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意味を持ち、豊かで、感性を大切にする場所に

どうして表現の場所を大切にしたいのか、なぜこの活動をするか、yosemicにはどういう価値があるのか、ということをもう一度、ちゃんと文章に残したいと思った。

きっかけは、この記事を久しぶりに読み返したから。もう一年経つのかと。まだまだ未熟だなーと実感する毎日だけど、時に振り返り、立ち止まり、思考することも大切だと思い、カタカタと文章打つことにした。



大量生産・大量消費 社会からの脱却、そして表現活動を中心とした意味のある場所へ

ちょっと小難しい話をする。
日本が経済成長していた時は”問題が過剰”であった。その時代は、解決策(How to / ツール)をさっさと作り出すことが正解な時代だった。さらにインターネットの時代が進み、ありとあらゆるものが手に入り、多くの問題が何らかの形で解決できるようになった。

さらにモノもサービスも行き渡っていくようになり、やがて解決策が過剰という状態になっている。巷でもHow to / 自己啓発本などが溢れている。
つまり、問題が希少になりつつあり、解決策が過剰という世の中の構図があるのだろう。

ということは問題を解決することよりも、問題を発見することの方が現代(今後も)ではとても価値のあることは間違いのないだろう。

では問題を発見するのにはどうしたら、いいのか?という問いをしたくなるだろう。
しかし、それを探すことすらも、問題を発見する方法(How to) を探している訳であって、問題発見の解決策を探しているという、皮肉なスパイラルに陥っていくことになる。

だからこそ、意味のある事が大切になってくる。

以下の本がとても参考になるので、是非。

便利さから豊かさを追求する価値観を

じゃあ意味ある事とは?
個人的にこれを一言で表すと、- 豊かさ - をという言葉になる。

- 豊かさ - とは、とても曖昧な言葉に思うだろうが、別に細かく定義するつもりはない。- 豊かさ - とは、人によって違うだろうし、個別に最適化するつもりもない。

ただ、たった一つ定義するならば、便利さとは対極にある価値観

前述したように、現代社会ではありとあらゆるものが手に入り、便利さを常に追求している社会と言っていい。どこでもドアの開発など、科学的にまだ人類が到達していないことの一部の領域を除いては、大抵のことには手が届くようになった。

役に立つこと、便利さ、合理性、といった価値観とは真逆の位置にある一見すると無意味な活動や行動が、- 豊かさ - へのきっかけになるのだろう。

合理性よりも感性を

以前よりも自分の感性を認められるようにもなったと思うし、前よりも他の人がどういう感性を持っているのかを知りたいという欲が強くなってる気がします。

shioriが書いてくれた文章の中に、こんな一文がある。

前章で、- 豊かさ - について触れたが、その豊かさを個々人が感じる一つの軸となりうるものが感性(美意識)だろう。

合理性を突き詰めていけば、おのずと正解にたどり着く(あるいは正解が存在する)が、一方で感性において、単一の正解はない。

本来、表現というのは、何か単一的な指標で語られるものではない。世の中で傑作とされているアートや音楽を良いと思うことが正しいということはなく、壁に適当に描かれている絵でも、「なんとなく良いな」、とか、「なんとなく好きになれないな」とか、そいうった自分自身にある感性を大切にすることが、- 豊かさ - に辿り着く一つの道なのだろう。

この合理化に向かっている現代社会に生きていると、この感性を養うということがとても難しい。しかし表現を通して、「見て、感じて、言葉にする」こと、自分の中に起こった感情の変化を言語化することは、変動要因が無数にあり、自らの在り様を考えていくことにも繋がる。

そのようなプロセスを経て、誰もが独自の感性をもち、それを互い尊重できる世の中が生まれるとそれは素敵な場所・空間であると思うし、ヨセマイクはそんな場所を作り続けていきたいと思う。

(決して便利さや合理性を否定しているわけではなく、どっちも大事なので、どちらもできたら一番いいよね!)

そんなヨセマイクにとって、初めての場所作りになるpubが、絶賛クラファン中です。こんな活動に少しでも応援して下さる方がいましたら、支援して頂けると嬉しいです!

Shotaro


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