから。もう少しで帰ってくると思うわ」忍は何のことか分からず照美の顔を見た。「帰ってくるって…」ちょうどガラガラと玄関が開く音が聞こえた。
「照美。決まったぞ」と幼女の手を引いた男性が居間に入ってくる。忍は目を見開く。紛れもなくその姿は若かりし頃の父、雅之だった。ということは幼女は姉の朋子だ。
朋子の首には雅之のカメラがぶら下がっている。写真が好きな雅之はよく忍と朋子を撮影がてら散歩に連れていった。
「あ、お客さんが来てたのか」雅之は忍の存在に気付き声のトーンを落とした。
「学生時代のお友達で前でばったり会ったの。立ち話もなんだからって寄ってもらって」照美は忍に微笑んだ。「あ、お邪魔しています」と忍は思わず友人を装った。
「どうぞごゆっくりしていってください」雅之は会釈した。当然なのだが雅之の他人行儀さが可笑しかった。「いや、そんなことより決まったぞ。この子の名前だ」自分はまだ名前がついていなかったのかと腕の中ですっかり泣き止んだ自分を見つめた。
「太陽のように明るく真っ直ぐに育つように、陽一はどうだ」忍はドキッとした。
「我が家の長男坊なんですよ。翔太郎と最後まで悩んだんですがね」そう笑顔で語りかけてくる雅之に忍は言葉を返せなかった。
「お父さん。朋子の時にもし次生まれてくる時は、私が名付け親になる約束でお父さんの意見を通したんですよ。忘れたんですか」
「いや、そうだったかな。どうせまだ決まってないんだろう」「いえ、この子の名前はもう決めています」照美は自身の手に再び赤ん坊を抱きかかえると言った。
「忍です。どんな困難や苦しみにも耐え忍ぶ強さを持った大人になるように」
「忍か…もっと男らしい名前の方がよくないか」「いいえ、忍に決めました。この子は忍です」照美が言い切ると沈黙が流れた。
「しおぶー」朋子がカメラを構える仕草をした。雅之は慌てて「それならお外でお花を撮ろう」と朋子を抱きかかえた。「分かったよ。朋子も忍がいいみたいだし、その子は忍だ」そう言い残し部屋を出ていった。
照美は目に涙を溜めていた。「…忍。あなたは今でも忍なのね」「何よ。母さんが今決めたじゃない」よかったと照美は再び忍の隣に座った。「今のあなたの姿を見たから、私が決めなくちゃって。嘘も堂々とつけば通るのね。お父さんとあんな約束してないのに」照美は忍の長い髪を優しく撫でた。「もし陽一だったら、いつか名前を捨てないといけない日がくるでしょう」「これ、本当に夢なんだよね」「どんな生き方になっても、この名前で胸を張って生きて、忍」戸惑いと溢れる涙で忍は言葉にならない。朋子が庭に駆け込んできた。手に持ったカメラをこちらに向ける。「さあ、そろそろ時間ね。お父さんと朋子には私からちゃんと話しておくから。胸を張って会いに行って。そして、最期にちゃんと私に顔を見せに来て」「ちょっと待って。母さん、私…」「さあ、朋子が写真を撮ってくれるわ。泣いてちゃだめよ、笑顔でね」
「あいちーず」幼い姉が唱えるカメラに反射的に視線を送る。耳元で「大丈夫」と聞こえたのを最期にカメラのフラッシュが灯るとそのまま全てを白く包み込んだ。

 目が覚めると忍は涙を流していた。ゆっくりと起き上がる。枕元には蓋を開いた状態の遺夢が置かれている。
朋子から母の訃報を受けたその日、まるで図ったようにこの箱が届いた。同封の手紙には使い方と『夢の中で待っています』と照美のメッセージが添えてあった。
本当にあれは夢だったのだろうか。忍はまだ夢の中にいるような気分に包まれていた。

 電車は空いていた。しかし忍はドア付近に立って故郷の景色を眺めていた。一〇年ぶりの帰郷。その目的が母親の告別式に参列するためになるとは思ってもいなかった。
停車した二両編成の車両から降りた乗客は喪服姿の忍だけだった。改札を抜け、生まれ故郷の土を踏む。緊張で足取りは重くなった。
 遺夢とは違い、やはり月日の流れは街並み大きく変えていた。新築の家が目立ち、駄菓子屋麦畑も例外なく新築の家へと変わっていた。なのであのパン屋がまだ営業しているのを見つけた時はしばし緊張を忘れた。様々なパンが並ぶ窓ガラスにスカートスーツにパンプスを履いた自身の姿が映ると我に返った。すぐそこの実家が遥か遠くに感じられる。
一〇年前に飛び出した実家は当時のまま変わっていなかった。母の名を記した葬儀看板だけが強烈に現実を突きつける。あと少しで玄関だが足が更に重くなる。心の準備は出来ていない。だが母に顔を見せたい。その一心で覚悟を決め、忍はついに重たい玄関扉を開けた。
 所狭しと靴が敷き詰められた玄関に、慌ただしく行き交う親戚の女性達。予想外なその活気に喪服姿でなければ正月の集まりに来たような錯覚を忍は覚えただろう。玄関に佇む忍は一人の女性と目があった。その女性は雅之の妹で叔母の千賀子だとすぐに分かった。最後に会ったのはこの家を出る遥か前だ。
「あの…失礼ですがどちら様ですか」当然彼女は今の忍を知らない。「…忍です。おひさしぶりです」相手が初対面でない無礼に千賀子は狼狽えた。しかし忍という女性に心当たりなどなく、彼女に芽生えた小さな可能性が膨らみ状況を理解するにつれてその表情は戸惑いと混乱の色に染まった。「まさか…忍って、あの忍ちゃんなの」
「あ、千賀子おばさんここにいた」奥から喪服の上に前掛けをした朋子が駆け寄ってきた。千賀子は朋子の腕を掴むと「朋ちゃん、忍ちゃんが」と咳をきるように言葉を吐き出した。朋子は玄関に立つ女性の全身を下から上に舐めるように見上げそれが弟の忍だと認めると口をぎゅっと閉じた。「千賀子おばさん、父さん呼んできてもらっていい」千賀子は小刻みに頷くと奥へと急いだ。「母さんとはもう会ったの」「遺夢のことだよね。会ってきた。だから今日この姿でここに来たの」
そう、と朋子は小さく返事した。
「忍…なのか」雅之が奥から険しい形相で現れた。今にも忍に飛びかからんとするその姿に朋子は思わず腕を掴んだ。「父さん、ダメだよ。分かってるよね」「ああ、分かってる。母さんと約束したからな、お前の話をちゃんと聞くって」雅之は忍の方を向き直した。
「だからお前も逃げずにちゃんと俺らと向き合ってくれ。…家族じゃないか」
忍の頬に涙が伝う。「わかった…」
「俺は昭和の古い人間だからな、正直まだお前の選択を許した訳じゃない。だが母さんが俺たち家族を繋ぎ止めようとしてくれているんだ。それには応えたい。だから早く母さんに顔を見せてこい」そう言うと奥へ消えた。隣で涙を拭う朋子は一枚の写真を忍に差し出した。
「遺影の写真を決めるのにアルバムを探してたら出てきての…」忍はその写真を見て言葉を失くす。
「遺夢って本当に夢なのかな」朋子は呟いた。
そこには生まれたばかりの忍を抱く若い照美の姿と、その横で泣きそうに微笑む女性の姿が写っていた。写真を裏返すと色褪せたボールペンの文字。
『忍と久しぶりに出会った友人と 彼女の名前も忍。まるで夢みたい』

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