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「嫌われる勇気」を読んで

数年前に購入したものを今回も再読。
再読であっても感銘を受ける部分は多くあり、今現在の私にとって刺さった考え方は以下の通り。

「過去の出来事をどう捉えるか、原因論ではなく目的論的に考えることで、過去の見え方は360度変わる」「他人の課題と自分の課題を明確に切り離し、時に相手から嫌われることも選択し、自分らしく生きることが大事。周囲の人全員の期待に沿うように生きることはできないし、やろうとしてもそれは『他人の人生を生きること』になり、結果は中途半端になる」「相手から攻撃された時、相手の目的は大抵『権力闘争』である。相手を屈服させても禍根が残るだけなので、無用な争いからは身を引くべき」「自分への執着を捨て、他者への関心に切り替える。そして今ここを全力で生きることを選択すべき」

数年前に読んだ時も感銘を受けていたが、やはり再読することに意味があると思う。
というのも、人間そう簡単にアドラー心理学のような考え方・生き方を実践できるものではなく、どうしても従来の考え方に戻ってしまう。そのため、自らの価値観がもとに戻りそうなタイミングで定期的に再読し、自分の直近の行動を振り返り、内省することが必要なのではないだろうか。

以下、ネタバレも含む読書メモである。

第1夜 トラウマを否定せよ
• 引きこもりになってしまう原因が、過去の家庭環境によるものだとしたら、過去に虐待を受けた人間全員がひきこもりになってしまう、「決定論」に基づく考え方になる。
• 引きこもりの例において、アドラー心理学では、過去の原因ではなく、現在の目的に注目する。この例では、外に出たくない理由づくりのために不安という感情を作っている、と考えられる。
• 人間は原因論→決定論にいる限り一歩も前に進めない。目的論で考えるべき。
• われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分。
• 怒りとは出し入れ可能な道具であり、時に「相手を屈服させる」ための「手段」として怒りを利用する人間もいる。

• 大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。
他の誰かになりたがっているのは、ひとえに「なにが与えられているか」にばかり注目しているから。そうではなく、「与えられたものをどう使うか」に注目する。
• 不幸を感じるのは、今の自分自身が不幸であることを選んでいるから。
• 人間は10歳前後の時の環境によって、無意識的にライフスタイル(人生における価値観や考え方)を選択している。ただ、それはあくまでも選択したものであって、選び直すことができる、というのがアドラーの考え方。
• 自分を変えたいと思っても変われないのは、「このままの私」でいた方がラクだと、どこかで思ってしまっているからである。言い換えれば幸せになる勇気が足りていないから。
• 「もしも○○だったら〜」という世界に生きている間は、自分自身を変えることはできない。それは変わらない自分への言い訳にしか過ぎない。

第2夜 全ての悩みは対人関係
• 赤面症に悩む女性は同時に恋の悩みも抱えており、赤面症が治ったら思いを伝えたいと考えている。しかしこれは、「彼女自身は赤面症であることを望んでいる」とも考えられる。これは、赤面症=意中の人間に振られた時の言い訳にできるから。
• 自分を偏屈な人間で好きになれない、と自己評価してしまう、その目的は対人関係の中で自分自身が傷つくことを防ぐため。
• 人間が抱える全ての悩みは対人関係から発生するもの。例えば一見個人的な悩みに見えるコンプレックスも、他人との比較から生まれる劣等感によるもの。そしてその劣等感は自分の主観から来るもので、意味づけを変えれば劣等感を感じなくなる。
• 劣等感そのものは悪いものではない。人間は誰しも非常に弱い存在として生まれ、少しずつできることが増えてくる。その中で常に優れていたいという優越性を持とうと努力するもの。
劣等感も持ち方そのものを間違えなければ、自分をより高めるための促進剤となる。
• まずいのは、劣等感を劣等コンプレックスという状態にしてしまった時。これは自分が劣っているところを、現状を変えない言い訳にし始めてしまった状態。
「AだからBできない」と考えている人は、「Aさえなければ自分は有能なのだ」と言外に言い訳しているようなもの。
• 自慢をすることは、劣等感を感じていることと同義。
自慢することで自らが優れていることを、ことさら誇示しようとする。そうでもしないと、周囲の誰ひとりとして「こんな自分」を認めてくれないと怖れているから。これが優越コンプレックス。
• 一方で、自分の不幸を不幸自慢のように語る人もいる。自分が不幸でいる限り、周囲より不幸という1点においては優位に立てる、という心理で、優越コンプレックスと地続きでもある。
• 健全な劣等感とは、他者との比較から生まれるものではなく、理想の自分との比較から生まれるべきもの。今の自分より前に進もうとすることにこそ、価値がある。
• 対人関係の中に競争があると、人は対人関係からの悩みから逃れられず、不幸になる。
• 競争から解放され、周囲の人々が敵から仲間になると、世界の見え方は全く変わってくる。
• 相手から攻撃を受けた時は、「なぜ攻撃してくるのか」相手の目的を考える。多くの場合は、単なる権力争いを挑んできている時。
その場合の対処法は争いから降りること。怒りを我慢するのではなく、怒りというコミュニケーション道具を使わないイメージ。怒りを堪えようとしてしまうのは、自分自身がまだ権力争いをしようとしている証拠と思うべき。
• 嫌いな相手ができる瞬間というのは、「相手を嫌いになる」という目的が先に存在し、そこから相手の嫌な部分が生まれてくる。相手が変わったのではなく、自分の中での目的が変わった、ということ。
• 人間はその気になれば相手の短所をいくらでも見つけられる、身勝手な生き物。だからこそ世界は常に全員が突然敵になるかもしれない危険な場所になりうる。
• 様々な口実を設けて自分の人生のタスクから逃げようとすることを、人生の嘘と呼ぶ。

第3夜 他者の課題を切り捨てる
• アドラー心理学では、承認欲求を捨てるべき、と考えている。人間は他者からの期待に応えるために生きているのではない。
承認欲求はいわゆる現代の賞罰教育から生まれてきたものであり、褒めてもらえないのであれば良いことはしない、という危険な思考に陥ってしまうもの。
• 他者の期待に沿うように行動すること=他者の人生を生きる、という窮屈なもの。あくまでも自分の人生は自分しか生きることができない、そうでないといつまでも他者からの目を気にしながら生きていくことになる。
• アドラー心理学では、「課題の分離」という考え方をする。
目の前にある課題がいったい誰の課題なのかを考え、他者の課題であればそこに踏み込まない。対人関係の多くは、他者の課題に土足で踏み入ることから始まる。
• ただし、放任主義を貫くのではなく、見守り支援するスタンス。あくまでも水辺までは連れていくが、最後水を飲むのは本人。最終的に自分の人生を変えることができるのは自分自身のみ。
• 他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自らの人生を重く苦しいものにしてしまう。もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら、その悩みは対人関係なので、まずは「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知るべき。
• 自らの生についてできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけ。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか、折り合いをつけるのか。これは他者の課題であって、自分にはどうしようもできない話。

• 「あの上司がいるから、仕事ができない」と考えるのは完全な原因論。
そうではなく「仕事をしたくないから、嫌な上司をつくり出す」と考える。あるいは「できない自分を認めたくないから、嫌な上司をつくり出す」。こちらは目的論的な発想。
• 課題の分離ができている場合、上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたし」の課題ではない。
理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題である。すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自らの課題に立ち向かうことなのだ、と考えることができる。

• 課題の分離はあくまでも対人関係の入り口に過ぎない。対人関係の入り口に「見返り」が存在すると、相手がしてくれた好意に対して「自分が望んでいなくても返さなくてはならない」という感情が発生してしまう、これが課題の分離ができていない例。
• 周囲の人全員の期待通りのことをやってのけるのは不可能である。他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方となってしまう。

• 他人に嫌われることがアドラー心理学における自由。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。
• 関係が悪い人がいたとして、その人との過去のいさかいを根に持っているのは、「その人との関係を良くしたくない自分」が先にいる、と考えるのがアドラー心理学。
また、その自分を変えたとしても、相手が変わるかどうかは相手の課題、と考えるのもアドラー心理学(他者を操作する、という思想を持たない)。一言で言えば、「対人関係のカードは常に自分が持っている」という考え方。

第4夜 世界の中心はどこにあるか
• 課題の分離は対人関係の入り口。ゴールは「共同体感覚」である。他者を仲間だと見なし、その中に自分の居場所があると感じること。
• 自己への執着を他者への関心に切り替えることが共同体感覚を生むスタートライン。課題の分離ができておらず、自己承認欲求に囚われている人もまた、自己中心的な人物と言える。他者からどう見られているかを気にすることは、自分のことしか考えていない、自己中心的な生き方とも言える。
• まず、自分は世界の中に所属しているが、自分が中心ではないと考えること。また、世界という共同体は、ただいるだけで所属感を得られるものではなく、共同体に対して積極的にコミットすることで得られる。
• 共同体の中で対人関係の困難にぶち当たった時、やるべきことは「より大きな共同体の声を聴く」こと。異を唱えたって構わない。関係が壊れることだけを気にしているのは他者の人生を生きる、不自由な生き方でしかない。
• アドラー心理学では、「人間の縦の関係を否定」し、「横の関係を提唱」している。例えばほめるという行為は、上の人間が相手を操作するためにやる行為であり、縦の関係であるから否定している。
• 社会の中にはどうしても制度上の縦の関係は存在する。年長者を敬うことも必要ではあるが、意識の上では対等であること。言うべきことは堂々と主張すること。
• 介入といった指示ではなく、援助することが大事。これが横の関係であり、課題は分離したまま、水場に馬を連れてくる感覚。具体的にアプローチは「感謝」を伝えること。
• 人から感謝された時、人は自分が有用な人間であると勇気を持てる。

第5夜 「今、ここ」を真剣に生きる
• 自分への執着を他者への関心へ切り替えることで、共同体意識につながる。そのために必要な要素が、自己受容・他者信頼・他者貢献の3つ。
• 自己受容は、自分に対する肯定的なあきらめ。自分を過大評価するわけではなく、ありのまま自分のできないことも含めて受け入れる。自分の変えられないところを嘆くのではなく、変えられるところを努力すること。
• 他者信頼は、相手を無条件に信じ続けること。疑いの目を常に持っていると、結果として相手の疑わしい事実だけが出てくるようになる。信頼することを恐れると、結局相手と深い関係は築けない。相手が裏切るかどうかは、自分が変えられないこと、相手の課題として切り離して考えること。
• 他者貢献は、決して自己犠牲によるものではない。共同体における自分の価値を実感するために行う行為を指す。
他者が何をしてくれるか、ではなく、自分が他者に何ができるか、を考えることから始める。他者を敵とみなしていると、他者のための行為は偽善であり、何か見返りを求める行為になってしまう。

• 他者が10人いれば、1人は自分を攻撃してくる人、2人は友になれる人、残り7人は何もならない人。どこに注目するかは自分次第。たった1人のことを取り上げて注目してはいけない。
• 特定の部分しか見られない人は、「人生の調和」欠いた人。自分のことを嫌う少数に注目したり、ワーカーホリックのように仕事のことしか考えられない人など。

• 幸福とは、貢献感であり、「自分の行為が誰かの役に立ったかもしれない」と思えること。ただし、承認欲求に囚われて相手の求めることを追い求めることは、人生を息苦しいものにしてしまう。他者からの直接的な承認がなくとも、自分が役に立っていると思えることが大事。

• 人生とは連続する刹那。点と点の連続であり、我々は「今、ここ」しか生きることはできない。人生を線で考えるのではなく、「今現在」を充実できるように生きること。気がつくと点がつながって振り返ると大きなことを成し遂げるイメージ。
• 「今、ここ」を真剣に生き、過去も未来も見ないという生き方。過去や未来について考えることは、今を真剣に生きていれば関係がないこと。
• 人生における最大の嘘は、「今、ここ」を真剣に生きないこと。
• 人生における「導きの星」とは、他者貢献。これを忘れなければ、人生という道に迷うことはない。
• また、世界というものは、他の誰かが変えてくれるものではなく、自分の手で変えられる、ということ。


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