玉ねぎが収穫できる頃、お互いどこにいるんだろうね
雲ひとつない、秋らしい青空。ひやりと肌を震わす、吹き下ろされた風。まるでふとんのように優しい、ふかふかの土。
ぼくはまた、あの畑に立っていた。
通い続けたカレー屋の店長に誘ってもらい、二度目の農業のお手伝いに来た。この間は玉ねぎの収穫をしたが、今度は苗を植える作業だ。
実は、その店長のカレー屋は先日閉店してしまった。悲しすぎて、ワクチンの副作用なんか?くらい気分が上がらない日々が続いた。けれど、こうして畑で店長とまた会うことができた。店員さんとお客さんを繋ぐ「お店という空間」がなくても、再会できたことが嬉しい。
さあ、再び店長とのほっこり農業タイムの始まりだ。腕をまくろう。
まず、玉ねぎの苗に驚いた。確かに、玉ねぎが玉ねぎである前の姿を見たことがない。苗は細いニラみたいで、「こいつ本当にあんなに立派に育つのか…?」と疑うほどちっこい。その苗を、1つ1つ手作業で丁寧に土に埋め込んでいく。
最初はみんなおしゃべりしながら和気藹々と作業していた。けれど、だんだんと口数が少なくなっていった。目の前の苗に集中力を使うので、黙々と作業するモードに切り替わる。すると、農家さんが「みなさん、これがいわゆるファーマーズ・ハイですよ」と言った。初めて聞いたよ。その一言で、畑を包む空気が3キロくらい軽くなった気がした。
苗を埋め込みながらも、他の参加者の方とおしゃべり。その中で、印象に残っている夫婦がいる。お2人はなんと神奈川から来ていた。理由を聞いてみると、実は前まで福島に住んでいたらしい。
転勤で福島に来て4年ほど住んだあと、今年異動で今は神奈川に住んでいる。福島のことが大好きになり、この機会を見つけて遊びに来たらしい。そのことを、2人は秋空に似合う笑顔で、楽しそうに話してくれた。
ぼくは全国転勤なので、自分の心情を2人に重ね合わせていた。そして、未来の自分を見ているような気分になった。この土地と人が好きだというエネルギーで、いつかここに戻ってきたい。そんな気持ちが心の中で大きくなっているのに気づいた。
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そして、玉ねぎ植え作業はひと段落。最後に農家さんが畑を案内してくれた。にんじんが植えられている場所では、その場でズボッとにんじんを抜いて、皮をシャッとむいて差し出してくれた。
「そのまま食べられますよ」
甘いっ!何もつけなくてもスナック感覚で食べられちゃう。家族で来ていた参加者の、3歳の男の子もボリボリにんじん食べてた。その子のお母さんが「ウチの子、好き嫌いあるんですけど、ここの農場の野菜はいくらでも食べちゃうんです!」と満面の笑みで話してくれた。親子でCM出た方がいいよ…!
澄み渡る空。生野菜にかぶりつく男の子。それを笑顔で見守る両親。この世界で1番美しいものを垣間見てしまった気がして、泣きそうになった。幸せの結晶を、おすそ分けしてくれてありがとう。なんでお前が泣きそうになるか知らんけど。
そのあと、カブもフルーツのごとく、その場でむいてくれた。参加者たちは馬のように生野菜をムシャムシャ。「甘い!」「桃みたい!」と美味しさのあまり、逆に言葉のレパートリーがなくなる現象に陥ってしまう一同。
「また来年、自分が植えた玉ねぎを収穫しに来てくださいね。」
そんな農家さんの素敵な言葉に、心を温められながら農業体験は終了した。
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その日の午後、ぼくと店長は今日のお礼のメッセージや、撮った写真をお互いに送り合った。
メッセージのやりとりをしている中で、店長のある言葉に、心の動きを一瞬止められた。
「今日植えた玉ねぎを収穫したいですけど、その頃はお互いどこにいるんでしょうね。」
ぼくはどこにいるんだろう。ぼくは来年に転勤の可能性が高い。全国転勤なので、全国ガチャ次第で北海道にも沖縄にもいるかもしれん。
店長はどこにいるんだろう。お店がなくなってしまった今、店長は将来の道を考えている。都心で就職するかもしれないし、福島に戻ってくるかもしれない。
将来を想像するとき、期待を伴うこともあれば、不安がつきまとうこともある。けれども、「見えない未来」を考えるときは、逆に感情がついてこない。
例えば美術の授業で、「ミーアキャットを描いてください」と言われたとする。そしたら「動物描くの好き!上手く描けそう!」というプラスの感情や、「ミーアキャットなんて描いたことないわ。ハムスターみたいになりそう。」というマイナスの感情など、何かしら心の動きが発生する。
けれども、「今から2万年後に誕生する未来の生物を描いてください」と先生に言われても、どんな感情を抱いていいか分からない。(ワクワクするお題じゃん!みたいな人もいると思うけど)
見えない未来と、自分の感情を紐づけていくのは難しい。
けれども、1つ確かなものは、せっかくお店という垣根を越えて畑で出会えた店長とのつながりがなくなるのは嫌だという感情だ。
だから、玉ねぎを収穫するときにもう一度会いたい。今日植えた玉ねぎは、来年の春から夏にかけて食べごろになるらしい。そのとき、お互いにどこにいても、玉ねぎのもとに集合すればいい。神奈川から駆けつけてくれた夫婦のように。
そう考えると、玉ねぎは偉大だ。2人が違う世界線にいたとしても、もう一度巡り合わせてくれるかもしれない存在だ。まるで、タイムカプセルみたい。埋めた瞬間にそれは、再会を約束する伏線となる。
「お互い遠くにいても、玉ねぎのもとに集合しましょう!」
そう送った。
ぼくたちにとっては、玉ねぎ畑がシャボンディ諸島だ。
これからも「もう一度会いたい」と思う人とは、一緒に野菜を植えることができたらいいのにな。
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