見出し画像

30年前の養老先生が編集した脳の本が現代のAIの先を行っててメチャクチャ面白かった話

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 養老先生がむかし編集した本で、『脳の大宇宙──脳研究の先端モード』という本がある。ベネッセの前身・福武書店から出ていたものだが、なんせインターネットなどというものが世の中にまだ普及する前の時代だから、ネットで調べてもあまり詳しいことがわからない。だいたい「編集」というのはどこからどこまでご本人が関わっているのかわかりづらく、端的に言うと養老先生が執筆されている文字数がどの程度あるかないかでだいぶ話が違ってくる。それで私も長いあいだ存在自体は知りながらもなかなか手を出さずにいた本なのだが、いまはメルカリというAmazonとはまた違った意味で便利なサービスがあり、どのように便利かというと、出品者と直接コンタクトが取れるので内容について詳しく問い合わせることができ、場合によっては写真までアップしてもらえる。なので、暇ができるとキーワード検索でダッーと画像を眺めていって、「おっ」と思うものがあったらウォッチリストしていくというのをルーティンワークにしているのだが、そうして手に入れた本の一冊が、今回ご紹介するこの本である。

 で、この本なのだが、結論から言うとめっちゃ面白い。「人工知能は神たりうるか」という養老先生と橋田浩一氏(認知言語学が専門で、コンピュータの技術開発を研究)との70ページにわたる対談があるのだが、もう一度言うがこれは1989年に刊行された本である。養老先生が雑誌『現代思想』に「唯脳論」を連載していた時期である。その時代に、現在AIブームで議論されていることを、いくつか先取りしている。
 「人工知能は神たりうるか」という題名からもわかるとおり、「ヒトの脳を包摂するような脳があれば、それは事実上の神と同義である」というのが養老先生の考える神である。それで、要するに人工知能は自然知能すなわちヒトの脳を超えるかということを主題にしている。ディープ・ブルーがチェスでカスパロフに勝ったのが1997年だから、その約10年前にこの議論がなされていたということになる。それで、どのようなことが書かれているかというと、「人間以上の人工知能などというものを作ってもしょうもないんじゃないか」という。つまり、人工知能のモデルがヒトの脳を超える、もしくはそれに非常に近接してくると、そのオペレーション自体がもはやトレース不可能なものになり、人間がヒトの脳を調べきれないのと同じ意味で、理解できないものができあがっちゃう。だからこそ「神」なわけで、まさしく「神のみぞ知る」。
 なので、何をやってるのかが分かりやすい範囲の中で、現実に何をやらせることができるかという、そういう方向で実際のAIはむしろ発達してきたのではないかと思う。碁将棋で人間と対決して勝つ!みたいなAIは、派手で話題性があるので、その度に「AIは人間を超えられるか」というテーマが繰り返し流行するのだが、たぶん現実のAIはそういう方向は目指していないだろうと思う。人間に反逆するAIというのは小説や映画の世界にこそ相応しいもので、人間を超えるような知能を作りたければ、それこそ養老先生がいつも言っているように、AIをいじるよりヒトの脳をいじった方が早い。それは倫理的に許されないというかもしれないけれど、そもそも脳というのは常に変化するもので、細胞はどんどん死ぬし、言語を学習したりもする。そうすると、脳を外側から間接的にいじるということは常に許容している。そして、歴史上人間は常に頭で考えたものを現実に作ってきたように、(善悪の是非はともかくとして)神もまた作ろうとするだろうと。
 つまり、明治期に日本に入ってきた西洋医学が当時の日本人にとってほとんど宗教だったように、 AIはもう信仰の対象である。自分に向いている仕事をAIに診断してもらうとか、成績に合わせてAIが試験問題を作るとか、そういうのは宗教や信仰と同じ。宗教なんて非科学的なものとAIを一緒にするなと思うかもしれないが、世界を認識する方法にはたくさんのヴァリエーションがあっていいはずで、自然科学はそのひとつに過ぎない。科学が発達することによって科学と非科学の境界がなくなり、いままで迷信や神話として語られてきたものが科学の対象になると思っているかもしれないが、科学が客観的、つまり一人称を排除し続けるかぎり、文学や宗教は決してなくならない。
 次に、文学や宗教を培った言語について考えてみる。すなわち、言語を理解する人工知能を作ることができるか、と。現在もAIにできないことは、ひとつは善悪など価値判断をすることで、もうひとつは意味を理解することある。ペッパー君みたいなものは一応言葉を理解しているかのような返答をしてくるけれども、それは見かけ上理解しているかのように振る舞っているだけで、実際のAIは言語を理解はしていない。で、養老先生がすごい面白いアイディアを語るのだが、ご存知のように養老先生の言語に対する見方というのは、「視覚と聴覚の共通処理」というもので、われわれは文字を目で読んでも、言葉を耳から聞いても、同じ日本語として認識できる。では、これをコンピュータにやらせたら? たとえば、人工的な眼というものを考えてみる。これはもちろん目玉だけ作るのではなくて、その背後にある視覚系全体も含めた「眼というシステム」のことである。で、そういうものができたら、それに文字を読ませる。現在も画像から文字を認識するAIというのはある。そして、これに言葉を音で聞かせてその結果と突き合わせたら何が起こるんだろう、と。これはとても面白いアプローチだと思うのだが、実際こちらの方向から研究している例というのはあるのだろうか。たぶん従来の言語を機械に理解させる試みというのは、現実に出来上がっている言語を分析してそこから原理的なものを導き出し、文法とかも典型的にそうだと思うが、そういうふうに論理的に言語を理解させようとするアプローチでなされていると思う。そうではなくて、理解させるのではなくて、視覚と聴覚の刺激を突き合わせたら、そこに言語的なものが発生するんじゃなかろうか、みたいな話である。
 こんなふうに、すごく面白い対談になっていて、他にもたとえば、養老先生は感覚を磨くということをよくおっしゃっていて、その背景には解剖学で身体を扱ってきたからだということをご自身で起源を語っている。で、私もそれはもう耳にタコができるくらい聞いたのだが、たぶん養老先生と同じレベルではそれを理解していなかったのだ、ということに気がついた。それは、この対談のなかで、「もし解剖学じゃなくて生理学をやっていたら、もうちょっとメタレベルで考えていたんじゃないか」とボソッとおっしゃっていて、おそらくわれわれよりもはるかにリアルに感覚で世界を捉えているんじゃないかと思った。
 長くなってしまったが、この時代の養老先生の本を読むと、現在の養老先生の理論がどのように形成されてきたかというルーツみたいなものが散りばめられていて、それがまた面白い。こういう〝当たり〟をたまに引くから古本は楽しい。そういうわけで、みなさんもこの本を見かけたらぜひ読んでみてほしい。


養老先生に貢ぐので、面白いと思ったらサポートしてください!