何も描けなくなったのでアート合宿へいってみたら命が息を吹き返した話
2023年のゴールデンウイークは逗子へアート合宿へ行ってきました。その付近で私に何が起こったのか私の言葉で残してみます。
書き出すとまとまらなかったのでまとめないことにしました。
目次だけでもご覧ください。
🌖 日常と旅立ち
絵が好きだった感覚はどこへやら
ベンチャーでデザイナーをしていたところ、4年目ごろから体調の様子がおかしくなり強制終了。休職期間はコーチングを探求しながら自分を捉え直していた。労働から逃れて数週間。絵を描いてみたい気持ちが少しでる。でも5分してすぐに嫌になって放り出す。そんなことの繰り返しでもう自分にはあの頃絵が好きだった感覚がなくなったのかと諦めていた。
アート合宿とやらがあるらしい
そんななかみどりんがある合宿を勧めてくれたアート合宿。
内容を見てみるとキラキラして眩しい。お値段もそこそこする。う〜んと思いながら悩んでいたら親指が勝手にポチっていた。
今の私は誰かに筆を持たせてもらわないと何かを忘れ去って生きていくことになりそう。
絵を描けない。私の今ここの状況はいろんな過去を反映している。
寝食忘れて描き耽っていた幼少期の熱狂。
美大にいきたいという声を出せなかった、大きな未完了を残したままで今ここにいる後悔。
きっとデザインだったら頑張れる、デザインが好きだと思っていたけどだんだんその想いが麻痺していった感覚。
評価、判断を目的に社会に必死に馴染もうともがき続けていた沼の中の自分。
白い紙とペンが目の前にあっても何も湧き起こらない虚無感。
これも現実で今起こっていることだと受け入れて別の道に進む選択肢ももちろんある。でもその前に、最後に本当に描きたい気持ちを忘れてしまったのかは確かめておきたい。
自然体で個性濃いめの顔合わせ回
事前のオンラインでの顔合わせ。主催者の方と初めて話した。勝手に想像していたキラキラした人というよりはありのままで自然体の人たちがいた。参加者全員で命のロングチェックインという名の自己紹介をそれぞれ行う。
私の番では上で書いたあれこれをとりあえず全て伝えてみた。自己紹介でこんなに曝け出すことがなかったから顔の筋肉も硬直してワナワナしながら「直感と感情だけで漂っていたいから合宿中はふらふらしているかもしれないです。今ここに止まり続けられなくて空想世界に飛んでいっちゃうんです。」そう話した私に主催者のひでみんさんが共鳴してくれて届けてくれた言葉。
「その空想世界自体が今ここになると良いね〜」
何も力まない世界がそこにありそうだった。共鳴してくれる方、私が共鳴できる方と囲まれながらの合宿が楽しみ。
顔合わせを通して確信できたのは"おもろいひとたち"がここに集まっているということ。
合宿は描く環境はそこにあるけど思いっきり描いてもいいし描かなくてもいい。日向ぼっこしてても柚子胡椒食べててもいいそんな時間が4日分用意されているらしい。
絵の具とキャンバスと自由が目の前に揃った時、自分の中で何が起こるのか。もしこれで何も起こらなかったら、何かを表現することからしばらくさよならしてみようかな。
合宿1週間前の今
ちなみに合宿1週間前にしていまだに私は何も描きたくない。
あまりに描きたい気持ちがなさすぎて「ヒトはなぜ絵を描くのか」を読んでみるなどしていた。
そういえば今年上半期のしいたけ占いも「素敵なクソガキから素敵な大人へ」と言ってたっけ。素敵なクソガキとしての現在地を今は生きろということかもしれない。
始まる前の私はこの合宿に何も期待してなかった。みんなが筆を持ってても私は散歩に行きたくなってるかもしれないし、何にもかけなかった〜って終わるかもしれない。まあそれでもいいか。そんな感じでした。
ちなみに語感のニュアンスで「逗子」と「伊豆」を混同してて、直前に気づきました。
🌗 拒絶と出会い
逗子の景色が美しすぎて目が開かない
到着したら海でチェックイン。こんなに綺麗な景色があるのに、目の前の人たちは花の香りや犬を見て楽しんでいるのに、私はどこか心配をしている。綺麗なものがあるのに味わえない。何も見えない。そんな感じのことを話した。果たして私は絵を描くのかしら。
黒しか使えない
最初は100枚つづりのスケッチブックに書き殴るなどしていた。目の前に10色以上のクレヨンがあるのに黒しか手に取れない。黒いものしか思い浮かばない。
う〜んと唸って描いてたら
「じゃあ今日は黒と戯れる日にしよう」
と、すとさんからのお誘い。
クレヨンの黒が飽き、クレパスの黒が飽き、黒の色が飽きていろんな絵の具の色を混ぜて濁らせたくなり、そしたら紙がベロベロになる。
ぼーっとして シャドウとサブパーソナリティの分布を描きながらとがみんと話してると、最近大きなサブパーソナリティの負けず嫌いさんの根っこがどんどん黒く染まって大きくなっていった。
今日は視力を下げてみます
黒しか選べない昨日を経て、今日はもう周りの綺麗なものを見て焦りたくなかった。事柄を見ることをお休みしたくなったので、メガネもコンタクトも外して裸眼で描いてみる。ぼんやり見えてくる綺麗な色を感じながら過ごしてみる。
そうすると何が見えるかよりも、何を感じて何を思うかにアンテナが向いてくる。具体の世界の中からだんだん内面に意識が向いて行った。
ここはどんな声も出していい場所だ
「さっちゃんはね、二日目の夜から途端に喋り出すよ」
すとさんのえのき占いが唐突に予言した。確かに私は今言いたいことを飲み込んでる。もっと喋りたいのに。でもこれいつもやってるやつだ。
そしたらひでみんさんとすとさんがダジャレとかギャグをふわふわ喋ってて楽しそうだった。話したい。ちょっと話してみる。通じた。案外しゃべれるかも。また話してみる。通じた。嬉しい。もうちょっとしゃべってみる。もう通じなくてもいいから声を出したい。
こんな感じでえのき占いの予言のままに、人生二回目の語彙爆発が起こっていった。
絵の具美味しそう
何十色もの絵の具。聞いたことのない色の名前。久々に触れた絵の具の感想は「美味しそう」。
これはカニ味噌、あれはバーニャカウダ。あれはユッティ〜とみたいとか言いながら絵の具の質感を思い出していく。たっぷり載せるとツノが立つ。ヘラでさっとなぞると掠れながら伸びていく。
この世界、綺麗すぎてつまんねえ
周りのみんなの色使いが急に気になってくる。すごく繊細で綺麗な色をいっぱい使ってる。繊細で可憐な色使い。私にはない。私も繊細に描いてみたい。
いざ塗ってみると他の人みたいに美しくならないし、なんだかつまらない。これを繊細というのかもしれないがなんだかつまらない。
🌑 試練と成長
すとさん、私まだ爆発してません。
こう呟いたら
「っていうか飽きたんでしょ」
とすとさんに撃ち抜かれた。できそうなことしかやらない今に飽きた。爆発のない展開に飽きた。つまんない。
「絶対使わない色を使ってごらん。もう筆とかやめて手で塗りなよ」
すとさんが爆弾の作り方を教えてくれた。適当に色を取る。手で色をこねる。ひぃ〜と言いながらさっきまで薄黄色だったキャンバスにどす黒い色を撫でていく。
べっとりしてる絵の具の冷たさを感じながらぼーっとキャンバスと戯れてたらみるみるうちに暗くてドロドロした世界になっていった。
そして私はこれにも飽きた。一旦別の絵を描こう。
飽きた絵を白で塗りつぶしてやり直したら、
また飽きた
大きなキャンバスを暗い色で塗りたぐるのに飽きたので、前日遊んでいた小さめのキャンバスを白でやり直すことにした。
この世界はなんとも汚ねえ
傍に置いていたさっきの一番ドス黒いキャンバスをもう一度引っ張り出してくる。
どうしよう、これを失敗として次のキャンバスにいくか、でも一番大きいキャンバスもらったからな。。
今回の合宿は綺麗な色を載せたら載せたでつまらないし、汚い色を載せたら載せたで絶望する。
人って変われますか
目の前の汚いキャンバスに呆然としながら、隣に座ったすとさんにふとそう聞いてみた。
「今思うのは、人は変われる。でもそこに必要なのは変える側の自身への自己信頼と、それがあって初めて生まれる変える対象へ向けた信頼。両方があって変容が生まれていく。」
などど話しながら、今目の前にある汚ねえキャンバスに働きかけるには2種類あるかもと思った。
ジェッソで白く塗りつぶしてもう一回新しく綺麗な色を載せていく方法と、
この今は汚ねえキャンバスに色を載せていく方法。
きっと前者には自分には今ここから変えられるという自己信頼がなく、後者にはある。そんな感じ。
今日の私は後者を選ぶぞ〜と呟きながら色を載せることにした。
対峙してみると案外楽しいもので
どっからみても汚い世界に対して、恐る恐る色をヘラで乗せる。
なんか上手く馴染まない。なんでだろう。ヘラがもしかしたら違うのかもしれない。そういえば汚い世界は手で描いた。その生い立ちと同じ方法で対峙した方がいいのかもしれない。手で塗ってみよう。
組織で走れなくなった時、その時私が私自信に対して必要だったのは、己に打ち勝って歯を食いしばって立つとかじゃなくて、今自分に何が起きているのかを味わうということ。自分に対して対峙ではなく対話をするということ。それは時間もいるし何かを生産する行為とは程遠い。なので働くことをお暇することを決めたんだった。
なぜかわからないけどそんなことを思い出していた。
さっきまでヘドの色だったのがチョコレートの色に見えてきた
手で綺麗な色を載せていく時、私とキャンバスの関係性は対峙から対話に変容していったのかもしれない。さっきまで避けたかった色が美味しそうな色に見えて来た。図と地の転換がそこにあった。
よくみるとただ暗いだけじゃなく独特な混ざり方をしている深い色をかき消さないように、最後はそっと関わっていった。
どう足掻いても抗えないモノノコトワリ
ふとした表紙に、下に置いてあった綺麗な色の絵にどろっとした暗い色がついてしまった。
「すとさん、汚い色が入ると綺麗で退屈だったものが美しくなっていく!」
綺麗な色は愛でて捏ね過ぎるとドス黒い色になる。減法混色って言葉があったっけ。混ぜすぎない、そのままを待ってみるのも大事なのか。でも混ざった色も深みがある。
乱雑さがが増大していくモノノコトワリは断ち切れない。キャンバスの中でそんなことが起こっていて楽しかった。
人も組織もブランドも、変えるってこういうことだったのかもしれない
いろんな機会をいただいて、私はこれまでの仕事でリブランディングやリニューアルのプロジェクトに携わらせてもらった。
まっさらの更地に戻してゼロから出発して変えるのはクイックで、どうとでもできそう。そこには何が寂しいものもある。
今ある良さを生かすやり方は結構な辛抱と忍耐が必要。今の土台を眺めて、その歴史に触れて、対話する。この方角はどう、この道はどう、こんな色合うんじゃない、と確かめながら一緒に互いに新しいカタチになっていく。
そんな関わりを私は絵を通して再現していた気もする。
逗子で私は飽きることを許し続けていた
黒に飽き、綺麗な色に飽き、キャンバスのサイズに飽き、できることしかやっていないことに飽き、汚いままの世界に飽き。飽きたと気づいたら「飽きた!」と言ってみて他のことをする。飽きに寛容であり続けた。すとさんも飽きちゃうならキャンバスは同時並行でたくさん描いてみるといいよ。と教えてくれたのでキャンバス6枚くらいをDJしていた💿。
飽きて破壊と創生を繰り返したこの旅で、とがみんが投げてくれた問いが今も頭の中をぐるぐしている。
「飽きる」ってどんな意味があるの
飽きることは私に何を教えようとしてくれてるのか。
もしかしたら階段を登るタイミングを教えてくれてるのかもしれない。
まだわからない。これはもう少し探求してみる。
🌒 帰還と日常
上の句に下の句を返してもらう関係性がこれからも私は必要らしい
私が駄洒落をボソッと言いたくなるのは、笑いをとりたいというよりも、「私はこんな時代を生きて来てその背景から今こんなことをいいたくなったのでもし響いたら同じ調子で返して〜」という拗れたコンテクストのやりとりをしたいから言いたくなるみたい。
上の句を説明なしで詠んでみて、相手がさらっと汲み取って返してくれた下の句をきいて一緒にふふっとなる感じ。
そんな関係性をこの4日間で浴び続けた。楽しく心地よい空間だった。
大事なことは全て逗子と絵の具が教えてくれた
と言ってみたかっただけなのですが。
こんなに「すみません」を言わない、人目を気にしない、気を使わない、出したい声を出したいときに出せた集団生活は過ごしたことがない。
描いた絵に対して上手も下手も言われず、そんなことがあったんだね〜ちなみに私にはこう見えたよ〜と分かち合える安心感。
流れていく、滞ってたものが。そんな循環と代謝を経て、居心地の良い環境の基準がわかった気がした。
初めて綺麗なものを思い出して泣く
帰って来てから、地上波もラジオもつけたくない。今は体育座りして音楽を聴いていたい。最後の素敵なカフェで流れていた音楽をずっときいていたい。この「寂しい」をなかったものにしたくない、味わって浸りたい。
おわってからはじまったもの
合宿が終わった今、心が緩み切っている。周りのひとにも驚かれた。1週間コーチングがご無沙汰でセッションのセオリーをまるっと忘れていた。でもそれなのに相手の内面に好奇心が向き続けている。相手を承認して共にいるってこのことかなとかぼんやり身体感覚として残っていた。
そして日常で対等じゃない関係性を浴びても、なにかミスしてしまっても、いつもの心臓がドキッとする感覚がなくなった。免疫というか耐性がなくなってしまったのかとも思う。
こんな状態で資本主義の海をどう泳げば良いのかとも思う。
えのきアンテナで強烈ワードをいつもぽんと置いていくお待たせしすぎすとさん、愛情でトーストとコーヒーを最高に美味しくしてしまう錬金術師ひでみんさん、赤い食べ物大好きやさしいおとことがみん、エネルギーはみ出しまくりまほちゃんとの最高の思い出でした。
おしまい。
みなさんの旅路
🙏 合宿、その後
この合宿で描いた絵をたまたまSNSに上げていたら、それを見た友人が購入したいと言ってくれて買ってもらう展開に。
自分の絵が対価と引き換えに誰かの手に渡るというお初の出来事でした。
絵は友人の新居へ移り、私は対価で新しい画材を買うという循環。
いろんなことが起こるなあ💭 というエピローグでした。
ちゃんちゃん🙏
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