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かんたん「黄金のオランダ帝国史」世界史⑥

おひさしぶりです。

資本主義のはじまりってどこか知っていますか?

実はオランダです。

この資本主義のはじまりをめぐってオランダの歴史を調べてみたんですが,そのややこしさたるや山よりも高く,海よりも深かったです。その理由というのは,いわゆる「国」がまだ無いこととか天下統一を企むヨーロッパの織田信長みたいなのとかあとは宗教なんかが影響しているんだと思うんですけど,とりあえず概要だけまとめることができたので良かったら読んでみてください。

はじめてオランダ近世史に興味をもった方には参考になると思います。

はじめます!


■ 黄金の近世オランダ史

0)まとめ:近世のオランダ史は一言でいえば「無敵艦隊スペインと大英帝国のあいだを埋める時代」。毛織物工業の発展で商人に利益をもたらしたネーデルランドがカトリック国スペインに支配され,国内でカトリック派と増えていたプロテスタント派の争いがはじまり,北部の7州がプロテスタント国オランダとして独立し,東インド会社をつくって海外貿易で果てしない利益をあげ,世界貿易のシェアの大きさから金融の中心地となるも,同じプロテスタント国のイギリスと次第に競合するようになり,最後はイギリスとの直接対決で負けたことによって衰退していく。これが流れ。こうなった理由などが以下↓

1)中世末期から毛織物工業が発展する:毛織物とは羊毛を原料として織物をつくる生産技術のこと。当初ヨーロッパの技術はイアスラム圏ペルシャのはるか下だったが,ネーデルランド(現在のオランダ,ベルギー,ルクセンブルグ)のフランドル地方がイギリス産羊毛を原料にして生産をはじめたあたりから技術発展をとげ,一大産業となった。中世ではイギリス産とスペイン産の羊毛を原料に,北イタリアとベルギーのフランドル地方によって生産され,商人は莫大な利益を手にしていた。次第に羊毛加工産業は商人の資本を投下する対象として人気を集め,「投資家」や「銀行」を生み出した。

2)カルヴァン派が増える:1546年からカトリック国であるフランスに広まりはじめたカルヴァン派は,隣国のネーデルランドにも流入した。カトリックとはローマ帝国時代から続く伝統的なキリスト教のことで,カルヴァン派とは反カトリックとして現れたプロテスタントの主力一派をいう。その違いは,プロテスタントは教会特権を排除し平等主義なこと,そして利益の追求は善い行いだとすること。カトリックと異なった思想は商人や市民に受け入れられ,資本主義の土台をつくった。

3)改宗を強制される:当時ネーデルランドはスペイン領だったため,カトリックを信仰していたスペイン国王によって,1545年から1567年にかけて異端宗教の弾圧が繰り返された。運動が緩んだタイミングでカルヴァン派が一斉にカトリックの教会や修道院を破壊したことで,スペイン王のカルヴァン派に対する弾圧はさらに強まった。

4)スペインに反抗する:そこでネーデルランド諸州の有力貴族だったウィリアムが立ち上がり,ネーデルランド諸州を味方につけ,カルヴァン派としてスペインを一戦かまえた。

5)北部が独立する:戦いの結果,カトリックの多い南部では難しかったが,対スペインとして同盟を結んだ北部の7州はフランスのカルヴァン派の力も借りてスペインからの独立を宣言し,1581年にオランダが誕生した。スペインとの戦争はまだ続いていたので,オランダはスペインの王家に対抗できるような大領主に保護してもらおうと思ったが結局見つからなかった。

6)東インド会社を設立する:スペインとの独立戦争と同時に海外進出も行った。1602年に世界で初めての株式会社といわれるオランダ東インド会社を設立し,ポルトガルの海外勢力などに侵攻しインドやインドネシアなどの貿易を独占した。ポルトガルは1580年にスペインに併合されていたので,植民地政策まで手が回っていなかった。1621年にはオランダ西インド会社も設立し,アフリカからブラジルに黒人奴隷を運び,その奴隷をブラジルの大規模砂糖農園で労働させ,その砂糖をヨーロッパで売るというポルトガルが行っていた貿易システムを奪い,そこで莫大な富を得た。1600年代はじめには,オランダは世界の発明の25%を生み,中でも造船技術はオランダの競争力と世界貿易のシェアを大きく向上させた。

7)金融都市として栄える:人口が少ないにもかかわらず(150万人くらい。当時イギリス660万人,フランス1600万人,日本1800万人,中国1.5億人),オランダは世界貿易の1/3以上のシェアを占めた。オランダ人の所得は一般的なヨーロッパ人の2倍以上となった。識字率は世界平均の2倍となった。首都のアムステルダムは金融の中心地となった。最初の主要な証券取引所をつくった。基軸通貨としてオランダギルダーが使われ,国際取引の1/3以上を占めた。この頃(1650)オランダは頂点にいた。

8)イギリスとぶつかる:しかし,次第に同じプロテスタント国であるイギリスが海上貿易の覇権をかけてオランダと衝突するようになった。オランダとイギリスは1688年以降同盟関係にあったが,その中でカルヴァン派はイギリスにも流入しており,利権がバッティングしはじめていた。初めのうちオランダは善戦したが,次第に国力の差が目立つようになった。1600年代後半からはオランダは高い賃金のために国際競争力が低下して貿易収入は減り海外事業の収益も低下する一方,戦費調達で行った債務の返済の負担は大きくなっていた。

9)フランスが負ける:イギリスは1688年からフランスとの植民地戦争をはじめ,これに勝利した。イギリス勝利の要因のひとつには,フランスがその戦費を貴族への課税などで対応したのに対して,イギリスは「国債」を発明し,地主層やオランダの資金を得たことがあげられる。この戦いによってイギリスはアメリカやインドを植民地として獲得し,そこから莫大な利益を得るようになる。この,イギリスから工業製品をアフリカに持ち込み,アフリカから黒人奴隷を積んで西インド諸島や北アメリカ大陸に運び,そこで収穫されたタバコ,綿花,砂糖などを積んでイギリスに帰ってくるという三角貿易は1713年ころからはじまり,これによる利益の蓄積はイギリスの産業革命を推進させた。最終的には力をつけたイギリスに対してオランダは大敗することになり,世界経済の主役の座をイギリスに明け渡した。

10)金融が崩壊する:特にアメリカ独立戦争と同時期に起こった1780~1784年の第四次英蘭戦争によってオランダは壊滅状態となり,西インドやインドの植民地も失った。いままで削減していた軍事力,失った船と貿易路,増え続けた債務,貿易ダメージで倒産間近の東インド会社などから衰退を余儀なくされた。特に重要だったのは東インド会社の収益が消えたことだった。東インド会社はオランダ政府にとって重要な企業だったのでアムステルダム銀行の貸付によって救済措置がとられた。しかし,不審に思ったアムステルダム銀行の預金者たちは取り付け騒ぎを起こし,それによって銀行の金はみるみるうちに減っていき,それと同時にギルダー安が進行した。金利は上昇し,通貨の切り下げをするしかなく,危機に対して大量の紙幣発行をした結果,ギルダーの信頼は失われた。銀行預金は大幅なディスカウントで取引された。銀行は外貨準備高を使ってなんとか自国通貨を買い支えようとしたが,十分な外貨準備高はなかった。オランダギルダーは菌やポンドに対して明らかに暴落し,この出来事はイギリスポンドが準備通過になるきっかけとなった。その後アムステルダム銀行はアムステルダム市へと引き継がれ,オランダは1795年にフランス革命軍によって支配された。



以上,かんたん近世オランダ史でした。「無敵艦隊スペインと大英帝国のあいだを埋める時代」がどんなものかを掴めたかと思います。

より詳しいオランダ経済はこちらの「オランダ帝国とイギリス帝国の大きなサイクルとその通貨」にあるので良かったらみてみてください↓

おわります!



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