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憲法は解釈が9割[憲法は自分たちで好きに読み替えてよい]

この記事は9,902字です。

一時期ネット上で騒がれた「パンデミック条約」について、以下の記事を書いた。

これらの問題が直ちに我々の生活を脅かすわけではないが、我々の「外堀」は確実に埋められていっている。

「本丸」は憲法改正だ。

改憲論議が沸騰してしまう前に、「憲法の本質」をじっくり考えておきたい。


[1]改憲論議の前にすべきこと

憲法改正に向けた流れが加速している。

🔷 緊急事態条項反対 !!
🔷 戦争反対 !!
🔷 平和憲法維持 !!

反対運動は大いに結構であるが、その運動が盛り上がれば盛り上がるほど分断が進むし、内部工作は進むし、恣意的な暴力行為も発生するであろうし、そうなればマスコミに逆利用されてしまうであろうし、改憲を阻止しようとしてもなかなか「打つ手なし」「八方塞がり」の状況である。

「安保闘争」のような騒乱社会になる前に、(今の日本人の大半は反対運動すら起こさないであろうが、)

1️⃣ そもそも憲法とは何なのか
2️⃣ 我々はどういう社会を作りたいのか

について、今のうちにじっくり考えておく必要がある。


[2]憲法の条文を読む

そもそも、憲法をまともに読んだことのある人はどれくらいいるのだろうか。

103条からなる短い法典である。

大きく分けると、
◆ 前半は「基本的人権」
◆ 後半は「統治機構」
について書かれている。

「統治機構」というのは、我々の人権を守るための国の仕組み、具体的には「国会・内閣・裁判所・財政・地方自治」といった国家運営システムを指す。

これらももちろん大切であるが、肝心かなめの我々の権利は「基本的人権」として前半に書かれている。

「第3章国民の権利及び義務」(第10条〜第40条) に書かれているので、是非目を通してほしい。

以下、重要部分を抜粋する。

==========================
11条 すべての基本的人権の享有。
   侵すことのできない永久の権利。
12条 国民の不断の努力によって、
   これを保持しなければならない。
13条 国民は個人として尊重される。
14条 すべて国民は法の下に平等
15条 参政権。普通選挙。
16条 平穏に請願する権利。
18条 奴隷的拘束を受けない。
19条 思想及び良心の自由。
20条 信教の自由。
21条 集会、結社及び言論、出版その他
   一切の表現の自由
   検閲の禁止。通信の自由。
22条 居住移転職業選択の自由。
23条 学問の自由。
24条 婚姻の自由。
25条 健康文化的な生活。
26条 ひとしく教育を受ける権利。
29条 財産権
==========================

我々の暮らしを支える絶対的条文だ。

シンプルではあるが、これらの条文が、現在の我々の根幹を支えていることを今こそ再認識するべきだ。


我々が普段当たり前のように享受しているこれらの権利は、明治・大正・昭和と続く苦難の歴史を経て日本人がようやく手に入れた「苦労の賜物」である。

現実的な歴史背景としては「アメリカからのお仕着せである」とか「アメリカ隷属支配の象徴である」とか、様々な解釈をすることも可能であるが、いずれにせよ、我々の現在の暮らしを支える「基本ルール」であることに変わりない。

来年行われる可能性の高い改憲論議において、これらの「基本ルール」をどう捉え、どう変えるのか、「日本人としての我々の見識」が問われる。


[3]条文なんて不十分なもの

私は弁護士を目指して京都大学法学部に入学し、司法試験の勉強に勤しんだ (いそしんだ) のであるが、10年にわたる苦労の末、ようやくひとつの結論に辿り着いた。

法律は、何にでも読み換え可能の、至極いい加減なものである。

これに尽きる。

脳科学者の茂木健一郎氏が同種のことを述べている。

彼は東大理学部と東大法学部を卒業したが、「法学部の教授ほどいい加減な存在はない」と言い切っている。

東大の運営についての学内会議において、法学部の教授たちは「規則を柔軟に解釈することにより、如何ようにも対応しましょう」という旨の発言をしたという。

茂木氏はこの発言を目の当たりにして「法律の無意味さ」に絶望したとのことであるが、私も20代半ばにして同様の絶望を味わった。


[4]六法全書は正義のバイブル ?

私の祖父は、東大阪市の貧しい労働者たちに毎週パンを配り歩く「人権派弁護士」であった。

その祖父は私の生まれる前に亡くなったのだが、祖母からその武勇伝を耳にタコができるほど聞かされ、「弁護士はさぞやり甲斐のある職業なのだろう」と思って私は弁護士を目指した。

しかし、大学で勉強を進めるにつれ、世の中の現実、世の中の裏側が見えてくる。

六法全書を武器に弱者を救う。

そう願っていた私の志は見事に打ち砕かれた。

祖父の時代はまだ希望があった (と思わされていた ? ) のかもしれないが、そこから時が経つにつれ、世の中は変化し、「弱肉強食」「自己責任」の社会的価値観が蔓延しだした。

結局「金 (かね)」のある者が強い。

弱者はずっと弱者のままで這い上がれない。

経済的奴隷支配の完成。

そういう社会構造の実態を理解したとき、私は絶望した。

法律では人々を救えない。

私はそう考え、教育の世界に転身した。

純真無垢な子どもたちに少しでも明るい未来を提供したい。

そんな一念で私はここまで進んできた。


しかしながら、そんな教育の世界もなかなか上手くは進まない。

世の中全体の支配体制強化が進み、子どもたちは管理され、コントロールされ、その潜在能力を自由に発揮できない状況に追い込まれている。

学校では言いたいことも言えず、我慢ばかり強いられ、その顔は生気を失っている。

子どもたちの親はそんな我が子に向き合う精神的・時間的余裕を持たず、「見て見ぬふり」で日々の生活に忙殺される。

子どもも大人もそんな絶望的な状況の中で、このパンデミック条約騒ぎ・改憲論議である。


心身ともにギリギリの状態に追い詰められた我々日本人が、果たしてここから立ち上がることができるのか。

その底力が問われている。


[5]自分に都合よく読み替える

私は司法試験の勉強を進める中で、「最高裁判所のいい加減さ」を嫌というほど味わった。

そこに「正義」など一切なく、とにかく行き当たりばったり。権力におもねる。時代におもねる。屁理屈のオンパレード。何の論理性もない。支離滅裂。

「憲法の番人」として弱者救済の最後の砦である最高裁は、さぞ素晴らしい正義の理念を持って戦後の日本社会と向き合ってきたに違いない。

「自分の生きる道標 (みちしるべ) 」を探して暗中模索していた私の期待は大きく裏切られた。


司法とはそういうものである。

テレビに出ている弁護士を見るといい。

口達者。口から出まかせ。その場しのぎ。

それが司法の世界である。


それが法律の世界というものなのであるが、時ここに至り、世の中がここまで乱れてしまった現在、我々はその法律のルールを逆手にとって生きるべき時代に入った。


今まで我々は、真面目に法律に従い、法律のいい加減な運用にも文句を言わず、ここまでずっと頑張ってきた。

いま世の中の支配構造の仕組みが明らかになり、向こう側の手の内も明かされ、法律や政治・経済がどのような仕組みで作られているのかはっきりと明確になった現在、我々はその土俵の上でようやく対等に戦えるようになった。(そう思わされているだけかもしれないが。)


憲法や法律は所詮、誰かが勝手に決めた、いい加減なルールである。

しかも、マスコミや世論といった得体の知れない存在が、そのルールを勝手に解釈して読み替え、その結論を我々に不当に押し付けてきた。

オリンピックなどの世界スポーツを考えると分かりやすい。

スキージャンプ然り、柔道然り、日本人が台頭し始めると、途端にロビー活動が活発化して、日本人に不利なルール変更がなされる。

従順で勤勉な日本人は、その都度その変更に合わせて奮闘してきたわけであるが、もういい加減、向こう側の勝手なルール変更に付き合う必要はない。

そのルールと舞台から降りればいいだけのことだ。

今、我々は自分の「本当の内面」に向き合い、自分がどのように生きたいのか、自分がどのような社会を作りたいのか真摯に向き合い、それらを「憲法・法律の解釈」として声高に主張すべき時がきているのである。


話が大きくなり過ぎたので戻す。

「条文の読み替え」の話である。


[6]一次情報を大切にする

ネットで騒がれた「パンデミック条約」を例に話を進める。

パンデミック条約と国際保健規則を日本が受け入れた場合、国連の一諮問機関である「WHO(国際保健機関)」が、日本国より上の統治機関として、我々の私権を直接制限できるようになるというものだ。

【注】これはネット上のデマであり、実際にはこのような激しい内容の条文は存在しない。以下、そういう危険な条約が存在するものと仮定して話を進める。

法律問題を考える場合、我々がまず何より第一に検討しなければならないのが「条文」である。

これは法律家でなくても万人が知っておくべき当然の大前提なので、あなたもぜひ認識しておいてほしい。

何事もまずは「一次情報」に触れるということである。

「条文に書いてあるかどうか」

チェックするのはただそれだけである。


日本国憲法に違反する可能性の高い条約が批准された場合、日本ではどうなるのか。

条約は日本でどういう効力を持つのか。

日本国憲法の条文を読めばいいのだ。


我々は、こんな簡単なことすら今まで誰にも教えられてこなかった。


法律は「難しいもの・ややこしいもの・専門的なもの」というイメージ付けがなされ、「専門家にしか扱えないもの」という風に思い込まされてきた。

そんな洗脳・まやかしが行われる裏で、法律のいい加減な「解釈」「読み替え」が延々と続けられ、我々は延々と翻弄され続けてきた。


しかし、本来「法律」は簡単なのだ。

そこにある条文を読むだけでいい。

そして、そこに書いていないことは適当に読み替えて、自分たちの好きなように決めていい

それだけなのだ。


私はこのことを知るのに10年かかった。


憲法や法律には、ごく基本的な簡単なことしか書かれていない。

そのあとの細かな具体的な内容は、その場その場で臨機応変に読み替える。

法律とはそういうものなのだ。


したがって、法律のその解釈には何の「裏付け」もないし、何の「実効性」もないし、何の「実態」もない。ただの亡霊のようなものだ。


「ある時点」での権力や世論がそのとき適当に決めた「その解釈」が、その時点に存在するだけだ。

その解釈は「今の」権力や世論が適当に読み替えてよい。

法律とはそういうものなのだ。

◆人殺しは罪なのか?
➡︎江戸時代は武士に「斬り捨て御免」が許されていた。

◆銃は違法なのか ?
➡︎アメリカでは合法である。

法律とはそういうものだ。

初めに決まった「解釈」に何の正当性もないし、何の強制力もないし、今の我々が従う必要性はどこにもない。

その時の単なる「空気のような世論」が決めたに過ぎない。

我々はそのまやかし・亡霊から目を覚まし、今こそ自分で自分たちの未来を決めるべきなのだ。


[7]最高裁はイソップのコウモリ

また話が大きくなったので戻す。

日本におけるパンデミック条約の位置付けはどうなるのか。

憲法の条文を読んでみると、兎にも角にも「条文のどこにも書かれていない」。

それに尽きる。

ということは、今の我々が自由に決めていい

それに尽きる。


「条約が憲法より強い」とは憲法のどこにも書かれていない。

「憲法は国の最高法規である」と条文 (98条1項) に書かれている。

ということは、不当な条約は憲法違反である。

そんな風に素人考えで決めつけてしまって構わないのだ。


最高裁判所の判例をみても、そのほとんどが屁理屈の小賢しいこじつけのオンパレードに過ぎない。

そこには何の論理性もないし、明確な理念もない。

その時々の権力に配慮した単なる「作文」だ。


茂木健一郎氏の怒りと同じである。

そこには何の真理も真実もない。


我々はそんなものに惑わされてはならない。


一応のところ、判例や学説には歴史的な積み重ねがあるので、一応のところ、それは尊重すべきである。

世の中の流れを安定させるために、本来的には尊重すべきである。

無駄に世の中を乱さない安定性が、本来的には大切である。


しかしながら、最高裁判所はそんな流れを無視して、これまで何度も「朝令暮改」を繰り返している。

「判例変更」などザラである。

「今までの流れ・積み重ね」など、ないに等しい。


今回の「条約」について、これまでの判例の流れを踏襲するならば、「最高裁はパンデミック条約の司法判断を避ける」というのが妥当なところである。

しかしながら、結局のところ、最高裁はそんな歴史的積み重ねを尊重しているわけでは決してなく、その時の権力と世論がどちらを向いているか、それしか見ていない。

「今の世の中の状況を見ると、コロナに対して踏み込んだ意見を出すべきではないな」

そう考えればそういう判決を書くことができる。

「解釈の方向性」など、左右どちらにも如何ようにも転換させることができる。

司法とはそういうものなのである。

パンデミック条約について、「憲法に反する不当な条約だから違憲無効である」と真っ向勝負で正論を突きつけることもできるし、「高度の政治性を持つ条約だから司法審査の対象外である」と逃げることもできる。

司法は所詮そういう存在なのである。


[8]戦後日本の本質

我々は、そういう不安定な、いい加減な、何の絶対性もない、そんなくだらない存在に、我々の大切な暮らしの「番人」を任せてきたのである。

最高裁は「憲法の番人」として我々の基本的人権を守る絶対的存在であると憲法に規定されているが(81条)、何のことはない、単なる空気・亡霊に我々は「守られているつもり」でいただけだ。


確かに、日本国憲法には素晴らしい理念がたくさん書かれているから、「これこそ平和憲法だ!!」「憲法のおかげで我々は平和に生きてこられた!!」と感謝したい気持ちも理解できる。

ただ、しかし、それは本当に憲法が実効性を持って、絶対的な力を持って我々を守ってくれたというわけでは決してない。

裁判所は決して我々の強固な守護神ではなかったし、戦後からずっと右往左往のらりくらりと立ち振る舞いながら、何となくのその場の空気で発言を二転三転させてきた。

戦後の日本社会がたまたま上手く回ってきただけのことである。アメリカを中心とする連合国側がそのようにコントロールしてきた。

コントロールする側にとっての単なる舞台装置、単なる演者として、裁判所は彼らの都合に合わせて利用されてきただけに過ぎない。

経済政策における財務省の役割と同じである。


「手品のタネ」が明かされてしまった今、裁判所の実態が知れてしまった今、我々は、憲法や法律・裁判所・司法などといったものが何の実態も持たないことを、はっきり認識しなければならない。

「戦後」「高度経済成長」「バブル」などといった、政治やマスコミによって作られた「単なる空気」に我々は騙され続けてきた。

ただそれだけの話だったのだ。


[9]そこに実態はあるか 

我々が「日本国」と思い込んでいるもの。

「日本国憲法」に書かれているもの。

「法律」だと思っているもの。

「ルール」だと思っているもの。

「守らなければならない」と思い込んでいるもの。

「ある」と思っているもの。


そんなものの実態はどこにもない。


果たして「法律」は「ある」のか。

一体どこに書かれているというのだ。

ジョージア・ガイドストーンのように、石碑が実際に建っているのか ?

我々が「法律」と思い込んでいるもの。

それは、国会という舞台で「勝手に作られたルール」。

国会が単なる「茶番の舞台」でしかないことは、もはやネット上では周知の事実だ。


「今日からこう決まりました」と、どこからかアナウンスされただけの勝手なルール。

「今日から遵守してください」と押し付けられた勝手なルール。


真面目で素直な日本人は、そのアナウンスに従い続けてきた。

ただそれだけの話。


考えてみれば、「日本国憲法」というものも、どこにも存在しない。

「碑文」があるわけでもない。

国会の茶番劇を考えると分かりやすい。

日本国憲法も単なる「台本」に過ぎない。


「日本国など存在しない」「日本国憲法など存在しない」という論説がネット上にあるが、そういうことだ。

ただ、注意しておかなくてはならない点は、こういう論説がそこから話をわざと飛躍させて、「だから日本は乗っ取られている」「イギリスの植民地になっている」などと我々を不安と恐怖の渦にミスリードしようとしてくるところだ。

確かに、憲法の実態は存在しないし、日本国の実態も存在しない。

しかし、それならば、「支配国」も「イギリス」も存在しないし、日本がそんな亡霊国の植民地であるはずもないし、我々はそもそも誰からも支配されていない。

タネを明かせばそういうことなのだ。

それが真実である。


WHO (世界保健機関) は国際連合の一諮問機関に過ぎない。

そんな得体の知れないものが、どうして我々の基本的人権を一方的に制限できようというのか。

そもそも、我々は日本国憲法にすら従う必要がない

「憲法尊重擁護義務」は国民にない。

憲法自体が「国民は憲法を守らなくてもよい」と宣言している。

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。

憲法99条

99条には「国民」と書かれていないので、国民に憲法尊重擁護義務はないと解するのが通説である。

我々にとって、憲法というものは、自分たちの人権を守るために、不断の努力 (12条) でそれを保持する必要こそあるが、その憲法を遵守する必要はなく、ましてや我々の意思に反して不当に拘束されるいわれなど毛頭なく、「単なる道具」として自分たちのために、自分たちが生きやすいように自由に使えばよい、そういうものなのだ。


これが世界の成り立ち。タネ明かし。

憲法も国もWHOもすべてまやかし。

パンデミック条約が批准されようとも、緊急事態条項が加憲されようとも、我々は守る必要がないのだ。

宗教と同じ。

信じたい人がいるから神は存在するのであって、誰も信じなければ神は初めから存在しない。

「人々は自分たちの真の力を知らない」


[最終章]決めるのは自分たち

我々はそんな愚かなシナリオに騙され続けて生きている。

戦後・高度経済成長・バブル崩壊・失われた30年…  私たち日本人は必死に働いてきた。

その汗と努力は紛れもない「事実」であるが、それらの背景にある物語はすべて単なる「脚本」「台本」に過ぎなかった。


通貨発行の仕組みについて別記事で述べたが、そもそもの経済の仕組み自体が外部勢力によって無理やり強制され、経済発展の「脚本」が作られ、今その脚本通りに「没落」の一途を辿っている。

我々は今ようやくそのカラクリに気付いた。


もう手遅れかもしれない。


しかし、ここがスタートラインなのかもしれない。


ようやく目覚めた私たち。

ここから自分たちで自分たちの脚本を書く。

それが「日本国憲法」だ。


「改憲は絶対悪」と考える人も多いが、そんなことはない。


憲法は我々の「台本」である。

我々が自由に書き換えてよい。

本来そういうものだ。


だから、何度だって書き換えていいし、不都合なら修正すればいい。

それだけのことだ。


我々一人ひとりがどのように生きたいのか。

どのような社会を作りたいのか。

それを決めるのが改憲論議だ。


ただ、これは理屈上の話である。


現実問題として、マスコミが恣意的な世論を形成する現代日本社会において、国民レベルで真っ当な改憲のできる可能性はない。


真に我々の望むような憲法にこれから新しく書き換えることは不可能だ。

たとえ書き換えたところで、どうせその後に「解釈」するのだから、本質的に改憲は無意味である


もし「緊急事態条項」が加憲されたとしても、その「解釈」や「運用」は、その後の我々日本人の問題なのだ

我々日本人が確固とした信念を持ってこれから生きるならば、たとえ「緊急事態条項」が存在しても自分たちの思うように自由に生きることができる。

たとえ「緊急事態条項」がなかったとしても、我々がいい加減であやふやな生き方を選ぶならば、我々に不都合な独裁的政策がまかり通ることになる。


とすれば、我々はこれからどうすればよいのか。


改憲論議については「現状維持」がベストだ


現実的な憲法論として、日本国憲法というものは、現状まずまずよくできている。

不備をあげればキリはないが、現在の憲法を維持しながら、「解釈」で現状に適応させていくのが、我々のとりうる最良の策である。

例えば「プライバシー権」「肖像権」などの「新しい権利」は憲法のどこにも書かれていないが、13条「個人の尊重」を「解釈」して、我々がそれらの権利を新たに生み出したのである。

改憲に反対しても賛成しても、それが「反対運動」「賛成運動」となってしまう限り、我々に不利な方向にミスリードされてしまう。

今ある日本国憲法の条文に、我々がどのような「解釈」を加えるか。どのようなエネルギーを乗せるのか。それが最も大切なのである。

憲法問題といえば、とかく「護憲派」と「改憲派」に二分されがちであるが、それがミスリードだ。

第三勢力として「解釈派」が存在するのである。 

憲法論議の新3要素
1️⃣ 護憲派
2️⃣ 改憲派
3️⃣ 解釈派   ⬅︎ New!!

「解釈」というのは、結局のところ「我々一人ひとりの考えの集合体」である。

我々一人ひとりがどう考えるか。

それに尽きる。

護憲派も改憲派も、「上から与えられたお仕着せ憲法に何とかしてもらおう」という乞食精神に他ならない。

「自分たちの運命は自分たちで決める」

その精神こそがこれからは大切なのである。(=解釈派)


現在の世論はマスコミによって操作され、SNSにおいてはミスリード・分断工作が何重にもわたって施されている。

そんな中で、我々一人ひとりが「本当に自分はどう生きたいのか」「本当に自分はどういう社会を作りたいのか」その考え方が問われる。


改憲論議とはそういうものである。


今後、我々日本人の底力が問われる。


「集合意識」などというスピリチュアル用語もあるが、「我々日本人がどう生きたいのか」「我々日本人がどのような日本を作りたいのか」結局のところ、その強い気持ちが問われる。


専門的な法律論は今後意味をなさない。

一言でいうなら「イメージ」「エネルギー」「パワー」「情熱」「こころ」そういった目に見えない力を如何に通じさせるか。

それに尽きるのではないだろうか。


私は、日本人にそういう力がまだ残っていると信じている。

私は日本人の目の奥にそういう力をはっきりと見る。


いくら洗脳教育が施され、肉体を蝕まれ、経済的に追い詰められようとも、我々の芯の芯には、熱い情熱が眠っていると信じる。

結局のところは「我々の熱い思い」。

それをいかにして伝えるか。広めるか。

それが肝心だ。


「蟻の一穴 (いっけつ) 」という言葉がある。

たとえ小さな穴であっても、ひとたび穴が開けば、大きなダムすら崩壊させることができる。


我々一人ひとりが、真剣に自分のことを考え、周りのことを考え、社会のことを考えるならば、そのエネルギーは必ずや大きく伝播する。

いったん広がり出したら、その流れは止まらない。


「悪の支配者」とされるグループが一致団結して執念深く計画的に用意周到な努力を続けているように、我々の間にも「通じ合う情熱」「強いエネルギー」が必ずあるはずだ。


時ここに至り、いよいよその悪のパワーと善のパワーが直接ぶつかり合う最終局面に入った。


我々の体の腸内細菌は、
善玉菌 : 悪玉菌 : 日和見(ひよりみ)菌 = 2 : 2 : 6 であるという。

悪の力が強くなり過ぎた今、そのパワーバランスを平衡状態に戻さなくてはならない。

体にとっては「善」でも「悪」でもなく、そのどちらもが大切であるという。


何も「10 : 0」で圧勝する必要はない。

「2 : 2」のバランスに戻すだけだ。

体はそれが一番健康だという。

日本国内で言えば、ほんの数千人・数万人で事足りるのかもしれない。

「6割の日和見」は自ずと動く。


我々のエネルギーを乗せて、パワーを乗せて、周りに伝播させていくことで、きっとそれらは世界へと伝わっていく。

その可能性を最後まで信じながら、これからの日本を、世界を、力強く、皆さんと共に生きていきたい。(了)

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