見出し画像

経験値って大事だと思う。


#あの失敗があったから

これまた良いタグが出ましたね!私の10代後半の頃は同年代の子に言わせると「波乱万丈で紆余曲折としすぎている」そうなので、書いてみようと思います。

高校入学して一年経たず自主退学

一応言っておきますが、高校は入りたいところ、行きました。

一番夢に近かった高校は母に「まだ一人暮らしは早いって」と止められて断念しなきゃだったけど。今考えたら「一人暮らししたことがない母親にそう言われてよく疑問抱かなかったな〜、私」って思いますけど。一人暮らししたことがないって、知らなかったからかな。

それか若しくは「仕送りしなきゃいけない」とかそういうのが面倒で嫌だったのかな。

それで市内の「女の子が少ないとこ」という理由で工業高校に行くわけです。算数、数学、苦手なのに。ちなみに今も変わらず苦手です、数学とかそういう類いのものは。電卓なきゃ計算できない。

高校生活、楽しかったと言えば、楽しかったんですよ。検定とかも取れたし。

でもねー。私の精神面が、幼稚園から高校入学までの期間で蓄積された、人間関係のストレスや悩みに勝てなかったんでしょうね。畳み掛けるように、自律神経失調症、不安障害、パニック障害、抑うつ、……。

療養してください、と学校側から言われます。言われた通り、療養しました。復帰したっけとある教科担任から「このままだと単位やばいぞ」と言われます。人間の社会とはこういうものです。

病院で日帰り入院やら点滴を繰り返す日々です。勉強が嫌なわけではなかったから、家で勉強しました。おかげで復帰後、英語のテストはいい点数とれたのを覚えてます。

でもこういう精神障害って、厄介です。「一回落ち着いたからって、一発では治らない」んですよね。ここから数年、私はこれに悩まされることになるとは、この時点では知らなかった。

復帰後、覚えているのは

「授業中、黙って椅子に座っていたら突然、脱力してしまい雪崩のように椅子からずり落ち、生徒指導室で休憩」

「階段を一人で登ることができないことがあり、おんぶされて教室まで行った」

「精神的に不安定な日は、なんか知らないけどこの世のものではないもの見ちゃう変人になっちゃった」

「クラスで孤立。担任からは見て見ぬフリ。我慢ならなくなって、親の前で担任に抗議して自主退学」

頭おかしかった気もする。だって今思いだそうとしても、どんなだったか思い出せない記憶あるし、時間がバラバラで順番に並べろ言われても無理です、な記憶ばっかり頭に転がってる。それが、高校入学から退学まで。

でも高卒諦められなかった私

「高卒認定とか世の中、あるんだよ〜」

私よりもネットに精通していた友人の言葉。

でも私に高卒認定試験の勉強する時間は、私の居た家庭環境にはなかったと思う。私にもその気力は直ぐには出てこなかった。

「仕事してみたら?」

母と母の職場の部門マネージャーからの誘いだった。

そこから私は、精神科に通いながら、普段は働く16歳になったのだった。

職場のおばちゃんが研修や教育に参加したくない、と私に言うようになってからは代わりに私が参加するようになり、2年後くらいには寿司を規定の重さ通りに製造できるようになるとは思ってもいなかった。

人生で初めてのアルバイトは、私の中で「初めて社会で受け入れられる得意な作業」として好きな仕事になる。

高卒が諦められなかった私は、一年遅れでアルバイトで得たお金を学費に回し、通信制高校に入学する。卒業式には入院で参加できなかったけれど、同年代の友達とも過ごせたし、試験も受けれたし、満足できた高校生活だった。

全て偽りの家族だったと気付かされる19歳

たしかに、私の生まれた家庭は「夫婦喧嘩が絶えない」家庭だった。すごく嫌だった。だから、小学生の頃に一度両親に言ったことがある。

「もしパパとママが離婚したら、ばあちゃんの家に行くね」

と。

それが現実になったのだ。

双方の親も呼んで話し合いの場。父方の親はテレビをつけ始め、仮にも大事な話し合いの場だというのに野球中継をみ始める。

私はすごく腹が立った。「話し合いをしに来てテレビを観るんですか?おかしいだろ」と。テレビ消して言いました。

その日から私は荷物をまとめて、家を出ていく準備を着々と進めた。好きな服だとかはどうでも良くて。教科書とか学校で必要なものを忘れることだけはしないという感じで。

家を出るとき。親がいないときに決行した。親がいつ気づくか知っておきたかったのだ。親が気づいたのは3日4日あとだった。当日ではなかったのを覚えている。親にとって私の存在はその程度だったということだろうと認識している。

21歳の春、札幌に行く

大学に、行きたかった。変化し続けるいじめや日本の親子問題について研究したかった。

でも、だめだった。受け入れてあげたいけれど、健康に問題が多く、卒業を目指すには難しいだろう、ということだった。でも面接の場は設けてあげるよ、と大学側は私の意欲を認めてくれて面接は受けさせてくれたのだった。

その頃の私は自分が生まれながらに背負わされた足かせに対して、恨みの念しかなかった。社会に出て働けていたのに、こうも診断が下ったことで「働けない側」になってしまうのだ、と。

その頃の私は、祖父母が全て、だったのだろうと思う。だから、そこから離れてしまえば「よくも悪くも自分がわかる」と思った。

そこからは口実を探すことに必死だった。とある専門学校に行ったが、そこでも「何でも良いから経験する」「特に理由もないのに入学したことをバレずに色々させてもらう」ことに必死で。

でもやっぱりそこでも初っ端から体が悲鳴を上げた。学校初日に入院である。低血糖症による転倒リスクがあるため、である。血糖値がたしか51だったか52だったと思う。

ラムネと友達だったが、ラムネ食べても手先や足先が常に痺れていた。過呼吸にもなるし。しんどかったし、きっとあの場に居たみんなとはぜんぜん違う方向に必死だったことわかってたけど、私は自分が数年ぶりに生きることや、何かに対して必死であるということが楽しかった。

でも左膝を負傷して松葉杖生活になったり、動けなくなってしまったり、私は楽しかったけど明らかに周囲に迷惑かけているな〜、と思ったら最後「私には学校ってとことん向いてないんだな」とやっと飲み込めたのだ。やっと。

相当諦めが悪い性格なんだと、思った。

17歳から20歳の間のどっかで、精神科に入院しながら、何も学んでもいないのに主治医にお願いして「歌手になりたいからオーディション受けたい」とか言って。返事は来なかったけど、もう一度受けに来ないかって電話来たことがある。

何かと、そういう道に縁があるのかもしれないなって思うことはある。

中学時代に、講談社だったか角川だったか忘れたけど、天使のイラストのコンテストだったか応募のなんかで賞金とか受賞させてもらえるイベントがあって応募したことがある。

画材もなにもなく、色ペンで描いた二人の天使のイラストだった。

送ったらそのイベントを催していた出版社から電話がかかってきた。身内の不幸の日に。私は親の運転で学校休んで葬儀に向かっている途中だった。

一次審査通過している連絡と学校に通いながら仕事しないか、って誘いだったと思うけど自分はまだ中学生だからって理由で断った。手紙も送ってくれたのに。親宛の手紙も入ってたのに。もったいないことしたな〜、とは思うけど。

今は、いまで。

ここまで書いてみて。

いろいろあったな、って思う。親には3回、家から出てけとか、一緒に暮らしたくないとか言われて。一度だけ、祖母にも同じこと言われて出てったことがある。家出先は、入院した精神科だった。「どこでもいいから寝れる場所貸してください」と必死に電話した。

この頃にいろんな男の人と知り合って、なかには農家の社長だとかお金持ってそうな人と付き合ったりもしたけど、結局ホテルで平手打ちしたりして受け入れられなくて断念した。

男の人に愛でられたり、そういう雰囲気が受け入れられない。親に首絞められると目が覚めるまでに時間がかかるのだ。「どこにいる男も女も、大差ない」ってなるまでに。


いまは、動物と暮らして、それなりでいいから働けてたら良いや、って思う。