【論点】パンデミック条約と日本国憲法の関係性
WHO (世界保健機関) で策定中の「パンデミック条約」がネット上で騒がれているが、日本がこの条約を批准した場合、どういう影響が生じるのか。その法的効果を考える。
[1]WHOが世界を統治する?
ここでいう「パンデミック条約」は以下の2つを指す。
1️⃣ パンデミック条約案
2️⃣ 国際保健規則の改定 (IHR)
日本国がこれらを受け入れた場合、今まで国連の一諮問機関にすぎなかった「WHO」が、日本国よりも上位の「統治機関」として君臨するという。
そして、その統治機関が我々日本国民の様々な私権を制限するという。
実際のところ、このような極端な内容の条文は存在せず、ネット上の誇張・デマなのであるが、仮にこのような条約が批准された場合どうなるのか。
実務上は、条約を批准する場合、日本国内で関連法を整備する必要があるから、日本国憲法に違反するような条約部分はそもそも批准しないのであるが、仮に上記のような条約を批准した場合どうなるのか。
WHO が日本国という存在を飛び越えて、我々日本国民の基本的人権を侵害することは、法的に可能なのか。
[2]日本国憲法の条文を見る
「パンデミック条約」と「国際保健規則」を受け入れた場合、日本国は「誠実に遵守すること」が求められる。
しかし、それが日本国民の基本的人権を不当に侵害するような条約であっても、日本国は「誠実に遵守」しなければならないのか。
「日本国憲法と条約の優劣関係」が問題となる。
[3]条文を「解釈」する
憲法98条1項を見てみよう。
日本国憲法は「国の最高法規」であると記されている。
憲法の方が「法律・命令・詔勅」より上だと書かれている。
しかし、「憲法と条約の優劣」については記述がない。
「国務に関するその他の行為」に「条約の締結」は含まれるのか。
憲法は103条まであるが、それらのどの条文を見ても、「憲法と条約の優劣」について、明確には書かれていない。
では、どうするか。
条文を「解釈」するのである。
[4]法律の作られ方
そもそも法律というものは、将来起こりうる全事象を具体的に想定して書くことなど不可能であるから、ある程度の大枠だけを想定して抽象的に書かれている。
「殺人罪」の条文には、たったこれだけしか書かれていない。
巷では様々な殺人事件が発生するが、その一つひとつの事象について、予め想定して法律として書いておくことは不可能だ。
実際に事件が起こった後に、裁判所が条文を「解釈」して、殺人罪に該当するかどうかをチェックしていくのである。
例えば、母親のお腹の中にいる「胎児」を故意に殺害した場合、「殺人罪」が適用されるのか。
条文における「人」の定義が問題となる。
「母親のお腹の中で胎動して生きているのだから胎児はもちろん『人』だ」と考えることもできるし、「胎児は母体の外に出て初めて『人』として周りから認知されるのだ」と考えることもできる。
「分娩中に胎児の父親が死亡したときに、胎児は父親の遺産を『相続』できるのか」など、「人」についての「解釈」は民事事件でも問題となる。
このように、法律の条文には単に「人」としか書かれていないが、具体的な事件においては、その「人」の範囲を「解釈」する必要があるのである。
この「解釈」はもちろん裁判所が行うのであるが、裁判所がその作業を行う際には、大学の法学部教授たちの「学説」が参考にされることが多い。
学者は「普遍的で万人に通じる解釈」を目指して独自の理論を練り上げ、自分の名を後世に残そうと張り切る。
学会で喧喧諤諤(けんけんがくがく)の議論を交わし、あらゆる批判に耐え抜いた学説が「通説」として定着する。
裁判所はそのような「通説」を採用し、「判例」として積み上げながら「解釈」を定着させていく。
国会の行う「立法」は文字通り法律を作る作業であるが、裁判所の行う「司法」は「法律を司る」すなわち「法律を解釈する」作業であると言うことができる。
裁判所は、個別具体的な事件に際して、法律の抽象的な条文を「解釈」し、それら事件の妥当な解決を図る機関なのである。
結局のところ「解釈」とは、言ってしまえば、条文に書かれていない内容を「自分たちで都合のいいように読み替える」という作業である。
すなわち、憲法98条1項には「憲法が国の最高法規であること」しか書かれておらず、その他のどの条文にも「憲法と条約との優劣関係」が書かれていないので、98条1項の条文を何とか無理やり「解釈」して両者の優劣を決めるしかない、というわけである。
これがいわゆる「司法の世界」である。
「法律の解釈」「法律の読み替え」「事件の妥当な解決」が裁判所の本来的な役割である。
[5]憲法と条約の優劣
「学説」などと言っても大したことはなく、結局のところは「憲法と条約のどちらが優位か」について、常識や時代性を考慮しつつ、様々な理由づけによる正当化を行うに過ぎない。
●憲法優位説
【結論】憲法を条約より上位と考える。
【理由】憲法の最高法規性。国民主権。基本的人権。
【欠点】相手国との関係性・利害が損なわれる。
●条約優位説
【結論】条約を憲法より上位と考える。
【理由】相手国との関係性・利害を考慮する必要がある。
【欠点】憲法に反する内容の条約を締結した場合、憲法改正の手順を経なくとも事実上の改憲と同じ結果になってしまう。
通説とされるのは「憲法優位説」である。
そもそも憲法は、①国会・内閣といった統治機構の暴走に歯止めをかけて、②国民の基本的人権を守るためのものである。
したがって、「内閣が締結した条約」よりも、「国民を守る憲法」の方が優位であるとするのが、常識的で妥当な結論であると言えよう。
最高裁判所の裁判例 (判例) においても、概ねこの考え方が採用されている。
[6]パンデミック条約の合憲性
とすれば、日本国憲法に反する条約が締結された場合、その条約は「違憲無効」になると考えられそうである。
「憲法 > 条約」であるなら当然の結論であるし、上記の「条約優位説の欠点」にあるように、「憲法に反する内容の条約を締結した場合、憲法改正の手順を経なくとも事実上の改憲と同じ結果になってしまう」という不都合が生じるため、その矛盾を回避するためにも、今回の「パンデミック条約」は違憲無効とされるべきである。
ただ、現実はそんなに甘くない。
「違憲無効」の判決を出すかどうかについて、また別の問題が存在する。
[7]裁判所が判断を避ける ?
最高裁判所は「法律、命令、規則又は処分」について、憲法に適合するかどうか、その合憲性を判断する。
これを「違憲審査権」という。
しかし、これらの対象に「条約」は原則として含まれない。 憲法の条文に書かれていないからだ。
そこで、「法律、命令、規則又は処分」の中に「条約」が含まれるのか、解釈しなければならない。
違憲審査における最高裁判所の「解釈」はこうである。
これは「砂川事件」という、在日米軍飛行場の拡張をめぐる闘争における判決である。
高度の政治性を持つ「日米安全保障条約」についての合憲性判断を避けるための論法で、「統治行為論」と呼ばれる。
条約については、裁判所の判断よりも、国会・内閣の政治的判断を優先するというものである。
すなわち、パンデミック条約について合憲性を問われた場合、最高裁判所はこの統治行為論を用いて、その判断を避けることが可能なのである。
実際、この砂川事件において、最高裁判所は統治行為論を使うことにより、日米安全保障条約の合憲性判断を避けた。
では、最高裁判所は今回のパンデミック条約もそうやって判断を避けるのだろうか。
注目すべきは上記判決の「一見極めて明白に違憲無効」という文言である。
たとえ高度の政治性を持つ条約であっても、それが「一見極めて明白に違憲無効」の内容であれば、最高裁判所は違憲審査権を行使して、その条約を「違憲無効」にできるのである。
「パンデミック条約」が「一見極めて明白に違憲無効」の条約であると判断されれば、「違憲無効」の判決を出せるということだ。
上に述べたパンデミック条約の「医療の強制」「移動の制限」「検閲」が「一見極めて明白に」日本国民の基本的人権を侵害するならば、その条約は「違憲無効」と判断できることになる。
例えば、検閲については、日本国憲法にしっかり明記されているから、判断は容易であると思われる。
「憲法の番人」として日本国民の人権を守る最後の砦である最高裁判所は、「一見極めて明白に」基本的人権が侵害される場合、積極的にその救済に乗り出すことが期待される。
日本国憲法は、「弱者救済」「少数者救済」の最終手段として、裁判所を制度設計しているのだ。
このように見ていくと、パンデミック条約を日本が批准した場合、最高裁判所は違憲無効判決を出さざるを得ないと考えられそうである。
しかしながら、その制度設計上の別の問題がまた存在するのである。
[8]三権分立の問題点
最高裁判所の長官は「内閣」が指名するのである。
すなわち、内閣は自分たちにとって都合の良い人物を最高裁判所長官に指名することができるのである。
三権分立の建前上は、国民の代表者である国会議員の中から選ばれた「内閣」による指名であるから、指名された最高裁判所長官には国民主権の効果が及んでいると言える。
国民にとって不適当な長官が指名された場合、衆議院総選挙における国民審査で罷免することもできる (79条2項3項)。
しかしながら、これらの建前は「砂上の楼閣」であり、実際に機能していないことは周知の事実だ。
最高裁判所から下級裁判所に至るまで、すべての裁判官は内閣の指名した長官によってコントロールされている。
昨今は特にそのコントロールが強くなり、内閣の意向に沿った判決が乱発されている。
そんな中で、パンデミック条約および国際保健規則の合憲性について、最高裁判所が内閣に対して真っ向から「違憲無効判決」を叩きつけることが果たして可能であろうか。
その判断をするためには「一見極めて明白に違憲無効であるかどうか」が争点となるが、最高裁判所のこれまでの判例をみると、その時代の権力や国際情勢におもねって玉虫色の結論を出すことも多く、内閣の強い影響が及んでいる現状を鑑みるに、「違憲無効判決」を出す可能性は極めて低い。
マスコミが世論を恣意的に操作・誘導している現代日本社会において、「みんなで感染を防ごう」「みんなのために我慢しよう」という世論が強固に出来上がってしまった場合に、最高裁判所がそれらの流れを自ら積極的に断ち切りにいくとは到底考えられない。
様々な屁理屈をこねて、判断を避ける可能性は高い。
「パンデミック条約」と「国際保健規則」を日本が受け入れた場合、たとえそれらが一見極めて明白に「違憲無効状態」であったとしても、裁判所がそれをはっきり宣言するかどうかはまた別問題なのである。
日本の裁判所というものは、あざとく世論を見極めながら、のらりくらりと意見を豹変させる厄介な存在だ。
万が一にも期待することはできないのである。
[最終章]我々一人ひとりの重要性
結局のところ、パンデミック条約を日本が批准した場合、たとえ一見極めて明白な「違憲無効状態」であっても、最高裁は違憲無効判決を出さないであろう。
これらの一言で終わりである。
裁判所というのは楽な商売だ。
もっとも、最初に述べたように、これはあくまでも「条約」における話である。
現実的には「条約に基づいた国内法」が我々の人権を不当に制限することになるのであるから、その国内法が憲法に違反する場合、その国内法は当然、違憲無効となる。
最高裁は「統治行為論」を使うことなく、純粋にその国内法が人権を侵害しているかどうかを判断しなくてはならない。
「医療の強制・移動制限・検閲」など、一見極めて明白な人権制限が国内法に基づいて行われた場合は、いくら内閣におもねる最高裁といえども、その国内法の違憲性を無視することはできない。
そもそも、そういう「一見極めて明白に違憲無効」となる可能性の高い法律を国会・内閣が作るのか、という点も考えておく必要がある。
日本人の特性を巧みに利用し、マスコミが恣意的に世論を操作し、表面上は「強制」という形をとらない「事実上の強制」を強いてくるに違いない。
もっとも、たとえそういう巧妙なやり方がとられたとしても、私たちは、現在の日本国憲法下においては、いかなる不当な人権制約にも服する必要はないということだけは知っておく必要がある。
現在のところは、日本国憲法が日本の最高法規であるので、憲法に明記された基本的人権は絶対的に保障される。
そこのところだけは忘れないようにしておきたい。
しかしながら、改憲の流れが加速している。
もし緊急事態条項が加憲されれば「万事休す」である。
日本国憲法自体が「トップダウンによる独断的な私権制限」を容認することになるのだから、同類のパンデミック条約を「一見極めて明白に違憲無効」と認定することはできなくなるし、その条約をもとに作られた国内法も違憲無効ではなくなる。
パンデミック条約とその国内法を理論的に封殺できる可能性は万が一にもなくなる。
もし、我々がその「万が一」を起こすことのできる可能性があるとするならば、それは「世論の喚起」しかない。
我々一人ひとりが、世の中の真実を知り、共有し、正しい認識を持つことにより、大きな流れとしての世論を作ることができれば、その流れは国会・内閣・裁判所を動かしうる。
本来、我々一人ひとりにはそういう潜在能力があるはずだが、不安や恐怖や煽動により、その能力はずっと眠らされ続けている。
一人でも多くがこれらの事実に気付き、立ち上がることで、現在の窮地を少しずつ動かしていくことができる。
あとは一人ひとりの決意と行動次第だ。
私は最後までその可能性を捨てることなく、自分を信じて、自信を持って、自分らしく、これからの人生を歩んでいく。(了)
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