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絶望のフィルター


物心ついた時からそれはあった。

わたしの周りを覆っている、透明のフィルター。

それはちょうど、


そう、ラップみたいな感じ。
でもきっとラップよりも薄い。

透明で、薄くて、
よく目を凝らさないと確認できない。


とても薄いので、
簡単に破れそうなんだけど

決して破れることのない、透明のフィルター。




それは絶望で出来ている。

そして幾重にも重なっている。

分厚い絶望のフィルター。


小さな頃から、それはあったから
それが”ある”のが普通だった。

フィルターは幾重にも重なっているので、
一枚一枚は透明だが、
それらを通して見る世界は、ぼんやりと濁っている。

音もくぐもって聞こえるし、
人に触れても、その体温があまり伝わってこない。

それにそこは、フィルターの中は、
いつでも酸素が薄い。
わたしはいつも、浅い呼吸を続けていた。

世界って、そういうものだと思っていた。



体がフィルターで覆われていることを、わたしは知らなかった。
その存在に気付いたのは、いつのことだっただろう。

あれは確か、大人になり始める頃。
わたしはフィルターの存在に気が付いた。


フィルターがあるってことは、
これは破れるってことだよね?

とわたしは思った。
そして嬉しくなった。破れるということは、きっと、
今よりも呼吸がしやすくなる。

わたしはそれらを破ろうと、あらゆる方法を試した。
『こうすれば破れますよ』
と言われている、あらゆる方法を。



それは破れることはなかった。
破れるどころか、あらゆる手段を試すほど、もがけばもがくほど、
わたしの体にまとわりついた。




なんだ、これ、破れないのか。


わたしはそれを破くことをあきらめた。



それでもたまにフィルターの外から、わたしに声をかける人がいた。
声はくぐもっていてよく聞こえないのだけれど、
その人は、わたしを呼んでいた。


『そこから出てきなよ、今破いてあげるから』

とその人は言っているようだった。


無理だよ、これは破れないんだよ。
だっていろいろやったもの。
ハサミやカッターで切ったり、火であぶったり、ナイフを突き立ててみたり、
いろいろやったけど、なんだか痛いだけで全然破れないんだよ。
泣いたって叫んだって何したって、破れなかったもの。


だけどわたしのその声もその人には聞こえないようで、
その人はラップのような薄いフィルターの膜をなんとか破ろうとしていた。


それが破れないことがわかると、
その人は去っていった。


たまにそういう人が現れては、
フィルターを破くことが出来ずに去っていく。


だから言ったじゃん、無理なんだってば。
と、わたしはその度につぶやく。
だけどそのつぶやきも、誰の耳にも届かない。


ずっとこの中で
痛くても寂しくても怖くても、
だれもその事実を知らない。
知っているのはわたしだけ。

それはまるでわたしがこの世に存在していないかのようだ。


このフィルターは破れないけど、
わたしがここで生きていることを、誰かに知って欲しい。
わたしはここを出られないけど、
わたしが存在していることを、誰かにわかって欲しい。


だけど
わたしは疲れていた。
とてもとても疲れていた。

もう大声を出すことも、
力づくでここを出ようとすることも、
できそうにない。


もう、いいや。

わたしは分厚い絶望のフィルターの中で、浅い呼吸を続けた。



ある時、わたしの目の前に一通の手紙があることに気が付いた。

落ちていたのか、誰かが置いたのか、定かではないが、
綺麗な封筒に入っている手紙だ。

「読んでみたい」

とわたしは思った。
分厚いフィルター越しでは、封筒を開けることも、手紙を開くことも、とても難しいに違いなかった。
だけどわたしはその綺麗な封筒に入った手紙を、
どうしても読んでみたかった。

とても苦労して、大量の汗をかきながら、
わたしはなんとかその手紙を開くことができた。
だけど分厚いフィルターが邪魔で、文字がよく見えない。
わたしは半分泣きながら、目をこすりながら、必死で目を凝らした。

読んでみたい。そこには、何が書いてあるの?



手紙には、たった一言


【あなたは幸せになるために生まれてきた】


と書かれてあった。
とても綺麗な字だった。
わたしはその一文を何度も何度も読んだ。

あなたは幸せになるために生まれてきた。

これは、この手紙はわたしに書かれたものなんだろうか?

誰かがわたしに書いたものなんだろうか?


周りを見回しても誰も居なかった。

この手紙は確かにわたしの目の前にあった。
誰かが置いてくれたのかも知れないし、風で飛ばされてきただけかも知れない。
だけどわたしのもとに届いた手紙。

それは誰とも繋がっていないと思っていた世界と、わたしとを、
繋げてくれた。

どこかの誰かが書いてくれたかもしれない手紙を、わたしは大事にしまった。




あれから
何年もの時間をかけて、フィルターは少しづつ薄くなっていった。

フィルターが薄くなるごとに、世界は鮮やかになった。
白黒だった世界に、色が差した。
鳥の声や、木々のそよぐ音が聞こえた。
触れ合った人の、肌のぬくもりを感じた。

わたしは以前のように、フィルターを破ろうとはしなかった。
ただあの手紙に書かれてあったことを、心のなかに置いた。
世界の中のどこかの誰かが、わたしにくれた言葉。
それはわたしを内側から照らす希望の光となった。


先日、フィルターの最後の一枚が、静かに溶けて消えていくのを感じた。



フィルターに覆われていない世界を、今わたしは体感している。
生まれて初めての感覚にとまどいつつも、その心地よさに涙が溢れる。
まとわりついていた、重苦しい空気がここには無い。
いつでも引きずるようにしていた心が、とても軽い。
思いっきり、深呼吸ができる世界。

悲しいことも、苦しいこともある。
だけどそこに絶望はない。

自分の声も、呼吸の音も、よく聞こえる。
望む場所へ行ける、自由な世界。


もう少し早く、ここに来たかったな。
でもきっと今じゃなければ、ここには来れなかった。
あの絶望は、必要だった。
あの絶望の日々が、わたしをここまで導いてくれた。


あの時拾った手紙を、わたしは今も心の中に大切にしまっている。

わたしと世界とを繋いだ手紙。

誰かが書いた希望の言葉。

それはきっかけに過ぎない。

あの分厚い絶望のフィルターを溶かしたのは、紛れもなく、
わたしの命の輝きだった。


マッチの灯りのように小さな、希望の言葉。
それが絶望の中にある誰かの心に灯りをともすことがある。

言葉ができるのはそれだけだ。
心を輝かすのは、その心の持ち主にしかできない。

だけどその言葉は、信じている。
その人が立ち上がることを信じている。
人間が絶望を希望に変えられることを信じている。


あなたは幸せになるために生まれてきた。

あなたの絶望は、溶かすことができる。

あなた自身が、希望である。


そういう祈りを込めた言葉が、世界のどこかで絶望に沈む誰かに届くかも知れない。

だからわたしは今日も手紙を書く。
世界のどこかの誰かの足元に届くように、
希望を込め、祈りを込め、
何通も、何通も。












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