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日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_4 中世

平安末期に武士が台頭して来ます。武士は基本的に農民ですから、この頃からようやく「コメ」を作る喜びの萌芽のようなものが表れて来たのでしょう。

しかし、武士が権力を握る鎌倉時代から戦国時代まで「コメは権力」の時代は、まだまだ続きます。

鎌倉時代、製鉄技術に革新があり全国の農民に鉄製農具が普及します。
また、西日本では牛が、東日本では馬が、農耕に使われるようになり、それまで肥料といえば草木を刈り出し焼いた灰(肥灰)だけであったものが、家畜の排泄物(厩肥)の利用へと変化していきます。
このあたりは明らかに、農民のやる気の変化でしょう。

そして、この頃に肥料が多くなると茎が長く成長してしまい、実を保持できなくなり、収量が減ってしまうという、熱帯ジャポニカ米が自然淘汰されて行ったようです。
案山子の普及や灌漑装置としての水車も、畿内から発達し、室町時代には諸国へと普及し、旱魃に対しては強くなって行きます。

また、飢饉対策として裏作で麦を作る二毛作も、西日本を中心にゆっくりと広がって行きましたが、地力の衰えなどから、かえってコメの収量は減少したようです。

大唐米というインディカ米も、西日本の貧しい人々を支え続けたようです。
この種は早生(ワセ)で収穫が早くなるため、戦国時代においては、刈田の被害に遭いにくいばかりか、早い時期に軍隊を編成できるという利点もあったようです。

鉄製のナベが普及し、今まで蒸していたコメを、今日のように炊くこととなり、武士や貴族は1日に3食取るようになります。惣村の成立や発達もあり、農民による土一揆も100年間位続いています。

鎌倉時代後半、人口は100万人ほど減少します。世界的な巨大火山の噴火が4回もあり、太陽活動も低下期に入り、世界規模の寒冷化は農業改革を上まわるものだったのでしょう。1231年の「寛喜の飢饉」は、日本の歴史上でも最悪の飢饉であった可能性は高いようです。

古代から中世まで、旱魃や冷害・長雨による飢饉は、3~4年に一度の頻度で発生しており、旱魃由来が少なくなるとはいえ、3~4年に一度という頻度は、近世にまで続きます。

この時代に、宗や明から銅銭が流入し、慢性的なデフレ基調とはいえ、貨幣経済が発達します。
中央銀行の役割を担っていたのは貿易などで大儲けをしていた、ヤクザな寺社勢力でした。

室町時代、平均的な金利は月利8%です。これは単利で年換算すると年率96%もの高金利でした。
稲作は一粒のモミから、やせた薄田でも50粒、肥沃な上田では100~200粒を超える収穫になります。
借りた種籾に、5割や10割の利子を付けて返しても、農民にとっては全く苦になりませんでした。

種籾の貸し出しは「出挙(スイコ)」と呼ばれ、日本の高利貸しの原点のようなものです。

しかし、これはあくまで気候に問題がないという前提の話です。鎌倉・室町時代には、たびたび借金を帳消しにする「徳政令」が発布されています。

この時代、味噌や醤油、澄んだ清酒、焼酎もあるなど、食文化をはじめ、土木工事や様々な技術が向上します。

室町中期に1000万人に達した人口は、安土桃山時代に1200万人となり、近世へと続きます。

※ほとんど丸写しも多い参照資料
◎著者:佐藤洋一郎氏
『イネの歴史』京都大学学術出版社
『稲の日本史』角川ソフィア文庫
『米の日本史』中公新書
◎著者:奥田昌子氏
『日本人の病気と食の歴史』ベスト新書
◎著者:田家康氏
『気候で読む日本史』日経ビジネス人文庫
◎著者:鬼頭宏氏
『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫
◎著者:上念司氏
『経済で読み解く日本史』飛鳥新社
◎著者:井沢元彦氏
『中韓を滅ぼす儒教の呪縛』徳間文庫
『動乱の日本史(徳川システム崩壊の真実』角川文庫
◎著者:蒲地明弘氏
『「馬」が動かした日本史』文春新書
◎著者:山本博文氏ほか
『こんなに変わった歴史教科書』新潮文庫
◎著者:小泉武夫氏
『幻の料亭「百川」ものがたり』新潮文庫
◎著者:山と渓谷社編
『日本の山はすごい!』ヤマケイ新書
◎著者:森浩一氏
『日本の深層文化』ちくま新書
◎著者:佐々木高明氏
『日本文化の多重構造』小学館
◎著者:原田信男氏
『日本人はなにを食べてきたか』角川ソフィア文庫

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