英vs米(大英帝国物語⑧)

独立宣言

こうして植民地ではイギリスがフランスをボコボコにし,完全なる勝利を収めることとなった。そしてその勝因はイギリスがつくった新しい資金調達システムによるところが大きかった。しかし,その新しいシステムである「国債」を大量に発行した結果,国債を返済するための資金が不足することとなったイギリスは,これらの戦争で使った資金は現地から徴収するべきだということで,植民地である北アメリカの北部13州にさまざまな課税をはじめた。

それまで怠慢主義としてやりたい放題であり,ほとんど本国から干渉を受けていなかった北アメリカのイギリス植民地13州はこれに反発して戦争(アメリカ独立戦争,1775-83)がはじまった。アメリカの独立運動は重税に耐えかねた現地人による自由を獲得するためのヒーロー物語として語られることが多いが,実は,単にそれまでの状態があまりにもやりたい放題なだけだったとも言われている。

イギリスでブームになっていたお茶がアメリカでもブームになっていたために,イギリスはお茶に税金をかけた。さらにアメリカのお茶はオランダから安く密貿易で輸入されていたのでそれを禁止し,お茶の輸入はイギリス東インド会社からの直輸入のみとした。このお茶は価格が安く設定されたので喜ばれるはずだったが,アメリカ現地にいた密貿易者や商人は廃業に追い込まれたので反発を食らうこととなった。これらの人びとが,船で運ばれてきた大量のお茶を一気に海にブチまけるという暴挙に出た(ボストン茶会事件,1773)ことがきっかけになって植民地軍とイギリス軍は戦争することとなった。植民地軍はフランス,スペイン,オランダの手を借りたこともあって見事勝利し,国の独立を正式に宣言した(1776)。

そしてこの戦争のあたりから,それまでイギリスのやり方だった植民地支配と黒人奴隷貿易による重商主義的なやり方(国内産業を保護して輸出を増やす)から自由主義的なやり方(規制をなくして自由に貿易する)へと,イギリスの貿易政策は変わっていくこととなった。

フランス革命

一方でイギリスの弱体化を狙ってアメリカ独立戦争に参加したフランスだったが,この戦争への参戦によってこれまで積もりに積もってきた財政難問題に決定的なダメージを与えることとなり,さらにイギリスの議会制度発足やアメリカの独立に影響を受けたことで民主的ではない政治のやり方への不満が溢れてフランスは内側から空中分解する(フランス革命,1792-99)こととなり,その結果,フランス国王流16世は処刑され,フランスの絶対王政制度は終わることとなった。

王が処刑されてフランスの政治は不安定になった。そんな中で市民の支持を集めだしたのが軍人のナポレオンだった。はじめナポレオンは,フランス革命に干渉してくる外国勢力からフランスを守るために戦ったが,だんだん勢いがついてくると大陸で派手に暴れだしはじめた(ナポレオン戦争,1799-1815)。

大陸を侵略しまくっていた軍事の天才ナポレオンだったがイギリスに敗北し(トラファルガーの海戦,1805),そしてロシアにも敗北したことから威勢が悪くなり,最後はヨーロッパ連合軍によって決定的な敗北を味わい,ナポレオンは島流しとなった。

その後の国際会議(ウィーン会議,1815)で,「ナポレオンにヨーロッパぐちゃぐちゃにされたから前のやつに戻そうよぉ」と意見が一致したことで,主にロシア,オーストリア,ドイツで自由主義が否定されて,独立運動や市民革命を起こさせないような体制がヨーロッパに敷かれることとなった(そして諸国民の春によって破壊される,1848)。しかし一方で,この会議に参加していたイギリスはこうしたヨーロッパの国際協調から離れていくこととなった。

その必要がなかったからだ。

イギリスはすでに,今まで誰も見たことなかったようなスゴいマシーンを発明して商品を大量生産し(産業革命),お金でお金を生みだすというシステム(資本主義)をどんどんと発展させていっていた。この繁栄がなぜイギリスだけにもたらされたかには,いくつかの理由がある。



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