伝えるより、考えさせる(SNSの負の影響について考える)
非表現者として表現者の可能性について考えていたら、ある話題にたどり着いた。
SNSの負の影響
とういうことで、今回はSNSの負の影響とそれに関する表現の可能性について書いていきたい。
SNSの負の影響
TwitterやFacebook に代表されるSNSが台頭し、全国民総発信者時代になった。誰もが短い文字数でも発言をする環境が整い、発言が溢れる時代になった。
発信が溢れている状態の中でより注目を集めるために、より分かりやすく、キャッチーで、センセーショナルな短い文章で発信を行うようなっていった。中身の濃い議論をする機会が大きく減り、大勢の人が思ったことをそのまま文章に残すようになった。
つまり考えることが減ったのだ
オルタナティブの大切さ
僕自身、オルタナティブの大切さについて考えるきっかけとなったのは、ニューヨークで経験が大きい。たまたまだが、ニューヨークで新卒で働いていた時のシェアメイトが、僕を除いて全員3人ともアーティストだったのだ。(詳細はこちらの記事に書いてあるので見て欲しい)
当時、僕は大学院留学を経て、それなりの企業に入って、安定してそれなりの収入が得られるいわば現代社会のメインストリームの渦中にいた。
一方でそのメインストリームとは反対を生きる、アーティストと一緒に暮らす機会を得た。毎月の家賃を稼ぐのもやっとで、常に自分自身の作品と向き合っている不器用でまっ直ぐな人達だった。お金の心配はあれど、毎日毎日楽しく自分と向き合いながら作品作りをしている姿に心を打たれた。
当時の僕の仕事のモチベーションは給料と役職を上げること。それなりに一生懸命やって結果が出た。ただある一定以上の成果や収入を上げると一気にモチベーションがなくなってしまっていた。メインストリームの中でもがき続けることに疲れてしまったのだろう。
伝えるより、考えさせる
メインストリームはいつまでたってもメインストリームであり、いつの日かメインストリームじゃなくなる日がくる。SNSを中心とした現代社会において、考えることが減り、中身の薄い端的に伝えることが増えたのは先に述べた通りだ。
一方で表現とは、一部の人達を除いてはオルタナティブであり、おそらく人間社会というものができてから常にオルタナティブとして存在してきた。人々に考えさせるきっかけを与え続けている存在だ。
僕自身、メインストリームとオルタナティブの両方に足を突っ込んでいる。そういった意味では、伝えること・考えさせることの素晴らしさを日々感じているのだ。
最近は非表現者として表現者の可能性について考えることが凄く意味のあることではないかと感じることも多いが、まだまだ考える総数・深さ共に足りてないので、芽が出てくるはまだまだ先かもしれない。
by Shotaro (自己紹介こちら↓)
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