大勝利だ!!(大英帝国物語⑦)

おひさしぶりです。

では(°▽°)


 ここで一旦,ルイ14世(1638-1715)のあゆみを振り返る。

 当時ルイ14世率いるフランス軍は最強だった。そしてそのフランスになんとか対応していたのがオランダだった。ルイ14世はじめての侵攻となったネーデルランド継承戦争(1667-68)ではスペイン王の死後スペイン領だった南ネーデルランドの継承権を主張したが受け入れられなかったために軍事侵攻を始めた。
 しかし,この侵略はオランダがすばやくイギリスとの戦争(第2次英蘭戦争,1665-67)を終わらせ逆にイギリスを味方に引き入れたことによってルイ14世は返り討ちに遭い,失敗となっていた。

 その後,怒ったルイ14世は隠れカトリックだったチャールズ2世を引き入れ(ドーバーの密約,1670),オランダがイギリスと戦争(第3次英蘭戦争,1672-74)しているあいだにオランダへ侵攻(オランダ侵攻戦争,1672-78)をはじめたが,イギリスが脱落し,さらにオーストリアやスペインと同盟したオランダの猛攻撃によって,ルイ14世は撤退せざるを得なくなっていた。

第1局面:引き分け

 これからフランスは約100年間戦争しつづけることとなる。

 その後も侵略が飽きたらなかったルイ14世は,ドイツ西部でネーデルランドとフランスに接しているラインラント地方の領主の死後(1685)にその継承権を主張したが受け入れられなかったために,またも軍事侵攻を始めた(ファルツ継承戦争,1688-97)。
 ルイ14世に対抗するため,ドイツ,スペイン,オランダ,オーストリアなどが同盟し(アウスブルク同盟),さらに名誉革命(1688)でオランダと同一の王となったイギリスもこの同盟に加わることとなった。
 その結果フランスは敗北し,講和条約(レイスウェイク条約,1697)によってルイ14世が(1678年から)侵略してきた土地のほとんどを返還することとなった。また同時期には北アメリカでフランス領とイギリス領のあいだで植民地拡大の戦争(ウィリアム王戦争,1689-97)が起きていたが,こちらは痛み分けという結果となった。

 また,この戦争のあいだイギリス国内では戦争費用を調達するためにイングランド銀行が設立(1694)された。
 このイングランド銀行は「国債」を発行した。この国債によって戦争費用を調達するというのはこれまでの絶対王政の時代にはなかったやり方だった。そして,この新しいやり方がこれからの対フランス戦において圧倒的勝利をもたらし,その後の大英帝国繁栄の要因のひとつとなった。

 そして同じ時期,イギリス国内ではメアリ2世が死亡(1694)したため,夫でありオランダ総督であるウィリアム3世が後を継いでいた。

第2局面:イギリス大勝利

 これらの戦争が終わったのも束の間,スペインの王家であるハプスブルク家のカルロス2世が後継者を残さずに死亡した(そしてスペインハプスブルク家は断絶した,1700)ことで,また戦争がはじまることとなった(スペイン継承戦争,1701-13)。

 適任者はいなく,オーストリアハプスブルク家レオポルド1世の子であるカルロス(のちのカルロス3世)かルイ14世の孫であるフィリップ(のちのフェリペ5世)が有力だったが,死の淵にあったカルロス2世が遺言でルイ14世の孫であるフィリップを指名したことで,ルイ14世はこの遺言を支持し,孫のフィリップはフェリペ5世としてスペイン王に即位することとなった。
 そうして(かつてあったスペインとオーストリアからの挟み撃ちとならずに)ルイ14世は事実上スペインを支配することとなった(このときスペインのアメリカにあける黒人奴隷の貿易権をフランスに譲らせたが,この戦争でさらにイギリスに移譲することになる)。

 ただし,その遺言には「フランス王になっちゃダメねぇ」という条件が付け加えられていた。しかし,フェリペ5世はフランス王の継承権を放棄しなかった。するとスペインとフランスが一体となって強大化する恐れがあるために,他のヨーロッパ国は反発することとなった。

 ルイ14世のスペイン支配による権力強化は他のヨーロッパ国を脅かし,イギリス,オランダ,オーストリアで同盟を結ばれた(ハーグ条約,1701)。武力衝突となったが,その途中でオーストリアハプスブルク家のレオポルド1世が死亡した結果,その地位には息子でありフェリペ5世と同じくスペイン王と主張していたカルロス3世が継ぐこととなった。
 スペイン王の地位はフェリペ2世かカルロス3世で争われたが,こうなると他の国は急に態度を変えた。それまでとは違い,カルロス3世がスペイン王になるということは,そのままオーストリアと同一になることを意味していた。
 こうしたことからフェリペ5世を容認する方向で風向きが変わり,実質的にフランスとスペインが敗北するかたちで講和条約(ユトレヒト条約,1713)に至った(オーストリアだけはその1年後にフランスと講和条約を結ぶ)。

 その講和条約では,フェリペ2世が国際的にスペイン王として認められる代わりに,フランス王になる権利を永久に放棄した(ちなみに,こうしてスペイン王家となったフェリペ2世のブルボン家は現在までつづいている)。
 また,主にスペインが領土を喪失し,オーストリアとイギリスが領土の獲得に成功し,さらにイギリスはスペインが持っていてフランスに移譲されていた黒人奴隷の貿易権も獲得していた(これによってイギリスは莫大な富を獲得することなる)。
 そしてこの講和条約以降,ヨーロッパの国は「条約を使ってヨーロッパ国のパワーバランスをうまいこと保っていきましょうねぇ」というスタイルに変わっていくこととなった。
 また,この時ルイ14世がイギリスのプロテスタント王位を正式に認めたことからイギリスとフランスの関係は良好となり,イギリスが政治的な安定を獲得できたことは,のちにイギリスが繁栄する土台となった。

 また,このスペイン継承戦争(1701-13)の最中,北アメリカではイギリスとフランスが戦争(アン女王戦争,1702-13)になっていた。

 そのきっかけは,大陸でスペインとフランスが近づいたことから,スペイン領をフランスが継承するといいだしたことだった。この戦いの結果,イギリスが勝利することとなり,スペイン継承戦争と同じくユトレヒト条約で講和となった。
 そしてこの時,イギリスの王はアンとなっていた。ウィリアム3世はスペイン継承戦争開始直後,馬から落ちて死んでいた。そしてウィリアム3世とメアリ2世のあいだには子がいなかったために,メアリ2世の妹であるアンが国王となっていた。

第3局面:引き分け

 オーストリアハプスブルク家のカール6世(カルロス3世と同一人物)が男子を残さずに死亡すると,その後継をめぐってオーストリアとドイツが戦争がはじまった(オーストリア継承戦争,1740-48)。

 この戦争では主に機械や鉱産業が盛んだったシュレジェン(現在のポーランドのヴロツワフ)の領有が争われた。これを機会にオーストリアハプスブルク家の弱体化を狙うフランスとスペインがドイツに支援し,対するオーストリアには植民地でフランスやスペインと対立しているイギリスやドイツを警戒するロシアが支援した。
 その結果ドイツが戦いを有利に進めたまま講和(アーヘンの条約,1748)となり,ドイツはシュレジェンの獲得に成功した。そして,このシュレジェン獲得によってドイツは一気に領土を拡大させ,大国への道を開くこととなった。

 また,同じ時期にイギリスとフランスが植民地である北アメリカ(ジョージ王戦争,1744-48)とインド(第1次カーナティック戦争,1744-48)でそれぞれ戦争したが,結果は引き分けとなった。

第4局面:イギリス大勝利

 ドイツはどんどん強大化していったが,それに焦ったのはオーストリアだった。

 そこでオーストリアは,これまででは考えられないような大胆な外交政策を行なった。それは,フランスと組むことだった。
 ハプスブルク家とフランス長年大陸の覇権をかけて争う間柄だったが,ドイツの脅威によってオーストリアは同盟相手を迫られた。それまで支援を受けていたのはイギリスだったが,資金のみで軍隊を送ってこないこと,そして海を隔てていることからライバルだったフランスを選択するに至った。
 また,ロシアとも同盟を結ぶことでドイツを大陸で孤立化させることに成功した。

 こうして海外ではイギリスvsフランス,大陸ではドイツvsオーストリアという構図がはっきりと現れることとなった。

 大陸で孤立化したドイツは巻き返しを図るためにオーストリアに侵攻した(7年戦争,1756-63)。ドイツの圧倒的敗北かと思われたが,ロシアと単独で講和できたこと,フランスが植民地の戦争に手を焼いていたこと,そしてドイツ国王の軍才によってなんとか切り抜け,そして講和条約(ベルトゥスブルク条約,1763)でシュレジェンの領有を正式に認めさせる大金星をあげることとなった。

 また同じ時期に,イギリスとフランスが植民地である北アメリカ(フレンチインディアン戦争,1755-63) とインド(プラッシーの戦い,1757,第3次カーナティックの戦い,1758-61)で戦争行ったが,フランスの大敗北となり,この講和条約(パリ条約,1763)によってイギリスは一気に植民地の拡大に成功し,フランスは植民地のほとんどを失うこととなった。

 そうしてイギリスとフランスは一連の戦争で明暗を分けるかたちとなったが,この一連の戦争で大量に戦争費用を注ぎ込んだ結果,イギリス植民地の北アメリカでは独立の動き(アメリカ独立戦争,1775-83)が,フランス国内では打倒王権運動(フランス革命,1792-99)が起こる原因となった。

 これまでの第2次百年戦争を整理する。
 大陸の方では入り乱れているが植民地では常にイギリスとフランスが戦争していた(そしてフランスは勝てない)。

第1局面(1688-97)
ヨーロッパ:フランスvs ドイツ,オランダ他
北アメリカ:イギリスvsフランス
→→引き分け,イギリスがイングランド銀行を設立する

第2局面(1701-14)
ヨーロッパ:フランスvsオーストリア
北アメリカ:イギリスvsフランス
→→フランス敗北でオーストリアとイギリスが領土拡大,イギリスはさらに黒人奴隷貿易権を獲得し,カトリックの排除にも成功する

第3局面(1740-48)
ヨーロッパ:ドイツvsオーストリア
北アメリカ:イギリスvsフランス
インド:イギリスvsフランス
→→北アメリカとインドでは引き分け,ドイツが領土拡大に成功

第4局面(1756-63)
ヨーロッパ:ドイツvsオーストリア他
北アメリカ:イギリスvsフランス
インド:イギリスvsフランス
→→フランスが敗北して植民地を失う。イギリスが一気に植民地を拡大させる



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